クリエーティブ・ビジネス塾25「ジャズ②」(2018.6.18)塾長・大沢達男
青春の終わりに、アルバート・アイラーがいた。
1、新宿「ジャズ・ヴィレッジ」
人生、生きるに値するか。生きる意味はあるのか。石を積み重ねて塔をつくり、壊し、再び塔を作る、単純作業の繰り返し、それが人生。不条理。人生に意味などはない。人生は生きるに値しない。自殺こそが哲学の最大のテーマである。僕たちは、ニヒリズム、アナキズム、ダダイズムへ傾斜していきました。
彷徨の果ての最後の行き先は、新宿・歌舞伎町の「ジャズ・ヴィレッジ」。白くぬられた四角い狭い空間の作り付けのベンチ、まるで捕虜収容所。そこで、自殺志願者として、猶予の時間を過ごしていました。聞こえてくるのは「アルバート・アイラー」。音楽なんてものではない、ブタを絞め殺すような、わめき声があるだけ。絞め殺されているのは自分。アルバート・アイラーを聞きながら、生きていて済みません。人生は生きるに値しない。あれは、1967年の夏でした。
2、ジャズの終わり
新宿には「ビレッジ・ゲート」、「ビレッジ・ヴァンガード」(連続射殺魔永山則夫と北野武が働いていた)、「ジャズ・ヴィレッジ」(小説家中上健次が日参していた)、「木馬」、「ポニー」そして「DIG」(写真家中平穂積の店、後の「DUG」)、銀座に「69(ローク)」、東銀座に「オレオ」、吉祥寺に「ファンキー」、自由が丘に「5 Spots」(いそのてるおの店)、下北沢に「マサコ」、渋谷に「DIG」、そして横浜・野毛「ちぐさ」。都会の中心にはジャズ喫茶があり、学者、芸術家、学生が集まっていました。
しかし、1967年の夏にジョン・コルトレーンが死に、1968年に新左翼の登場、構造主義とポスト構造主義が始まり(『1968年』絓 秀美 ちくま新書)、そして1969年ウッドストックでヒッピーの登場、1970年アルバート・アイラーがイースト・リバーで死体で発見(三島由紀夫の死と同じ日)、時代は変わり、ジャズは終わります。小説家の中上健次、映画監督の北野武、作曲家の坂本龍一(新宿高校生の坂本はジャズ喫茶が勉強部屋だった)、芸術家を生んだジャズ喫茶は、ジャズの終わりとともにその使命を終えています。
3、四谷「イーグル」
ジャズが終わった1967年にオープンしたジャズ喫茶「いーぐる」で、第645回「い−ぐる連続公演」がありました。テーマは「1950年代のコルトレーン特集」、解説は阿部等、女性数人を含む30人程度の年配の観客がいる2時間ほどのジャズの勉強会でした。
"BLUE TRAIN"(1957)が鳴り始めたときに、泣き出しそうになりました。50年前に引き戻され、あの頃の自殺志願者に、対面せざるを得なくなったなったからです。言うまでもなく、ジョン・コルトレーンがいなければ、アルバート・アイラーの存在はあり得ませんでした。アイラーは、コルトレーンがすすめたジャズ革命の最前衛の闘士でした。しかし、今日のテーマは50年代のコルトレーン。”WHY WAS I BORN?"(どうして僕はこの世に生まれたの? 1958)で革命家コルトレーンは、まだ少年のように歌っていました。
その日「いーぐる」に集まっていたのは、団塊の世代より、やや若い人たちでした。身なりは普通。オシャレでも、とんがってもいません。芸術家、クリエーター、学者、あるいはその候補生も、生きる意味を捜す哲学的な不良も、見当たりませんでした。老いて、ジャズを楽しんでいる、リッチな人々でした。もはや、ジャズ喫茶から何かが生まれる、予感はしませんでした。やはり、ジャズは50年前に終わっています。
それは「いーぐる」で育った村井康司自身が、『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(シンコーミュージック・エンターテイメント)のなかで、証明しています。まず村井自らが育った「フュージョン」の説明に8項目!も費やし(p.225~6)、つぎに80年代以降の歴史にまとまりがつかないと告白し(p.272)、さらに「いったいジャズとはどんな音楽なの?」(p.274)という問いを、大著の最後になって発しています。
マンハッタンのジャズクラブ「FAT CAT」を行ったことを思い出します。5人編成のバンドは古典楽器「リュート」をフューチャーしていました。ルネサンス期の画家、ピエロ・デラ・フランチェスカが描くような青年の恋物語が聞こえてきました。ジャズは自由でした。そしてジャズはなにより音楽を発明していました。
「破壊せよ。何もかもためらう事なく破壊せよ。革命とはコードの破壊、法・制度の破壊の中にしかない」(『破壊せよと、アイラーは言った』p.181 中上健次 集英社文庫)。「ジャズは黒人の前衛音楽。(フリー)ジャズの命題は、ヨーロッパ=白人の知の体系を破壊すること」(前掲p.219 小野好恵の解説)。
僕たちのジャズは「聴くもの」ではありませんでした。聴くものに「創る」ことを、「発明する」ことを、求めていました。つまり『あなたの聴き方を変えるジャズ史』ではなく、「あなたの生き方を変えるジャズ史」でした。