TED TIMES 2022-06「セロニアス・モンク」 2/20 編集長 大沢達男
「モンクを語れなければ、ヒッピーとは云えない」。そりゃ、大変だってんで、モンクを勉強しました。
セロニアス・モンクはお好きですか。
ジャズピアニストです。名前ぐらいは聞いたことがあると思います。
実は私もそうなんです。名前だけはよく知っていました。でも、モンクって何? って訊かれ、答えることはできませんでした。
ジャスピアノでよく聴くのは、キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』(1975年)。ほかにバッド・パウエル、チック・コリア、マッコイ・タイナー、オスカー・ピーターソンさらには、デューク・エリントン。
日本の山下洋輔、佐藤允彦、小曽根真、上原ひろみも。聴いています。
しかし、セロニアス・モンクに対しては、マイルス・デヴィスとジョン・コルトレーンの演奏で死ぬほど聴いているのに、はっきりした感想を持っていませんでした。
映画『モンク』と『モンク・イン・ヨーロッパ』が上映されることになりました。そこでセロニアス・モンクの猛勉強を始めました。
といっても『セロニアス・モンクのいた世界』(村上春樹 新潮社)を読んで、文句を手当たり次第、モンクを聴いただけの話ですが。
2、ファイブ・スポット
「セロニアス・モンクが長期出演を続けている間、「ファイブ・スポット」を盛り立てていた常連に、ニューヨーク文化の様々な分野で最先端に立つ著名人たちが加わるようになった。
ジャック・ケルアック(彼の小説『オン•ザ・ロード』はその年の終わり頃に出版される)、
詩人のフランク・オハラ(彼は作家たち、画家たちの、ゲイたちとストレートたちの、アップタウンのボヘミアンたちとボヘミアンたちの熱心な仲介者となる)、
そしてアレン・ギンズバーグ(詩集『吠える』が前年に出版され、その時代の最も高名にして、最も毀誉褒貶の激しい詩人にとなった)。
その他の常連客としては戯曲家にして詩人、ブラック・アート・ムーブメントのパイオニアでもあるリロイ・ジョーンズ(彼は夫人のヘッティーと共に、その店の真向かいに引っ越してきたばかりだった)、
レナード・バーンスタイン(『ウエスト・サイド物語』のリハーサルを終えたところだ)、
そして写真家にして映画監督のロバート・フランク(画期的な写真エッセイの本となる『アメリカ人』を完成に近づけていた)などの名前があげられる(『セロニアス・モンクのいた風景』 p.135~6 デヴィッド・カスティン 村上春樹 編・訳 新潮社)。
『セロニアス・モンクのいた世界』のこの一節を読んで、衝撃を受けました。
モンク?あんまりよくわかんねーや!調子はずれの音は、あまり聞きたくもない時もあるよね。
馬鹿なことを言ってられなくなりました。モンクを知らなくても、私はモンクとその時代の影響を受けていたことを知ったからです。
モンクを知らないでは、すまされなくなりました。
大好きなジョン・コルトレーンは、ニューヨークの「ファイブ・スポット」で、1957年7月から12月、セロニアスと仕事をし、その後の音楽の方向性を決定し、『セロニアス・モンク・ウイズ・ジョン・コルトレーン』、『モンクス・ミュージック』、そして『ライブ・アット・カーネギー・ホール』を残しています。
3、セロニアス・モンクの音楽
「ウェブスター辞書は『天才(genius)」という言葉に八つの違った定義を与えている。セロニアス・モンクに相応しい定義はこういうものだ。『科学や絵画や音楽の分野で、創造的かつ、オリジナルな業績を産み出す、生来の知的能力。(例)モーツアルトの天才』」(p.248 ジョージ・ウィーン)。
「彼の和声的アプローチはおおむねのところ、正しく不協和のコードを探り当てることのできる、類い稀な音感に基づいている」(p.70 ナット・ヘントフ)。
「彼は本質的にはピアニストとしても作曲としても独学の人だった」(p.87 ナット・ヘントフ)
「セロニアス・モンクは『バップの高僧』という名で知られている。しかしピアノ奏者としての彼自身のフレージングには、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのアーティキュレーションやインプロビゼーションと相通じるところはない。彼らと関係性を持ち、またかの影響が最も強く見受けられるところは、ハーモニーの構造と和音のヴォイシングである」(p.250 ジョージ・ウィーン)。
筆者注:「アーティキュレーション」とは、旋律ではない、フレーズでもない、音の形、音と音のつながり、強弱、表情、スラー、スタッカート、レガートなどです。
また「ヴォイシング」とは、ドミソ、ドソミ、ドソミソ、音の垂直的な間隔と並び順を、そしてそれぞれの音にどの音を担当させるかを決めることです。
「ピー・ウィー(筆者注:ピー・ウィー・ラッセル クラリネット奏者)は、知っているように、聴く人が全く予想しないような魔の取り方をして、それが彼の演奏の魅力のひとつになっている。モンクも同じだよ」(p.251 ジョージ・ウィーン)。
「彼の音楽はパーソナリティに満ちており(中略)ヨーロッパ文化に対して親密な、しかし両義的な繋がりを求めるとこもなければ、腰を低くしてへつらうこともない」(p.65 ナット・ヘントフ)
ジャズ評論家の村井康司は「モンクというジャンル」という言葉でセロニアス・モンクを語っています(『あなたの聴き方を変えるジャス史』( p.144 村井康司 シンコーミュージックエンターテインメント)。
ビバップの始まりとともにモンクは登場しますが、モンクはビバップではない。「モンクというジャンル」の音楽でしかないというのが、村井の主張です。
膝をポンとと叩き、座布団を一枚、と言いたくなります。
「調子外れ」、「ヘンなリズム構造」は、モンクだけのもので、それは、誰もマネできず。誰にも継承されませんでした。
映画『MONK』(1968年 マイケル&クリスチャン・ブラッドウッド監督)ではセロニアス・モンクが独走しています。そんな時のモンクは魅力的ではありません。
カルテットのメンバーのだれひとりも、彼に異議申し立てをしません。イエス、サーばかりです。会話や討論がありません。ソロの場合もそうです。ただモンクが演説しているだけです。
ところがマイルス・デヴィスやジョン・コルトレーンが入ってくると、音楽は一変する、モンクも戦わざるを得なくなるからです。だから演奏はスリリングになる。みんなが作ろうとして競い合う。
結論として、マイルス・デヴィスと演奏したから、ジョン・コルトレーンと出会えたらか、セロニアス・モンクの存在意義があったのだ、といえます。
4、音楽
1960年代から70年代、音楽は私たちにとって、特別な地位にありました(つまり「ウッドストック」以降の時代)。とくに「ジャズ」や「ロック」は別格でした。
音楽を聴いて楽しむ。音楽はそんな「軽薄」なものでは、ありませんでした。
ジャズやロックは生き方そのものでした。当時は「ニュー・ミュージック」(決していわゆる「Jポップ」の意味ではない)、「ニュー・ピープル」という言葉もありました。
なぜ音楽は生き方のなのか。
大音響の音楽を聴くことは、抑圧されていた感覚を開放し、人間を自由にすることでした。
ビートやリズムで体を動かすことは、新しい感覚に身を委ねることでした。無意識や潜在意識を解き放つことでした。
そしてそのことが、西欧が作り上げた近代的理性を超克する道でした。
近代文明が産んだ宇宙船地球号に、未来はありませんでした。
「セックス・ドラッグ・ロックンロール」が、人類の未来を指し示すスローガンでした。
未来は、新宿「DIG」、「ジャズ・ヴィレッジ」、「ヴィレッジ・ヴァンガード」、渋谷「ブラック・フォーク」、下北沢「マサコ」、横浜「ちぐさ」にありました。
未来は、中津川「フォーク・ジャンボリー」、万博「8・8ロックデイ」、日比谷野音「10円コンサート」にありました。
未来は、高円寺「次郎吉」、新宿「ロフト」、原宿「ピテカントロプス」、六本木「ピジョン」、京都「磔磔(タクタク)」にありました。
音楽に接する私たちの目的は、聴いて楽しむのではなく、生き方を、未来を探すことでした。
誤解しては困りますが、『(ニュー)ミュージックマガジン』を編集した中村とうよう氏のようなリベラリストや共産主義者になれ、と言っているのではありません。
左翼でなければジャズやロックを語る資格がない、という当時の日本の音楽言論界はサイテーでした。
ところで、
平成や令和時代のジャズやロックは衰退していませんか。
音楽は、新しい世界観や新しい生き方を提案していますか。
音楽は、平和と繁栄のマニアックなオタク文化になっていませんか。演奏や録音のウンチク話やディスカッションの道具になっていませんか。
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ショパン『ピアノ協奏曲第1番』で、ショパン国際ピアノコンクール第2位になり、世界の注目を集めた反田恭平(そりたきょうへい)がいます。
反田は、1万人の音大卒業生がいてもプロになれるのはゼロパーセントに近いという日本の音楽業界と音楽教育を変えるために、自分が実行できるパワーを持つために、ヒゲとチョンマゲのサムライスタイルでコンクールに出場しました。
反田は、世界観と生き方を提案しました。そしてその音楽は私たちを感動させました。
現代のセロニアス・モンクといえば、反田恭平です。
(END)