三島が直感し江藤が証明した、憲法の虚妄を、あの時の若者は学ぼうとしない。

TED TIMES 2020-48「三島由紀夫」 8/12 編集長大沢達男

 

三島が直感し江藤が証明した、憲法の虚妄を、あの時の若者は学ぼうとしない。

 

1、1970年10月25日

三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で、自決したその日、私は勤務先の電通の会議室にいました。翌年(71年)4月に行われる東京都知事選に出馬する秦野章候補のための選挙戦略のアイディア会議に出席していました。

入社して2年目、もちろん役立たずの人数合わせ。スタッフには東京芸大出身の都市デザイナーの大先生がいました。先生は万博で既に実績を上げていました。会議中に先生が、「作家の三島由紀夫が死んだ。自決したらしいね」と、つぶやきました。私はひどく驚き、動揺しました。<俺はこんなところで、こんなことしていいのか>。

でも都市デザイナーの先生は、「どういうことなんでしょうね。わからないですね」と言ったきり、何事もなかったように、白い紙に鉛筆を走らせていました。

前の年、69年の冬に一度、銀座で三島由紀夫を見かけたことがあります。松坂屋(今のギンザシックス)の裏あたりです。ボストンバックを持った軽装で、男性と二人、話しながら歩いていました。何かトレーニングの帰りでしょう。意外や、三島は小さい人でした。

もちろん71年1月24日の築地本願寺での葬式には一人で参列しました。川端康成葬儀委員長の姿をはっきり覚えています。三島由紀夫自衛隊の隊員の前で言いたかったのは、<自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね。ただのアメリカの軍隊になってしまうんだぞ>、つまり憲法改正です。

2、1969年5月13日

映画『三島由紀夫 VS 東大全共闘』(豊島圭介監督 ツインズジャパン制作)を見ていて、ただ三島由紀夫がなつかしくて、仕方がありませんでした。かつて三島を尊敬し、憧れていた自分に気がつき、感傷ばかりがありました。映画でいいのは三島だけです。東大全共闘の役者が出ていません。代表の山本義隆(1941年生まれ)は地下に潜伏中。東大助手共闘会議の最首悟(さいしゅさとる 1936年生まれ)は安田講堂で逮捕。さらに68年の東大駒場祭のポスター「止めてくれるな おっかさん 背中(せな)の銀杏が泣いている 男東大どこに行く」を書いた橋本治(1948年生まれ)は、いたのか、いなかったのか。

ディベートでは芥正彦(1946年生まれ)が目立ちました。発言内容はよくわからないないが相手を恫喝するのがうまい。要するに舞台度胸。当時は芥のような若者がたくさんいました。街中での知らない者同士の議論があたりまえで、新宿東口・二幸(にこう)の前には、議論する数人の輪がいくつもできていました。芥はきっとそうした集まりの中のスターであったに違いありません。日本中が、抽象的な議論に酔っていただけで、ディベート、プレゼンテーション、コミュニケーションになっていません。内田樹(1950年)、小熊英二(1962年)、平野啓一郎(1975年)、さまざまな評論家が三島と学生の討論を好意的に評価していますが、あまり意味があるとは思えません。

3、1979年10月24日

三島由紀夫自衛隊憲法改正を訴えて死んで9年後、評論家の江藤淳アメリカにいました。そして1979年10月24日に戦後史を塗り替える大発見をします。場所は、メリーランド州スートランド、アメリカ合衆国国立公文書館分室です。保管されている米軍の日本占領時代の膨大な文書の中から、江藤は「占領軍(SCAP=連合国最高司令部)が憲法を起草したことに対する批判」、「検閲への批判」をしてはならない、占領軍の日本への言論弾圧の動かぬ証拠を見つけ出します。そして検閲は米軍統合参謀本部の強い命令であったことを明らかにします(『閉ざされた言語空間』p.24 江藤淳 文春文庫)。検閲は、連合国最高司令部批判、極東軍事裁判批判、司令部の憲法起草批判、検閲制度批判、神国日本・大東亜共栄圏の宣伝などに及びました(p.237~241)。江藤は、検閲の狙いが<日本人の心に古来はぐくまれて来た伝統的な価値の体系の、徹底的な価値の組み替え>(p.241)を狙ったものだ、と批判します。

アメリカ製の日本国憲法は、正しかった。三島由紀夫が見抜いた憲法の虚妄を、江藤淳が証明しました。しかし遅すぎました(江藤論述の初出は『諸君!』82.2、文庫は94.1)。日本国憲法は検閲の力で「平和憲法」になり、「護憲」が革新「改憲」が保守と、逆転します。あの時東大にいた学生も、自衛隊の若者たちも、団塊の世代もニューファミリーのパパになり、アメリカの言論弾圧を問い直す若さを持っていませんでした。