TED TIMES 2021-6「ヘルムート・ニュートン」 2/12 編集長 大沢達男
「性のアンドロイド(人造人間)」を撮った。だからヘルムート・ニュートンは、最先端だった。
1、『white women』
ニュートンの最初の写真集は『white women』(1976)です。私が持っている本には、22.50と書いたシールが貼ってあります。あのころ毎年1ヶ月ほど、アメリカにロケに出かけていました。
多分、シスコかロスで買ったものでしょう。1976年1月が1ドル306円、変動相場制ですから動きます。はっきりしませんが、私は250円と覚えています。まあ5000円といったところです。
当時もそして今も、日本にファッションのカメラマンはいません。。あのころの操上和美、坂田栄一郎、篠山紀信が、いまでも人気があるのが、なによりの証拠です。
クリさん(操上)は男はうまいが、「女」を撮れるのかな。エイちゃん(坂田)はポートレート、「人物」を撮っている。紀信さん(篠山)も撮っているのは「人間」だよね。
そんななかで、ニュートンの存在は別格でした。ホテルでハダカを撮る、ストリートでハダを露出する、プールに浮いたカラダを撮る。あたかも「記憶のなかに以前からあったかのような」エロティックさ、しかし決定的に新しい。これこそがファッション写真でした。
2、『THE BAD AND THE BEAUTIFUL』
ヘルムート・ニュートン(1920~2004)のドキュメンタリー映画『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』(ゲロ・ファン・ベーム監督)は、驚きの映画です。
ニュートンの映画なんてあり得ないと、期待していませんでした。ところが、「写真家にかんするほとんどの映画がひどく退屈」、映画の中のニュートン自身の言葉に、目が覚まされます。
ニュートンは交通事故で突然亡くなったのに、あたかも死を予感したかのように、たくさんのメッセージを言葉と映像にして残していました。そしてニュートンは決定的な言葉を発します。
少年ヘルムートはレニ・リフェンシュタールと友達だったのです。秘密の暴露です。『オリンピア』(「民族の祭典」と「美の祭典」)、レニはあの歴史に残る名作で、光と水に戯れる若者たちの肉体を延々と描きました。ニュートンはユダヤ人、ベルリン・オリンピックとはユダヤ人を迫害したヒトラーの大会です。
肉体への美意識(エロス)は、喜怒哀楽の芸術(パトス)と言葉による哲学(ロゴス)を凌駕します。ニュートンは、エロとテロ、大脳のワニの脳「古皮質」(理性のヒトの脳「新皮質」でも、感性のウマの脳「旧皮質」でもない)で美意識を語る人だったのです。
リベラルもコンサーバティブも、デモクラシーもコミュニズムも関係ない。善良、道徳、人間性、そんな表層は忘れろ、愛も慰めも言葉はいらない、悲しみも怒りも優しささえもない。肌の触れ合い、性の快感、そして暴力だけが信頼できること、と言うわけです。
3、Helmut newton
「僕の写真は演出されていない。偽りではない。見たものに基づいている。男は青のスーツを着て、黒のシトロエン(フランスでは政府のクルマ)に乗っていた。シートには高級紙「ルモンド」があった。男は女を脱がし始めた。ブローニュの森で見たことだ」(『white women』でのニュートンの記述)。写真には、助手席の椅子が後部に倒され、全裸の女が横たわっています。ネクタイをしジャケットを着たままの男性が女のブーツを脱がそうとしています。男の顔は見えず、女は口を半開きして無表情です。「”Eiffel Tower” Paris 1974 」は、高級官僚が秘書を連れ出し、「カー・セックス」している写真です。でもスキャンダルでもスクープでも背徳でもありません。現象の中から本質だけを取り出し、再構成しています。そこには人間の本質、「性のアンドロイド」がいます。
映画のタイトルを、『THE BAD AND THE BEAUTIFUL』としたベーム監督は、最後までニュートンが謎だったにちがいありません。なぜならヘルムート・ニュートンは、悪でも善でもない、美でも醜でもない、男でも女でもない、人物でも人間でもない、「性のアンドロイド」を撮り続けたからです。写真の中の人間たちを見ればいい。笑いも、悲しみも、そして快楽すら奪われています。ニュートンは「性のアンドロイド」を撮りました。それは私たちの失われた記憶であり、AI(人工知能)に性欲がプログラムされるようになる未来の記憶でもあります。だからヘルムート・ニュートンの写真は最もエロティックなファッション写真で、決定的に新しかったのです。