THE TED TIMES 2022-10「ブルーノート」 3/22 編集長 大沢達男
ブルーノート・レーベルと『ザ・サイドワンダー』。
1、『ザ・サイドワインダー』
ブルーノート・レーベルの代表作『ザ・サイドワインダー』がリリースされたのは1964年です。東京オリンピックの年で、横浜にある大学に通っていました。
21歳の私は、フランスの実存主義に影響を受けていて、学生運動の主流であったマルクス主義とは距離をとっていました。横浜の「ちぐさ」、新宿の「DIG」、「ヴィレッジ・ヴァンガード」、「ジャズ・ヴィレッジ」、「木馬」、「ポニー」・・・ジャズ喫茶ではコーヒーとタバコで2~3時間を過ごし、「人生生きるに値しない」とジャズを聴きながら「哲学」していました。
好きなのはジョン・コルトレーン、まさにコルトレーンの音楽は実存主義でした。ですから1967年の夏に、「コルトレーンの死」を新聞で知ったとき「この世の終わった」、と驚きました。
『ザ・サイドワインダー』は、『サキソフォン・コロッサス』(ソニー・ロリンズ)や『直立猿人』(チャーリー・ミンガス 注:当時はチャールスではなかった)などと並んで、定番のようにかかりました。
ジャケットデザインが印象的でした。上の3分の1にトランペッターの写真、その下の3分の1に墨文字「THE SIDEWINDER」の1行と、赤文字「LEE MORGAN」1行、下の3分の1はホワイトスペース、完璧なグラフィック・デザインでした。
そして曲は、ジャズ・ロックのようで親しみやすくおしゃれなでした。さらにタイトル「サイドワインダー」は、はじめサイダーの一種かなと漠然と想像していましたが、「ガラガラヘビ」と知って、「へー!?カッコいい!」。
当時私は幼くて、タバコを吸っていましたが、アルコールは口にせず、オンナ(ガーフフレンド)もいませんでした。『ザ・サイドワンダー』は、哲学なんかの「青さ」ではなく、オンナとサケがあって初めてさまになる音楽でした。
2、ブルーノート
『ザ・サイドワインダー』がブルーノート・レーベルの大ヒット作であることを、映画『THE BLUE NOTE STORY』(ヴィム・ヴェンダース プロデュース)で知りました。
2019年、私はニューヨークのジャズクラブ「ブルーノート」でロン・カーターを聴くという経験をしましたが、「ブルーノート」を10分の1も理解していないことに映画で気がつきました。
第1に、ブルーノート・レーベルはアルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフという2人のユダヤ系ドイツ人によって1939年に立ち上げられました。2人のユダヤ人は、ユダヤ人の歴史に抑圧され差別されてきた黒人の歴史に重なるものあることを感じ、ブルーノート(♭E、♭G、♭Bが入る物悲しいメロディ)やグルーブ(ノリ=乗り)に感情移入できる、自らを発見しました。
第2は、2人の黒人ミュージシャンへの接近の仕方が画期的であったことです。アルフレッドは黒人の要求を同じ彼らと同じ立場で聞き、満足させ説得し、マネジメントしました。リハーサルにもギャラを払ったのは画期的でした。対してフランシスは無口。彼は演奏中のミュージシャンに影のように接近しストロボを焚き、歴史を変える写真を撮り続けました。
そして第3に、ジャケット・デザインの新進デザイナー、リード・マイケル。彼は1950年代から60年代の半ばまで数々の傑作を生み出しました。もちろん『ザ・サイドワインダー』もその一つです。秘話として、無名のアンディ・ウォーフォールの作品も、数作残されているそうです(wikipedia)。
映画での爆笑のエピソードがあります。人気者のアート・ブレイキーが亡くなったとき、葬式に彼の妻だという女性が5人も!!現れたそうです。対して無口で人付き合いの少ないカメラマン、フランシス・ウルフが死んだときには、・・・・・・。これは、これから映画をご覧になる方へのお楽しみしておきましょう。
3、リー・モーガン
リー・モーガン(1938~1972)は、ビバップの巨匠、ディージー・ガレスピーのところで腕を磨いたモダン・ジャズの将来を担う人でした。ところが1972年2月ニューヨークのジャズ・クラブ「スラッグス」で、休憩時間に年上の愛人(内縁の妻)のヘレン・モアに拳銃で撃たれ33歳で亡くなっています。
「ジャズ史上最悪の悲劇」もオンナによって起こされました。