西郷さんは、モダンで、人情家で、なにより皇室の受けが良い人でした。こんな人が今の日本にも欲しい。

THE TED TIMES 2022-15「西郷隆盛」 4/29編集長 大沢達男

 

西郷さんは、モダンで、人情家で、なにより皇室の受けが良い人でした。こんな人が今の日本にも欲しい。

 

1、謎の風貌

<世に、このような人の顔があるものか・・・・・・・>

薩摩藩主・島津斉彬が、初めて西郷隆盛と面会したときに、こう言ったといいます(『西郷隆盛』 p.22 池波正太郎 角川文庫)。

私は東京の下町生まれです。小さい時から上野の西郷さんを見ていました。犬を連れた堂々たる「姿かたち」をよく知っていました。

しかしこのたび、生まれて初めて鹿児島市を訪れ、西郷さんのイメージを根本的に改めなくては、と思いました。

 

見知らぬ土地に行くと日本でも外国でも朝、ホテルから飛び出して、なるべく観光案内に頼らないようにして、その街を探索してみます。

自分の足で取材し、その街の印象を決めるのです。

サンフランシスコでは、すれ違った人に片手を上げて”Good Morning!”と言えばいい。もちろんお辞儀はいらない。

ジョギング中のロンドンで道に迷ったら、ホテルの前に立っているセキュリティー・ガードに大声で訊けばいい、”Which way to the Hide park?” ”Go straight! And turn right!”。

上海のレストラン(メシ屋)で朝食は、人が食べている料理を指差して、ウエイターに注文すればいい。上海には言葉もマナーもデタラメな田舎者がたくさんいるから、それで無問題(モーマンタイ)。

 

・・・鹿児島での朝の散歩の印象は、ズバリ西郷さんでした。上野の西郷さんを超えた、西郷隆盛でした。

駅前の観光案内図には、西郷さんゆかりの場所がいくつかあります。みやげもの屋には西郷さんのラーメン、ポテトチップスが並んでいます。

西郷さんは鹿児島の貴重な観光資源、鹿児島のヒーローでした。

二日間の朝の散歩で、一日目は駅から桜島に向かって西郷隆盛生誕の地へ、二日目は西郷隆盛像を見て城山に登りました。

そして東京に帰り、あわてて『西郷隆盛』(池波正太郎)を読みました。

そして長年親しんだ、上野の西郷さんイメージは、ガラガラと壊れ、粉砕されることになります。

その第一が風貌です。

西郷隆盛は写真が嫌いだった、だから写真が残ってない。従って、上野の西郷さんにしても、城山の西郷隆盛像にしても、本人に似ている保証はない、というのです。

そこで、冒頭の<世に、このような人の顔があるものか・・・・・・・>に戻ります。

西郷隆盛は極めて特異の風貌をしていたようです。

まず巨漢、身長180センチ以上、体重100キロ以上。

そして顔。

<桁はずれの堂々たる美男であり>(p.62)

<鳶色(とびいろ)がかかった大きな双眸(ひとみ)は、相対すものの眼のちからというちからをみな吸い取ってしまうかのように深々と澄みきっていた>(p.88)

西郷さんの魅力は謎の風貌にあった、そしてそれゆえに偉大な功績を残し、愛された、と結論できます。

 

2、明治維新

西郷「・・・長州は、先ずみずから兵を解き、恭順の恭順のこころをあらわせねばなりますまい・・・」(p.122)、長州と手を結ぶことを、西郷は考えていましたが、長州は幕府に兵を挙げてしまいます。

そこで止むなく西郷の薩摩も、長州を打つために出撃し、鎮圧します。

禁門の変」(1864)です。

長州は幕府に対して「恭順謝罪」します。しかし幕府の権威もこれが最後、長州藩はすぐに息を吹き返します。

やがて薩摩と長州は、討幕のために坂本龍馬の仲介で、「薩長同盟」(1886)で手を結びます。

外国貿易ができない長州は「・・・幕府との戦争に備えて西洋の武器弾薬がほしい。これを貴藩名義で買っていただきたい。西郷氏が、これをのんでくれるかどうかで両藩の握手がきまる」(p.134)。西郷はこれを即座に承知します。

洋式造船、溶鉱炉、地雷、ガラス、ガス灯・・・島津斉彬に重用された西郷隆盛は当時のハンバーワンの近代主義者でした。

1867年王政復古が宣言されます。翌年、鳥羽伏見の戦いがおこり、戊辰戦争(1868~9)の始まりです。

西郷隆盛は徳川征討軍の参謀長として江戸へ進駐します。そして幕府の勝海舟と面談し「江戸城無血開城」が決定します。

ちょっとしたエピソードが残されています。官軍に反抗した会津に対して、西郷は「会津を粗末にあつこうちゃならぬ」の言葉で、いきりたつ官軍を静粛にします(p.155)。

西郷の温情溢れる扱いは、いまでも庄内・山形の伝説として残り、郷土人の信頼を集めています。

これぞ、上野の駅の西郷さん、人気者です。

 

3、敬天愛人

「西郷が島から帰って来たときなど、孝明天皇から『いたわりとらせよ』のお言葉とともに、時服(じふく=衣服費を名目にした給付金)が下賜された・・・」(p.122)。

さらに最後西南の役で官軍と戦った時でさえ、「天皇陛下は深く西郷氏の身を案じなされ」たそうです。(p.264)。

そして西郷の死を聞いた明治天皇は、「西郷を殺せとは言わなかった」と、漏らしました(ウィキペディア)。

しかし1889年、大日本帝国憲法の発布の大赦で、正三位を贈られ、西郷さんは赦されています。

西郷さんは皇室に受けがいい。

鹿児島の朝の散歩で、訳もわからず、城山に登りました。

クスノキの大樹があり、思わずシャッターを切りました。西郷さんが私を呼んでいました。

城山は、1877年に西郷隆盛が首を打たせ、自害したところでした。

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敬天愛人」の大きな額が、東宮御所に近い表参道の天ぷらや「宮川」の店内に、飾られています。

なぜ「敬天愛人」を飾っているのか、訊いたことがありません。