TED TIMES 2021-2 電通の深層 1/8 編集長 大沢達男
やはり働いた者にしか分からない「電通」、そして電通での「過労死」はもっと理解できない。
1、高橋まつりさん
高橋まつりさんが亡くなったのは、2015年12月25日。三田労基署は高橋まつりさんの死を、仕事量と時間外労働の増加の心理的負荷による精神障害による過労自殺と結論づけました(『電通の深層』 p.27)。そして2016年12月28日に電通の社長と本社の幹部を労働基準法違反の疑いで東京地検に書類送検し(p.38)、電通は2017年に労働基準法違反罪で罰金50万円の判決を受けています。
つまり、高橋まつりさんの死は、ブラック企業の過労死として結論がづけられています。
企業は従業員を酷使し死に追いやる。資本と労働の対立。リベラルな主張とも言えないような、こんな古臭い理論フレームでまつりさんの死は処理されています。
しかし同じ電通で働いた経験があるものとしては、抽象的な「過労死」の結論は、到底理解できません。
1968年に電通入社の私自身100時間に近い残業をしたことがあります。100時間を超える残業をしていた仲間もいました。
上司の命令ではありません。クライアント(広告主、得意先)から仕事の依頼を受け、明日まで間に合わないから、チームの仲間と仕事をしました。
長時間残業は大変です。でもなぜ死を選ぶほど追い詰められたのか。わかりません。
『電通の深層』(大下英治 イースト・プレス 以下『深層』)に、その解明を期待しましたが、追及されていません。
残念ながら、「深層」ではなく、「表層」で終わっています。
電通の仕事は、広告の受注の仕事ですから、必ずクライアントがあります。
まつりさんはどこの仕事をしていたのでしょうか。トヨタでしょうか。花王でしょうか。サントリーでしょうか。味の素でしょうか。
クライアントの理不尽の要求に、それを営業ないしディレクター(上司)が断わることができなかったのでしょうか。
まつりさんは誰と仕事をしていたのでしょうか。
『深層』にあるように、電通はゾロゾロ揃ってクライアントに出かけます。営業、クエイエーティブ、マーケティング、SP、メディア。広告ではさらに、クリエーティブ・ディレクター、コピー、デザイン、CMプランナー。いまならウェブ・エンジニア、ウェブ・デザイナー、プログラマー、システム・エンジニアもいるでしょうか。
電通の仕事はチームワークです。まつりさんはどんなディレクター(上司)の下で、だれとチームを組んで、どんな種類の仕事をしていたのでしょうか。
仕事が見えてきません。『深層』はそこにメスを入れていません。
そして残酷ですが。まつりさんは誰の力で電通に入社したのでしょうか。コネです。入社試験もありますが、電通受験者には紹介者が必ずいます。
『深層』ではまつりさんが、週刊朝日でバイトをしていたといいます。なぜ朝日に入社しなかったのでしょうか。
朝日はダメだったから、朝日の幹部に電通への推薦状を書いてもらったのでしょうか。
東大卒でエリートとされていますが、電通の仕事では、特にクリエーティブの世界では、東大卒はなんの保証にもなりません。仕事ができず、転属、転職した東大卒の仲間がいます。
「休日返上で作った資料をボロくそに言われた。もう体も心もズタズタだ」(p.24)。
まつりさんのツイッターへの書き込みに驚きました。ほんとに残酷ですが、企画がボツになるのは、広告の世界では当たり前です。
「女子力がない」などの暴言をはいた上司は、ほんとに電通の人だったのですか。
先輩としては「深層」ではなく「真相」がある、と疑います。
2、クライアント
『深層』では、1業種1社をテーマにしていますが、それは古くて新しいテーマで、理屈上のテーマでしかありません。
1業種1社とは、たとえば、自動車業種ではトヨタ1社しか請け負わない。ところが電通はトヨタも、ホンダも、マツダやっています。
そのジレンマへの答えとして、電通はAE制をとっています。
AE(アカウント・エグゼクティブ)制とは、AEと呼ばれる営業部長以下のチームが、一つのクライアントのマーケティング広告活動のすべての責任を負うということです。
電通社内のAEがひとつの独立した会社のようになって、クライアントにサービスしています。
不思議ですが、トヨタの秘密が電通社内でホンダに漏れた、あるいは花王の新製品情報がライオンに渡ったなんてことが、事件になったり、話題になったことはありません。
ですから電通社員のクライアントに対する、忠誠心、自己犠牲、献身は並大抵ではありません。
電通は想像以上のサービス業です。クライアントたる親分に義理人情の限りを尽くす子分です。一宿一飯の恩義に忠義を尽くす忠犬ハチ公です。「滅私奉公」以上です。
そしてクライアントはそんな電通社員を大切にしてくれます。
高橋まつりさん。あなたはクライアントに信頼され、可愛がってもらっていましたか。
広告とは、企業の利益のために、消費者のくらしのために、そして社会をゆたかにするためのものです。
日本に古くからある近江商人の「三方よし」です。売り手よし、買い手よし、世間よしです。
伊藤忠商事は、「三方よし」を社是に掲げ、商社のトップを走っています。
トヨタは、「産業報国」、仕事を通して国の繁栄に報いる会社です。
花王は、「清潔な国民は栄える」、石鹸を通じて日本を豊かにする会社です。
あなたの企画書には「三方よし」の、その志がありましたか。
またクライアントとは、病院の患者です。
法曹界でのクライアントは、刑事・民事上の何らかの悩みを抱えた、弁護士への依頼人のことです。
クライアントという病人は、何を作ったら売れるか、値段はいくらがいいか、どこで売ったらいいか、どんな広告がいいか、の悩みを持っています。
広告とはその悩みに対する処方箋です。病人への治療法です。
高橋まつりさん。あなたの資料はクライアントに、解決法、処方箋を提案していましたか。
多分無理だと思います。入社してわずかに半年、あなたは、多種多様のクライアントの臨床例を持っていなかったはずです。
ひとりの力では、適切な投薬も、なんの治療もできない。
だからチームなのです。励まし合い助け合い、クライアントにサービスするのです。
あなたの上司(ディレクター)は誰だったのですか。
3、競合プレゼンテーション
『深層』のなかの「小説電通」は、高橋まつりさん、あなたが生まれる前の電通の話、私が所属していた頃、1970年代の電通の話です。
電通のことをドキュメンタリーで書くのはむずかしい、かならず電通につぶされる、だからというわけでフィクション・小説の形を選んだ実録物です。
当時の電通の首脳陣の名前が、実名でボロボロ出てきます。著者の大下栄治さんはよく調べています。よく勉強しています。
では小説として成功しているか、否です。
広告代理店の最大の華(はな)で、一番大切なプレゼンテーションが描かれていません。
マンモス電通がその力に物を言わせて、テレビCMの放送枠を独占し、さらにはクライアントの人事権を行使するようになる、権力の横暴ばかり描いています。
でも実は違います。広告代理店はその扱いを増やすために、電通を含め各社が、日常的にプレゼンテーションでしのぎを削っています。
競合プレゼンテーション(コンペ)こそ広告業界に生きるもののにとっての生きがいでしょう。
ひとつの新製品の広告提案をめぐっての戦います。
電通、博報堂、東急エージェンシー、3社競合ならまだしも、6社競合、8社競合なんていうのもあります。
各社が腕を凝らして広告表現(クリエーティブ)を考え、マーケティング、プロモーション、メディアのプランを提案するのです。
政府機関へのプレゼンテーションは間違いなく競合(コンペ)です。
電通では大きなコンペの場合まず社内コンペがありました。社内でA、B、Cの3チームが表現案を競います。そして優勝チームが本番にでるのです。
電通に扱いが決まっている場合でも、社内の3チームが競争し、クライアントにプレゼンすることもあります。
最近の国際コンペのプレゼンテーションは、なんといっても「東京2020オリンピック」です。
あのプレゼンテーションを見事でした。安倍総理はじめ、みんなが英語で完璧なプレゼンをやりました。
プレゼンのお手本です。日本の夜明けです。
プレゼンテーションではもちろん電通も協力しました。電通は世界でも勝ちました。
『深層』が、プレゼンテーションを扱っていないのがなんとも残念です。でないと電通の「真相」は見えてきません。
もちろん、プレゼンテーションなんて八百長だ、結局は裏金だ、の主張もあるでしょう。
でもそれは、読み物としては面白いかもしれませんが、ビジネスの本質ではありません。
たとえば、世界の3大スポーツ・イベント、オリンピック、ワールドカップ、F1、すべて八百長だ、ということができます。
なぜ、アジア人のIOCの会長がいないのか。なぜ、アディダスのボールがワールドカップの公式球なのか。なぜ、ホンダが勝つとF1のレギュレーションが変更されるのか。
いくらでも事実をあげて議論することができます。でもそれは白人帝国主義、西欧近代が生み出したリベラリズムの問題です。
面白いけれど、電通や広告代理店を超えた、別の次元の現代の問題です。
高橋まつりさん、それにしても不思議です。
あなたのお母さまの悲しみは痛いほどわかりますが、怒りがわかりません。
あなたが亡くなって5年後、「過労死はなくなっていない。風化せないでほしい」と、朝日新聞の取材に答えています(2020.12.24 朝日)。
あなたはお母さまを電通の運動会にご招待しましたか。ほんとにぎやか、縁日のようなお祭りです。
創立記念日にいただくお饅頭「デンマン」をお母さまに差し上げましたか。あまりの大きさにお母さまはあきれて笑ったはずです。
あなたが亡くなった寮の隣のグランドをお母さまと散歩しましたか。私は野球チームのピッチャーとして20試合ぐらい投げた仲間のヒーローでした。同じ時代だったらあなたにも応援に来て欲しかった。
お母さまを京都や伊勢にある社員寮にご招待しましたか。どれかひとつの経験でも、お母さまはぜったい電通ファンになっていたと思うのですが。
わかりません。残念です。あなたがお正月まで生きて、持って帰った電通のカレンダーを見るだけでも、お母さまの心は安らいだと思います。それもかないませんでした。
当時の社長の対応が悪かったのでしょうか。
弁護士の川人博氏がおっしゃるように、あなたは「鬼十則」に従って亡くなったのでしょうか。
私たちの時代の「鬼十則」は、飾りのようなもので、それについて熱く語る上司などひとりとしていませんでした。
資本と労働の対立。「過労死」などという一見リベラルな主張にあなたの死を利用していいものでしょうか。
『深層』に登場してくる、女性で電通関連会社の社長を務めたあなたの先輩は、
「女が仕事で死ぬと思う???」
と、あなたの死に疑問を提出しました。
まつりさん、なにがあったのですか。
ご冥福をお祈りします。
(以上)