『1968 若者たちの叛乱とその背景』(小熊英二 新曜社)への、野良犬の遠吠え。

TED TIMES 2021-23「1968」 6/7 編集長 大沢達男

           

『1968 若者たちの叛乱とその背景』(小熊英二 新曜社)への、野良犬の遠吠え。

 

1、文化の革命

『1968 若者たちの叛乱とその背景』(小熊英二 新曜社)は、上下巻の2000ページ、昔風に言うと「広辞苑二冊分」の膨大な分量です。

日大・東大闘争の学生運動を中心に、あの時代がなんであったかを、明らかにしています。ものすごい分量の資料がていねいに扱われ、実証的で、文章も明快です。

しかし残念。小熊は、「1968年の文化の革命」を否定し、「1968年の政治の革命」を主張します。

見当違いです。逆です。1968年は政治ではなく「文化の革命」でした。

なぜ見当違いをおこしたのか。

まず、1962年生まれの小熊自身が、1968年の空気を吸っていない街を歩いていない、からです。

つぎに、大学生を特権階級として扱っているからです。当時の大学進学率は、20%にも達していません。大学生は、当時の若者の5人に1人以下の少数派、エリート、お坊ちゃん・お嬢ちゃんです。しかも叛乱を起こしたのはほんの一握り。

そして、マルクス主義至上主義です。資本主義論を先験的に受け入れ、マルクス主義に関するイザコザばかりが論じられています。

1968年の街(ストリート)では、もっと本質的な文化の革命が起こっていました。それをこれから、証明します。

 

2、1968年のストリート・ウォッチング

1)ロック・ジャズ

新しいロック・ミュージックの歴史は、1967年のカリフォルニア州で開かれたモンタレー・ポップ・フェスティバルから始まります。

この時に歌われ演奏されたジミー・ヘンドリックスの『Purple Haze』(紫のけむり)、オーティス・レディングの『Satisfaction』、ママス&パパスの『California Dreaming』(夢のカリフォルニア)、スコット・マッケンジーの『Sanfrancisco』(花のサンフランシスコ)・・・これらの楽曲は、米国のみならず日本と世界の音楽シーンで、いまでも中心にあります。

モンタレーの伝説は1969年ウッドストックに発展します。

ジョーン・バエズの『We shall overcome』、ジャニス・ジョップリンLove somebody』、ザ・バンドの『I shall be releace』などが演奏され、ロックは若者文化の中心になります。

日本のニュー・ロック(野外、青空、大音響)の歴史は、1971年後楽園での「グランド・ファンク・レイルロード」(米国)の来日公演から始まります。

そして同じ1971年の「第3回全日本フォークジャンボリー」となって日本のロック・カルチャーも開花します。時代は、メッセージソングで男性人気の岡林信康から、日常を歌い女性に受けた吉田拓郎に変わっていきます。

イベントを支えたスタッフの後藤由多加、牧村憲一は、その後の日本のポップミュージック中心人物になります(70年代になり、私は電通のクリエーターとして、後藤とは吉田拓郎のことで、牧村とは大滝詠一のことで打ち合わせをしている)。

岐阜県の山奥、椛(はな)の湖畔にに3万人(ウッドストックは40万人)が集まったビッグイベントは、日本の音楽史に残るものです。

私は、モンタレーにもウッドストックにも行けませんでしたが、東京・後楽園、岐阜県・椛(はな)の湖、二つの日本の歴史的な音楽イベントを目撃した、いまでは数少ない日本人です。

1968年はジャズでも画期的な年でした。銀座に4~5軒のジャズ喫茶、ライブハウスがありました。時代はまだまだ、ロックよりジャズでした。

まず伝説のサックス奏者阿部薫(1949~1978)が、東銀座のジャズ喫茶「オレオ」でデビューしています(これは目撃していない)。阿部は芥正彦と交流がありました。芥正彦とはあの三島由紀夫との東大での論争で赤ん坊を抱えて登場した男です。

1968年の渋谷では、新宿の支店としてあった伝説のジャズ喫茶「DIG」が閉店し、1969年に松平維秋(1946~1999)によりロック喫茶「BLACK HAWK」として開店しています。道玄坂上の百軒店にあった「BLACK HAWK」は渋谷カルチャーの中心でした。イギリスのフォーク・ロック・グループ「ペンタングル」を聞いたのを覚えています(松平とは話したことがある。亡くなったのは今回知った)。

まだあります。1968年、自由が丘駅前にあったジャズのライブハウス「5 SPOT(ファイブ・スポット)」が、にぎわっていました。1970年代にはオスカー・ピーターソンが来店し、ピアノを弾き、若き小曽根真が天才ピアノ少年として紹介していました(現場にいた。オーナーでジャズ評論家の「いソノてルオ」さんがなつかしい)。

 

○1968年の私は、会社を抜け出しただひとり東銀座のジャズ喫茶「オレオ」に出かけ、フリー・ジャズアルバート・アイラーを聴いていました。音楽ではない音のカオスに酔いしれるはぐれ者でした。

 

2)映画・漫画

1968年、世界の映画界では、断然、ジャン・リュック・ゴダール(1930~)でした。ゴダールはこの年に、カンヌ映画祭に殴り込みをかけ、映画祭を粉砕しています。

日本の映画界では、まず大島渚(1932~2013)です。1967年『忍者武芸帳』、1968年『絞首刑』、1969年『新宿泥棒日記』と話題作を連発していました。

つぎに、ヤクザ映画です。池袋の文芸坐のオールナイト、高倉健の『網走番外地』シリーズの上映に、たくさんの若者が集まっていました。場内はタバコの煙でモウモウ、無法者の集まりでした。

ヤクザ映画ブームを象徴する1968年の東大駒場祭のポスターがあります。キャッチコピーは「とめてくれるなおっかさん 背中(せな)のイチョウが泣いている 男東大どこに行く」。ヴィジュアルはヤクザものの刺青姿でした。

そしてエロとテロのピンク映画。なかでも、若松孝二(1936~2012)が圧倒的でした。『処女ゲバゲバ』(1969年)、『ゆけゆけ二度目の処女』(1969年)が、新宿三丁目の地下の映画館で上映されていました。

さらに実験映画では、草月会館がありました。飯村隆彦(1937~)、金坂健二(1934~1999)がいて、1968年にフィルム・アート・フェスティバルが開かれていました。草月会館にも芸術家と芸術家志望の若者が集まっていました。今の時代では考えられない、熱気がありました。

大島渚の『忍者武芸帳』の原作は、白土三平(1932~)の『忍者武芸帳 影丸伝』(1959~62)でした。

白土は『月刊ガロ』連載の『カムイ外伝』(1964~1971)で、若き知識人(インテリ・ヤクザ)に、絶大な人気がありました。

同じような人気を持っていたジョージ・秋山(1943~2020)は、1968年に『パットマンX』で、講談社児童まんが賞を受け、1973年に『浮浪雲』(1973~2017)の連載を始めています。

漫画界のレジェンド・手塚治虫(1928~89)は、1966年『火の鳥』、1967年『バンパイヤ』、1968年『きりひと讃歌』、1973年『ブラック・ジャック』で、絶好調でした。

見逃せないのは、ナンセンスギャグ漫画です。赤塚不二夫(1935~2008)は、1967年に『天才バガボン』、『モーレツア太郎』の連載を始め、「鼻血ブー」、「アサー!!」の谷岡ヤスジ(1942~1999)は、1970年に『ヤスジのメッタメッタガキ道講座』(1970~71)の連載を始めています。不条理なストーリー展開、ドライなナンセンスギャグには、深いニヒリズムがありました。漫画は社会のアバンギャルドでした。

 

○1968年の私は、三島由紀夫が絶賛したヤクザ映画『総長賭博』(山下耕作監督1968年)に、いかれていました。<オレは単なる人殺しだ>。ロシアの革命家・ネチャーエフにあこがれるテロリスト志願でした。

 

3)演劇・アート

演劇も過激でした。寺山修司は1967年に『青森県のせむし男』、『毛皮のマリー』。1968年に『書を捨てて街に出よう』、1970年に葬儀委員長として劇画の主人公「力石徹」の葬式を行なっています。

一方で唐十郎(1940~)は1967年に新宿の花園神社で『腰巻お仙・義理人情 いろはにほへと篇』を上演しています。

ネットで情報を検索し、チケットが取れる時代ではありません。噂やアジビラ(フライヤー)で情報を集め、直接劇場に並んでチケットを買わなければならない時代でした。

アートでは横尾忠則に人気がありました。横尾は寺山修司の『毛皮のマリー』のポスターを描き注目を集め、日本のアンディ・ウォーホールのような存在でした。

アンディ・ウォーホール(1928~1987)は60年代、70年代の世界のアートシーンのカリスマでした。シルク・スクリーンで、マリリン・モンローエルヴィス・プレスリー、ジャクリーヌ・ケネディを描きました。

1968年には、アンディが女性による銃撃を受ける、衝撃的な事件が起きています。

造形作家では「耳」の三木富雄(1937~78)、「影」の高松次郎(1936~98)がいました。

1967年に新装なった「電通」のロビーには赤と青のコーポレートカラーに合わせて、三木富雄の赤と青の巨大な「耳」が飾られていました(電通のオーダーではない。原作は赤・青・緑の3原色の「耳」だった)。

 

○1969年私は、横尾忠則のアトリエを急襲しました。<ヨコオさんですね?>。横尾がドアをあけたとたんに8ミリカメラを回しました。横尾もすぐに「オー!カメラカメラ!」と叫んでいました。<ライバルはアンディ・ウォーホールだ>。私は、ハプニング・アーティストでした。

 

4)建築・ファッション

1967年電通の築地ビルは丹下健三の作品で、そのデザインは単なる一企業のビルではなく、壮大な「東京計画1960」の一部でした。

「東京計画1960」は、丹下研究室の若きライオン磯崎新(1931~)と黒川紀章(1934~2007)の二人も、加わり作られました。

都心から東京湾を超えて木更津まで伸びるその計画は、求心型放射状の「閉じた」都市構造ではなく、線形平行射状の「開いた」都市構造を持っていました。

さらに開いた都市構造は、東京都と大阪を結ぶ東海道メガロポリスとなり、日本列島の基軸を支えていました。

そして都市構造を構成するビル群は細胞をもった生命体としてメタボリズム代謝)していて、電通ビルはその象徴でした。

その後、丹下研究室から独立した二人は、日本の建築界を牽引するようになります。磯崎は1967年に「大分県立大分図書館」、黒川は1967年に「寒河江市役所庁舎」、の歴史的な仕事をしています。

ファッションの世界にも丹下健三のような大御所がいました。石津謙介(1911~2005)です。1964年の東京オリンピックの選手団のユニフォームをデザインした石津は、1966~68年にわたり国鉄、警視庁、日本航空ヤマハの制服をデザインし、日本を征服していました。

その石津の背後では新しい力がいまにも爆発しそうでした。川久保玲(1942~)は1969年に「コムデギャルソン」を、渡仏中の高田賢三(1939~2020)は1970年に「ケンゾー」を、山本耀司(1943~)も1972年に「Y’s(ワイズ)」を、設立していました。

石津は日本でしか通用しませんでしたが、次の世代はみな世界的なブランドを立ち上げています。

ファッションで忘れてはならないことがあります。ジーンズ(Gパン)です。1956年に東京・青山の「EIKO(栄光商事)」がジーンズの輸入品・中古品を扱い始めます。1960年岡山県・倉敷のマルオ被服が国産初のジーンズを生産販売します。そして1967年マルオの「ビッグジョン」の発売でジーンズは市民権を獲得します。

ジーンズは単なるファッションではありませんでした。「ニュー・ロック」に代表される「ニュー・カルチャー」の「ニュー・ピープル」のシンボルでした。ジーンズ、Tシャツ、スニーカーは、文化の革命のシンボルでした。

 

○1968年の私は、EIKOで買ったジーンズとTシャツ姿で、成城の丹下健三邸のまわりをうろついていました。丹下邸(現存しない)は、丹下の代表作のひとつでした。<ぼくはコルビジェに負けない>。モダニズムのアーティストを気取っていました。

 

5)テレビ・写真

1967年のテレビは『インベーダー』(NET)、『ザ・モンキーズ』(TBS)、1968年は『キャプテン・スカーレット』(TBS)、『荒野のアパッチ』(東京12)で、あまり面白くありません。団塊の世代は見ていません。

団塊の世代に影響を与えたのはそれより数年前、1962年の『コンバット』(TBS)です。第2次世界大戦ノルマンディ以降の米軍の戦いが描かれたこのドラマには、エリートのインテリ中隊長ヘンリー、実戦派のサンダース軍曹、そして狙撃兵のカービー・・・がいました。学生たちはゲバルト部隊の中での自分の役割をテレビドラマの誰かのイメージに重ね合わせていました。

そしてもうひとつ、日本の若者に影響を与えた米国製のテレビドラマがありました。1962年の『ルート66』(NHK)です。

ドラマのベースにはビート・ジェネレーションの記念碑的小説『オン・ザ・ロード(路上にて)』(ジャック・ケルワック)がありました。

アイビーのトッドとビートのバズが、シボレー・コルベットのコンパーティブルに乗って旅をする物語です。

ビートのバズのイメージが発展しヒッピーになります。スティープ・ジョブズはバズから生まれています。アイビーのトッドはいまでいえばビル・ゲイツのイメージです。楽天三木谷浩史はまさにトッドの発展形です。

電通にいた荒木経惟(1940~)は、1964年に『さっちん』で第1回太陽賞を受賞し、1968年前後には、銀座の「キッチンラーメン」店で写真展を開催していました。といってもラーメン屋の壁に写真を貼り付けただけの、ゲリラ写真展です。1971年に陽子と結婚し、『センチメンタルな旅』(私家版1000部限定)を発表し、72年に退社しています。

篠山紀信(1940~)は、1968年に『篠山紀信と28人のおんなたち』を、1971年に『オレレ・オララ』を発表しています。そして加納典明(1942~)は、1969年に『FUCK』を、さらに森山大道(1938~)は、1967年に『にっぽん劇場』を発表しています。

アエラ』(朝日新聞)の表紙写真を1988年の創刊以来30年間近く取り続けた坂田栄一郎(1941~)は何をしていたか。坂田は1966年からニューヨーク、リチャード・アベドンのアシスタントをし、ビートやヒッピーの風に吹かれていました。日本に帰国するのは1971年です。

1970年の私は、荒木経惟とYS11に乗り高知ロケに出かける、広告クリエーターでした。羽田空港で荒木を見送る女がいて、私は激写しました。<何だ!あのオンナは?>。後の荒木陽子です。

1968年の北野武ビートたけし)は、新宿のジャス喫茶「ビレッジバンガード」でバイトをしていました。たけしはバイトの遅番でしたが、早番には連続射殺魔の永山則夫がいました。

1968年の坂本龍一は都立新宿高校生で、学校より、むしろジャズ喫茶に通っていました。

みんな、だれも、前年、1967年7月17日のジョン・コルトレーンの死、ジャズ革命の旗手の死に、深い衝撃を受けていました。

一つの時代が終わり、そして新しい時代が始まろうとしていました。

 

○1968年の私は、新宿のジャズ喫茶「ジャズ・ヴィレッジ」に身を潜めていました。店内の長椅子とベニヤの壁は白いペンキが塗られていて、捕虜収容所でした。『Left Alone』(マル・ウォルドロン)が流れていました。私は捕獲された野良犬でした。

 

3、情報化社会

「1968年の政治の革命」を支えてきたマルクス主義は、30年後の1992年ソ連邦の解体により、崩壊します。

まず、マルクス主義の崩壊は、1960年代のSF小説で予言されています。

ロバート・A・ハインライン(1907~1988)は『異星の客』(1961年)で、グローバル・ヴィレッジ(地球村)を予言し、アーサー・C・クラーク(1917~2008)は『未来のプロフィール』(1962年)で歴史的決定論ではない未来学のグランドデザインを提示し、さらにアイザック・アシモフ(1920~1992)は『ロボットの時代』(1964年)で、ロボット工学の3原則を提示し、労働のない時代を先取りしています。

つぎに日本では、資本主義論に代わり、1963年に梅棹忠夫(1920~2010)が、画期的な『情報産業論』(TBS調査情報 )を発表しています。

『情報産業論』は、1960年のダニエル・ベル(1919~2011)の『イデオロギーの終焉』、1968年のマーシャル・マクルーハン(1911~1980)の『グーテンベルク銀河系』(竹内書店)、1970年のアルビン・トフラー(1928~2016)『未来の衝撃』を先取りし、世界の新しい時代を予言していました。

それは、階級闘争のない豊かな社会、工業化社会ではない脱工業化社会、メディアの発達によるグローバル・ヴィレッジ(地球村)、そして情報化社会の到来を宣言するものでした。

そして、マルクス主義の崩壊を、世界に先駆けて予言した日本人・小室直樹が登場します。

小室直樹(1932~2010)は、1966年に『社会動学の一般理論構築の試み』(岩波書店『思想』)を発表します。社会学パーソンズの構造機能分析と経済学のワルラス一般均衡理論を発展させ、社会変動を解明しようと試みました。

そしてその実証実験をなんと、ソビエト連邦社会主義を使い行いました。その結果が、1980年の『ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく』(光文社)です。

予言は的中しました。1992年にソ連は崩壊し、マルクス主義は終焉します。

 

4、結論

以上が1968年のストリートを歩いたものとしての証言です。

小熊英二の『1968』に異議を申し立てる証人は死んでしまいました。これが正史になって後世に伝えられるのは許せません。

小熊英二の『1968』では、一行すらも触れられていない、ことばかりを書きました。

文化の革命の本質は、時代が産業社会から情報社会に変わりつつあったことです。テレビと情報通信網が世界をネットワークしようとしていました。

そして「ユース・バルジ」=若者人口の爆発(『自爆する若者たち』グナル・ハイゾーン 新潮選書)です。新しい文化を、若者のイライラが、生み出していました。

「1968年は文化の革命」である。これで証明はおしまい。

と、思っていたら、とんでもない映画を見てしまいました。

 

5、山本義隆

伝説の「東大全共闘山本義隆」を、映画『きみが死んだ後で』(代島治彦監督 2021年)で、見ました。

なぜ私が「1968年は文化の革命」と主張したのか。山本義隆の存在があったからです。

セクトに属さなかった。優れた物理学研究者だった。アカデミズムに背をむけた。予備校講師に甘んじた。一切の取材を拒否した。沈黙を続けた。

<俺の生き方を見てくれ>。山本義隆の生き方は、新しく、説得力があった。そしてカッコよかった。

山本義隆は、「1968年は文化の革命」のシンボルでした。

しかし、裏切られました。

カリスマ・山本義隆は、映画のラストのシーンで、ホーチミンベトナムを訪れ、ベトナム戦争を回顧しながら、挨拶をしています。

山本は、リベラルな市民物理学者として、「ベトナム社会主義共和国」を訪れています。

<なぜ取材に応じた?>、<なぜベトナム?>、<きみの夢は共産主義だったのか?>。

山本義隆への夢は砕け散りました。

***

山本義隆の実像を知りたくなり、『磁力と重力の発見』(山本義隆 1、2、3。みすず書房 2003年)を、読みました。

テーマは西欧キリスト教社会で、近代自然科学、近代物理科学が、いかに成立したかです。

ギリシャ・ローマから、中世、ルネサンス、近代の始まりまで、アリストテレスからニュートンまでの歴史が扱われています。引用文献を見れば分かるように、山本は全て原典に当たっています。そのためにラテン語マスターしたそうです。

しかし、残念。直感した通り、近代自然科学の勝利を書いた山本義隆は、昔の名前で出ているだけの人でした。

第1に、近代科学は、オーストラリア、南米・北米大陸で、多様な生物を絶滅させ、先住民族すらも絶滅に追いやりました(『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳 河出書房新社)。 

第2に、西欧のキリスト教は、ヨーロッパ大陸の80%の森林を伐採しました。自然環境を破壊し、環境問題を作ったのは、麦作文明のキリスト教です(『森を守る文明・支配する文明』 安田喜憲 PHP新書)。

第3に、近代の理性主義・リベラリズムが、ヒトラーのファッシズムとスターリンの収容所列島を生み出しました。理性主義は人々を抑圧し殺害しました。(『産業人の未来』 ピーター・ドラッカー 上田惇生訳 ダイアモンド社)

そして第4に、ニュートンの近代自然科学に影響され、カール・マルクスは法則に満ちた『資本論』を書きます。

しかし天体の運動法則はたったの一つでしたが、社会の運動法則ではそれぞれの人が科学的真理を主張しました。科学は、党派、セクト内ゲバを作り、殺し合いをさせました。

『磁力と重力の発見』で、近代自然科学を礼讃する山本義隆は白人帝国主義者でしかない、ということになります。

山本義隆を批判しているのではありません。山本義隆をカリスマ視した私たちを批判しているのです。

 

6、再結論

1968年の文化の革命の始まり、1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルの話に戻ります。

あのときのテーマソングのように使われたのが、スコット・マッケンジーが歌った『花のサンフランシスコ』です。

この歌が1968年の文化の革命のすべてを表現しています。

 

「サンフランシスコ」(作詞作曲:ジョン・フィリップス 訳詞・アオヤマゴロウ)

 

サンフランシスコに行くのなら/花で髪を飾ってね

サンフランシスコに行くのなら/やさしい人たちに会える

 

国中で不思議が起こっている/みんなが動き始めている

全ての世代の人が考え方を変えている/みんながみんな動き始めている

 

だからね サンフランシスコに行くのなら/花で髪を飾ってね

サンフランシスコに行くのなら/夏の光が降り注いでいるよ

 

花とは、反戦、反抗、反暴力の象徴でした。花とは「フラワー・パワー」、「フラワー・チルドレン」の象徴、ヒッピーです。

ヒッピーの思想は、脱産業、脱文明、脱理性。環境破壊ではなく自然に帰れ、スーツではなくジーンズ、人間の感覚(意識下を含めて)の解放でした。

それがスティーブ・ジョブズ(1955~2011)に受け継がれ、パーソナル・コンピュータの開発、現在のスマート・フォンの繁栄につながります。

パソコンもスマホも開発の目的は、地球村の住むすべての人々が平等に発言できる世界を作ること、すべての人々、誰もが、音楽を作り詩・小説を自由に発表できる、愛と平和の世界を作ることでした(でもそれはビル・ゲイツの登場により、すべてはビジネスのために、と裏切られますが)。

スティーブ・ジョブズは、亡くなる6年前2005年6月、スタンフォード大学の卒業式のスピーチで「Stay Hungry Stay Foolish」の言葉を残します。

<ハングリーであり、愚者であれ>、<今に満足するな、常識にとらわれるな>、<足らざるを知る。知らざるを知る>。なかなか真意に近づけません。仏教徒スティーブ・ジョブズは、私たちよりはるかに仏教徒でした。

 

1968年の文化の革命は、私たちを「四弘誓願」の世界に、導きます。英訳はビート世代の代表的な詩人ゲーリー・スナイダージョブズのリード大学での先輩です。

  • 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) ー すべての生きとし生きるものを救いたいー
  • Being are numberless. I vow to enlighten them.
  • 煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) ー煩悩はまだいっぱいある それを断ちたいー
  • Obstacles are countless. I vow to cut them down.
  • 法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) ー学問はむすうのあるがすべて学びたいー
  • Dharma gates are limitless. I vow to master them.
  • 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) ーこの上もない仏の悟りをなしとげたいー
  • The Buddha-way is endless. I vow to follow through.

 

(完)