クリエーティブ・ビジネス塾35「ディープインパクト」(2019.8.26)塾長・大沢達男
1、ダービー
ダービー馬とともに、自分の人生も振り返ることができる言ったのは、寺山修司だったでしょうか。
まず最初のダービー馬は1971年 のヒカルイマイです。2着はハーバーロイヤル。連勝複式5-5で5000円以上を取りました。就職して3年目、新入社員当時の仲間とつるんで、テレビの前で騒いでしました。
つぎは1973年のハイセーコーです。大井競馬でデビューし成り上がり、10連勝無敗でダービーに挑み敗れました。負けましが、いつか私もヒーローになる。みんなの夢を叶えてくれました。
そしてもう一頭、1976年ダービーに勝てなかったテンポイント。いやテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスの3強です。好きだったのはテンポイント。4戦無敗で、スプリングステークスの登場してきたときの、華麗なスタイルが忘れられません。ダービーで勝ったのは加賀武見騎乗のクライムカイザー。テンポイントは悲劇の死を遂げました。当時私の仕事は絶頂、無敗のテンポイントのようでした。しかし・・・、私もテンポイントの後を追うように、ヒーローになれぬまま、没落していきます。
68年タニノハローモア、70年タニノムーティエ、78年サクラショウリ、83年ミスターシービー、84年シンボリルドルフ、91年トウカイテイオー、92年ミホノブルボン、94年ナリタブライアン、98年スペシャルウィーク、04年ギングカメハメハ。ダービーの思い出は社会人になり始まり、仕事とともにありました。
最後は2005年のダービー馬ディープインパクトです。皐月賞、ダービー、菊花賞、無敗で3冠馬になりました。デープインパクトは14戦12勝。負けたのは3歳で挑戦した有馬記念の2着(勝ち馬はルメール騎手騎乗のハーツクライ4歳。着差は1/2馬身)。敗因は大雪でいつもの調教ができなかった。そして4歳で挑戦した凱旋門賞の失格(風邪の薬物使用。実際は3着、着差は首+α)。原因はフランス・シャンティの冷夏。風邪で調子を落としました。負けは負けですが惜敗。完敗、大負けではありません。
印象に残るのはダービーでの5馬身差の圧勝、そして4歳春の天皇賞3200m、最後1000mのロングスパート、結果は3馬身1/2のぶっちぎり。いつも最後尾の2~3頭から、すべての馬を抜き去っていくのですから、見ているものを陶酔させずにはおきません。かっこいい。そしてトップに立ってもゴール前のさらなる加速で、観客を熱狂させます。こんな馬はいません。
なぜディープは強いのか。まず人柄がいい(馬柄?)。武豊騎手は初めてディープにあったときに「目が澄んだ馬」と強烈なに印象づけられました。オーナーの金子真人は、「瞳の中に吸い込まれそうな感覚に襲われた」ことから、深い衝撃=ディープインパクトと名づけました。そしてディープは人なつこい。ディープは優しかった。知らない人が、撫でても、怒りませんでした。
つぎは体形、身体の柔らかさです。1枚の写真があります。セレクトセール2002当歳上場時、No.132ウインドインハーヘアの2002(ディープインパクト)の写真です(『Gallop追悼ディープインパクト』(産業経済新聞社 表2)。ピカソ7歳の時に描いたデッサンのようです。小柄ですが完璧な形をしたサラブレッドです。見ていてあきません。身体の柔らかさも特別でした。厩務員と前肢で握手しているような写真があります(p.77)。前足を水平以上に伸ばしています。普通の馬は水平まで上がらない(池江敏行調教助手、市川明彦厩務員)。天性の柔からさを持った馬でした。
そして飛ぶ走りです。ディープの1完歩は7.54m、他馬の平均は7.08m、約50cmの差がありました。
ディープのエアボーン(どの足も地面に接していない。空を飛んでいる瞬間)は0.124秒、他馬の平均は0.134秒。つまりディープは飛んでいない。滞空時間が短く、飛行距離が長い(p.76)。それが武豊騎手をして「飛ぶ走り」と表現させました。
3、作品
ディープが活躍していた頃、私はフリーのクリエーターとして、いつもひとりで勝負をしていました。ディープのように連戦連勝ではありませんでしたが、それなりの結果を残して来ました。
引退から10年、ディープインパクトは種牡馬として活躍し、不滅になりました。
その産駒から、ディープブリランテ、キズナ、マカヒキ、ワグネリアン、ロジャーバローズのダービー馬5頭、そしてG1の勝ち馬40頭を残しました(p.88~93)。こんなに強い血統の馬もほかに見当たりません。
ディープインパクトは2019年7月30日に死にました。17歳。
この10年、お前は仕事で勝ってきたのか。恥ずかしくない仕事をしたのか。不滅と言えなくてもいい。それなりの作品を残したのか。ディープインパクトは私にいつも問いかけてきます。