TED TIMES 2021-37「孤狼の血2」 9/17 主筆 アオヤマゴロウ
『孤狼の血 LEVEL 2』が、アカデミー賞を独占するのはよくない。ちょっと、せっかちですが。
1、白石和彌
『孤狼の血 LEVEL 2』(白石和彌監督 東映)は、完全無欠の映画です(ただし、映画館で買ったパンフレットは1100円、ボッタクリだ)。
まず役者がいい。日岡秀一巡査の松坂桃李、上林組長の鈴木亮平がいい。なぜ日本のハンサムはヤクザを演じるといいのでしょう。かつて三浦友和が『悲しきヒットマン』(一倉治雄監督 東映 1989年)でヤクザで登場した時、背筋が寒くなったのを思い出します。いい奴ほど悪を演ずるといい。まあ、考えてみますと、鶴田浩二、池部良、高倉健、歴代のヤクザ映画の主人公はみんな美男子でした。ともかく、松坂桃李、鈴木亮平は完璧です。
つぎに撮影、編集、効果、音楽すべていい。ヴァイオレンス、アクション、サスペンスを描き切っています。そして脚本もいい。博徒としてのアウトローを貫くヤクザとシノギのためにビジネスに走る近代化ヤクザの対立、現場の巡査と官僚体制の県警の対立、これも完璧です。白石和彌監督は前作『孤狼の血』に続いて傑作を生み出しました。来年のアカデミー賞で話題になることは間違いありません。
しかし、残念ながらこの映画は、映画を発明していません。三島由紀夫が絶賛しヤクザ映画に市民権を与えた『総長賭博』(山下耕作監督 東映 1968年)、『仁義なき戦い』シリーズの最高峰とされる『県警対組織暴力』(深作欣二監督 東映 1975年)の延長線上にある映画で、映画の革命を起こしていません。
2、暴力団対策法
映画の舞台は1991年(平成3年)です。暴力団対策法が施行されるのは1992年ですから、ヤクザにとっては最後の年です。
映画では上林組長が両目に攻撃を加える猟奇的なキャラクターとして描かれていますが、これは明らかに山口組3代目田岡一雄をイメージしたものです。田岡は誰もやらない「目への攻撃」の喧嘩で無敵を誇りました。その田岡は1981年に、田岡の庇護を受けた美空ひばりも1989年に、亡くなっています。1992年の暴力団対策法により、口止め料、みかじめ料、寄付金、債権の取り立て、地上げ、示談・・・シノギの全ては違法行為になり、ヤクザと暴力団は成立しなくなります。そしてウィンドウズ95の登場、インターネットの時代になり、暴力団も時代も新しい時代に入ります。1991年を舞台にしたヤクザ映画『孤狼の血 LEVEL 2』は、いわばナツメロです。どんなバイオレンスを描こうと”old days but good days”(古き良き昔)の映画になってしまいます。
問題は、令和の今の暴力団はとは、ヤクザとは、シノギとは、何なのか。逃げずに、そこを描くことです。
3、幡随院長兵衛
侠客、ヤクザは、江戸時代初期(家光時代)の幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)から始まります。
戦乱の乱世から徳川幕府の中央集権体制への移行の中で、存在目的を失った不平分子、旗本奴と町奴(まちやっこ)の「かぶき者」がいました。町奴は、派手な服装で江戸の街を闊歩し、てめえ(手前)、しねえ(しない)、ひやっこい(冷たい)などの言葉を使う、男伊達でした。町奴の頭となったのが「男の中の男」、「大江戸の華」と呼ばれた幡随院長兵衛です。彼は「口入れ業(人材派遣業者)」を営み、城壁の修理、長屋の建築、武家屋敷の奉公人、大名行列の供回りなどの仕事を、町奴に紹介し「シノギ」(ヤクザ、暴力団の収入)を与えました。
現代の警備会社と警備員(ガードマン)は江戸時代の口入れ業にそっくりです。警備員は男伊達ではありませんが、もとは運転手、料理人、クリーンング屋、広告屋、現代の矛盾を一手に引き受けています。
パラリンピックの警備では、タコ部屋のような宿舎(宿舎に食堂なし、コンビニまで往復1時間)を与えられ、「ダイバーシティ(多様性)」、「インクルージョン(包括)」が理念の組織委員会から、3食コンビニ弁当で12時間労働の虫けらのような扱いを受けています。
またインターネット・光ケーブルの工事現場警備では、休憩なし、食事なしで、8時間労働と、巨大なIT企業(の下請け)から、産業革命時代のような悲惨な労働を強いられています。
現代には警備員を守る幡随院長兵衛はいません。時代の「悪の総量」が変わらないとすれば、現代の悪は、国家やIT企業に集中しています。新しいヤクザ映画はここに構想できます。