TED TIMES 2022-05「束野耕一郎」 2/11 編集長 大沢達男
畏友・束野耕一郎を追悼する。
束野耕一郎(つかのこういちろう)
1943年生まれ 1962年都立青山高校卒業 (同級生に『青春の墓標』の奥浩平がいた) 1963年一橋大学入学
1967年川崎製鉄入社、98年同社取締役、01年同社常務取締役、03年JFEケミカル社長。09年束野ビジネス・コンサルティング代表取締役社長。
一橋空手道一空会理事長、100歳現役を目指す会理事長。
「生涯計画」 100歳ビジネス現役・富士登山・空手演武、111歳 皇寿を目指す。
2021年3月 77歳で死去
1、ツバロン
古い手帳を探すと、2010年6月26日・青高の同窓会とあったから、多分その日の晩だったと思います。
もう12年前の話です。
夕方7時ぐらい、東京駅で地下で、君(束野)と会いました。忙しいスケジュール中から、わざわざ時間をとってくれたのです。
岩手から上京してきた種倉、そして神楽坂の上田も一緒でした。
君は3枚の名刺を出しました。
1枚目は「JFEスチール・社友」、
2枚目は「一橋空手道一空会・理事長」、
君は思わぬ話をしました。
川崎製鉄がブラジル・ツバロン製鉄所から撤退するときに、この製鉄所の育ての親とでもいうべき束野耕一郎に、一切相談せずに「撤退」の決済がなされたという会社の内輪話でした。
なぜ束野は無視されたのか。
束野に相談すると、誰が行っても「撤退」は束野によって論破されてしまい、話が前に進まなくなってしまうから・・・。
君は、JFEケミカル社長になりますが、社内の権力闘争に敗れたことは、明らかでした。
6万人の従業員を抱えるJFEに対して、JFEケミカルはたったの500人、君はなんと100分の1の子会社に追いやられました(それでも大会社ですが)。
だれに敗れたか?君はその人の名前を言いませんでしたが、明らかでした。
その後JFEの社長になり、さらには日本の経済界の大物になる男が、君の前に立ちはだかったのです。
そして君は、なぜ敗れたかを知り、絶望します。勝負は、大学を選んだときに、いや高校を選んだときについていた。
しかしそれは、君だけにしかわからないことでした。
2、 一橋大学
私(大沢達男)は青山高校の入学した頃、160センチにも満たない、坊主刈りのチビで、幼稚でした。
同級生の川崎、丹羽、杉田(故人)は完成に近い若者でした。
友田(故人)と束野の短距離のマッチレースを見るのが、楽しみでした。
校門から校舎に向かって二人は競争しました。
友田はストライド走法のカール・ルイス、束野はピッチ走法のベン・ジョンソン。
もちろん当時は、ルイスもジョンソンもいません。ボブ・ヘイズ(米国)やアルミン・ハリー(西独)の時代です。
いつか二人の若者に追いつくんだ、私は憧れを目で君を見ていました。
君は長身でも巨漢ではないが、厚い胸板の体は出来上がっていました。
君は、政治、思想、芸術についても、強そうでした。
安江や千谷、青高の「インテリ」と議論しても、負けないような気がしました。
学校が終わったら、『ビーバーちゃん』、『ドビーの青春』、『ララミー牧場』・・・
テレビだけが楽しみな私とは、生きている次元が違いました。
私の頭には、マルクスも清水幾太郎も、ヘルマン・ヘッセも太宰治も、反戦高協(中核派の反戦組織)も平民高協(日共系の高校生組織)もありませんでした。
しかも君は、平松や今泉などの硬派にも一目置かれていたらしく、
堂々とガールフレンドと二人で行動を共にしていました。
しかし青春はわかりません。浪人した私は、なんと君と同じ一橋大学を目指すことになり、君の手引で9月から予備校の「偽」学生になり、君の指導を受けるようになります。
君の数ヶ月の指導で私は成績を飛躍させます。
模試で一橋大学への80パーセント合格の点数をマーク。・・・憧れの君と同じ大学に行ける・・・
しかし入試で私は、生涯で最大の失敗をし不合格、横浜市立大学へ、君は当然のように一橋大学に進学します。
なぜ君が、私を親切に指導してくれたか、わかりません。
許せ!不合格は申し訳なった。
しかし今から思うと、不合格は神の采配、一橋は私に合っていない。その後私は広告屋として、野良犬のように生きることに、なるのですから。
話はそれで終わりません。
3、 伊豆下田
大学1年の夏休み、君、川崎、一橋大学での君の友人・尾崎と私の4人で、伊豆下田に2泊3日で遊びに行きました。
4人で下田湾の数百メートル沖にある島まで、泳いで行くことになります。
下田湾に波はありませんが、初めての海で泳ぐのは、危険なことです。障害物、水温差、潮の流れ、を知っておかなければなりません。
トップを泳いで行ったのはもちろん君、私は少し遅れて、恐る恐るついていきました。川崎と尾崎はさらに遅れていました。
君はうまく泳いでいました。しかし、その泳ぎは遊泳、遠泳で、競泳ではありませんでした。
16歳の頃、泳げなかった私は、上田・香川に誘われ、神宮プール(ドン・ショランダーやロイ・サーリが泳いだ)で泳ぎを覚えました。
そして19歳の私は、昔のチビから、大きく変貌を遂げていました。
体育の教師・重田が、私の成績につけた「9」(ただし一度だけ)の才能が、開きつつありました。
さらに金沢八景の大学に入学してからは、逗子と葉山の海で泳いでいました。
平泳ぎの世界チャンピオン、チェット・ジャストレムスキーに憧れていました。
ゴールの島まであと50メートルになったとき私は、水を強くキャッチするためにストロークの角度を変え、水を胸に抱え込みスピードをあげると、軽々と君に追いつき、抜き去りました。
そして上陸。どうだとばかり、仁王立ちしました。
・・・しかし、次に上陸するはずの君の姿が見えませんでした。
君は、島に上陸せず、島を周回し、浜辺に帰るコースをとっていました。
後から泳いできた川崎と尾崎が、島に上陸し休息したのはいうまでもありません。
君は私への負けを認めませんでした。
4、ゴルフ
先日丹羽から、青高のゴルフ会への誘いの電話が、突然かかってきました。
ほんとにびっくりした、死んだ君のいたずらか・・・、丹羽が幹事をやってくれているのです。
ゴルフ会では、川崎、酒巻、丹羽が、うまいとされています(だから永久幹事を提案しています)。
酒巻とだけは、青高のゴルフ会で二度ほど、一緒に回りました。
私がチョロっているわきで、風切り音もすごく、150~200ヤード先のピンを目指して、ぶっ飛ばす。
でも、ティーショットの距離はさほど変わらない。寄せなら、「クギ刺し」と「ビー玉」で鍛えた、距離感がある。
いつかチャンスはくる(年1や年2のゴルフじゃダメか)。
そこで私は、80歳にエイージシュート(ただし、ハンディキャップ込みで。黙認してくれ、川崎)を達成すると、ホラをふいています。
100歳いや、111歳の皇寿(こうじゅ)まで生きるといった、誰かさんに似てきましたね。
まあ、ゴルフはどうでもいい。
君と酒巻を交えて、ガダルカナルや日系アメリカ人の情報将校(スパイ)の話を、したかった。
5、奥浩平
君は、『青春の墓標』(奥浩平 文藝春秋)の奥浩平とは、友達だったのですか。
亡くなってから半世紀以上、「奥」は完全に歴史にその名を刻まれる人になりました。
『中核と革マル』(立花隆 講談社文庫)、『1968 若者たちの叛乱とその背景』(小熊英二 新曜社)、二人の知識人は、大々的に『青春の墓標』を取り上げています。
さらには現代を代表する論客・佐藤優も近頃、池上彰との対談で、奥浩平に触れています。
私は同じ横浜市立大学の通っていましたが、レベルの差がありすぎて、「奥」の話し相手にもなれませんでした。
安江も同じ大学にいました。
<奥の兄貴は、あの本の印税で、電話を引いて、クルマを買った>
安江らしく話していました。
君とマルクス主義に関する話を、さらには経済学のスミス、ハイエクやフリードマンの話もしたかった。
いま、私の友人には、京都大学出身の朝日新聞・元論説委員と東京大学出身の毎日新聞・元論説員がいます。
彼らを含め6人で新年に、「朝日、毎日、読売、東京、日経、産経(そして「フィナンシャル・タイムズ」)の元旦社説ランキング」という、催し物をやりました。
私だけが右。他はリベラル。彼らは鎖国しているかのような「平和と民主主義者」、ほんと困ったものです。
そういえば、一橋大学の先輩・石原慎太郎さんが先日、そちらに行きました。
君とは話が合うんではありませんか。
マスコミはあれこれ石原さんを持ち上げていますが、誰も、『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』(石原慎太郎 幻冬社)には触れません。
亡くなる直前になって、忘れ物でもしたかのように安藤さんのことを書いた、石原慎太郎さんが私は好きです。
6、空手
ツバロンの話に戻ります。君はなぜ権力闘争に敗れたか。
友人の元新聞記者の話によれば、霞ヶ関では東大以外はその他大学と呼ばれている。
そして政治家・官僚・財界を取材する、朝日新聞・政治部自体も東大法学部に独占されていた、そうです。
川崎製鉄で君の前に立ちはだかったのは、他大学出身ですが兄も弟も東大しかも小泉首相と姻戚関係にある、巨大な権力構造の中の一人でした。
君がJFKケミカル社長に追いやられたときに、全ては終わりました。
政・財界に転身する君の野心は封印され、日経の「私の履歴書」に君の名が載る可能性はなくなりました。
君は敗戦を悟り、「100歳現役」を、言い出しました。
こんなことを言うのは、ほんとに辛い。
君が飛び込んだのは、私たち青高出身者がわかろうとしてもわからない、世界ではなかったのですか。
それにしても束野、君はなぜ死んだ。
私はあなたが目標でした。
昔の年賀状に、空手の稽古を続けている、と書いてあったではありませんか。
そうだ、稽古だ! 私は75歳のときに、和道流空手に入門しました。
そして、「100歳で束野に挑戦」を夢に、今日まで稽古に励んできました。
それなのになぜ。
私は誰かさんにそっくりになりましたが、皇寿を目指しません。
一日一生。いつ死んでもいい野良犬。
私は、スティーブ・ジョブズのような、セックス・ドラッグ・ロックンロールのヒッピーです。
我悲し 故に我あり 東雲(しののめ)の クラリネット 五重奏曲
友の死の 葉書を手にし 目を閉じる 入試で分かれた 二人の人生
Tchau(チャオ!さようなら!思い出のツバロンのポルトガル語で)。
令和4年2月11日(建国記念の日)
大沢達男
以上。