THE TED TIMES 2022-20「武田泰淳」 6/8 編集長 大沢達男
武田泰淳『審判』を、なぜ国文学者は、GHQの検閲との関連で議論しないのだろう。
1、言論検閲
武田泰淳の小説『審判』は、1947年4月(昭和22年)に、雑誌「批評」に発表されました。
サンフランシスコ平和条約が発効する1952年(昭和27年)4月28日以前です。
当時の日本の言論はGHQにより厳しく検閲されていました。
何が検閲されていたか。
○連合国最高司令部批判、○極東軍事裁判批判、○占領軍が憲法を起草したことへの批判、○検閲制度への批判、○戦争擁護、○神国日本の宣伝、○軍国主義の宣伝、○ナショナリズムの宣伝、○大東亜共栄圏の宣伝・・・・・・などなどです(『閉ざされた言語空間』 江藤淳 文春文庫 p.237~241)。
GHQの検閲の目的は、日本が二度と米国に戦争を仕掛けてこないようにすることで、日本という国家の息の根を止めることでした。
具体的には、「ならず者国家」日本の天皇に「人間宣言」をさせ、憲法を与え西欧的な民主主義国家に改造する、ことでした。
これはその後米国が、ベトナム、アフガニスタン、イラクで試み、現在ウクライナとロシアでやろうとしたことで、
「白人帝国主義」(『サピエンス全史』 ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳 河出書房新社)、「リベラル帝国主義」(『ナショナリズムの美徳』(ヨラム・ハゾニー 庭田よう子訳 東洋経済)、「リベラル覇権主義」(J・ミアシャイマー 『文藝春秋』 p.152 2020.6)
などと呼ばれるものです。
もちろん小説『審判』も検閲されていました。
2、GHQ
1)昭和20年9月18日朝日新聞は48時間発刊停止処分を受けています。
この時以来、朝日はGHQに協力的な「平和と民主主義」の新聞に変身します。
2)昭和20年12月8日から10日間、朝日を始め全国の新聞に、GHQ製の『太平洋戦争史』が掲載されます。
『太平洋戦争史』の特徴は第1に、「太平洋戦争」というGHQ製の用語が初めて登場し、現在にいたるまで新聞でも教科書でも使われるようになったことです。
この日以来、「大東亜戦争」などと言おうもののなら、右翼か国粋主義者の、烙印を押されるようになりました。
第2に、軍国主義者と国民の対立という構図、つまりマルクス主義の階級闘争の歴史のようにして戦争が記述されていることです。
第3の特徴は、日本人を暴力的な野蛮人・未開人として描いていることです。
「(南京で)婦人達も街頭であろうと屋内であろうと暴行を受けた。暴力に飽まで抵抗した婦人達は銃剣で刺殺された。この災難を蒙った婦人の中には60歳の老人や11歳の子供達までが含まれていた」(『太平洋戦争史』 p.55 GHQ/SCAP/CIE 連合国総司令部民間情報教育局資料提供 呉PASS復刻選書7 呉PASS出版 復刻平成27年6月10日 原著昭和21年3月30日 高山書院)。
3)昭和21年に公開された映画『我が青春に悔いなし』(黒澤明監督 東宝 1946年)は、脚本を大幅に訂正させられています。
大学教授の娘役の原節子に、「つまり私は、農村文化運動の輝ける指導者っていうワケね」、などという台詞を言わせます。
映画界ではGHQのデヴィット・コンデ(1906~1981)という共産主義者が目を光らせていました。
上映禁止にされた『虎の尾を踏む男達』(1945年制作、1952年公開 東宝)をめぐって、黒澤明が当時を回顧しています。
「占領時代の検閲に通していなかった。当時、コンデというのがいたでしょう。あれが怒っちゃって」(『偽りの民主主義』浜野保樹 p.008 角川書店)。
4)昭和22年6月から10月まで朝日新聞に連載された、小説『青い山脈』(石坂洋次郎 新潮文庫)があります。
<新しい憲法も新しい法律もできて、日本の国も一応新しくなったなったもののようですが、しかしそれらの精神が日常生活の中にしみこむためには、五十年も百年もかかると思うんです>(前掲 石坂 p.30)
<「いいですか。日本人のこれまでの暮し方の中で、一番間違っていたことは、全体のために個人の自由な意志や人格を犠牲にしておったということです」>(前掲 石坂 p.39)
冗談言っているじゃない。これまでの日本の伝統・歴史はどうなる。全否定ですか。
このときから「自己犠牲」や「世のため人のために」は悪徳になり、自己中心主義(ジコチュウ)の「自由と平等」の世の中になりました。
小説『青い山脈』は、GHQ言いなり、自主規制の朝日新聞の象徴でした。
「朝日新聞はGHQの機関紙である」と、GHQ内部の「PPB(Press Pictorial & Broadcasting)日報」で揶揄(やゆ)されるほどの、GHQの御用メディアでした(「占領期GHQによる検閲・宣伝工作の影響と現代日本」 p.102 久岡賢治 彦根論叢 滋賀大学経済学部編)。
ちなみにアメリカ教育の最大の目的は、アメリカ人として誇りを持たせ、アメリカ合衆国への忠誠心を涵養(かんよう)すること(『日本国憲法の問題点』 p.133 小室直樹 集英社インターナショナル)、愛国心です。
対して日本の教育基本法には「日本人」がすっぽり抜けて落ち、祖国愛、愛国、殉国は悪になりました。
5)映画『青い山脈』(今井正監督 東宝 1949年)でも、教師役の原節子が教室で、「家のため、国家のためということで、個人の人格を束縛する(中略)日本人の暮らし方で間違っていたことなんです」、同じ趣旨のことを言います。見ていて、恥ずかしくなります。
映画『青い山脈』は検閲の対象にすらなりませんでした。監督の今井正とGHQのコンデの二人の「共産主義者」が、意気投合して映画を作っていました。
余談ですが、脚本家の小国英雄はさすがです。今井正と喧嘩してこの仕事を降りています。そして作詞家も西条八十もさすがのプロです。今井正は西条の作詞を嫌いましたが、原作を貫き、ヒット作にしました。
6)NHKの放送では日系アメリカ人二世のフランク・馬場(1915~2008)が番組づくりの主導権を握っていました。馬場は、新聞の「太平洋戦争史」のラジオ版である、番組「真相はこうだ」の制作に加わりました。馬場は、米海軍将校の日本語教師、つまり米軍日系二世スパイの教師でした。
7)私信も検閲されていました。8000人近い日本人の知識人(英語ができる)が検閲に加わりました。後の日本で、政治・マスコミ・企業の中心になる人たちです。しかし誰一人、検閲に加わった事実を明らかにしていません。
1952年以前の日本の新聞報道、放送番組、単行本、雑誌、小説などは、検閲されたことを前提に議論しなければなりません。
検閲はスマートでした。削除を指令された場合、墨で塗りつぶす、白紙を貼る、〇〇などで埋める、白くブランクにする・・・などは許されませんでした。
検閲による訂正は組み替えられ、何事もなかったかのように、印刷されなければなりませんでした(前掲 江藤p.217~8)。
つまり講和条約以前の日本の小説は、日本人だけでなく、米国人であるGHQを読者として持っていました。
3、小説『審判』
1947年(昭和22年)に発表された小説『審判』の舞台は、戦後間もない中国・上海です。
「杉」という中国語代書屋を営んでいる日本人の男と、その友人で教師の息子で結婚を間近に控えている「二郎」という日本人の男の物語です。
前半は戦後の二人の精神状態が描かれます。
「杉」は、支配者が亡国の民となった状況を、黙示録にアナロジーして考えていました。
しかしやがて中国語代書屋商売の繁盛も手伝って、<最後の審判のあの恐るべき絶滅の炎の下に、案外涼しい空間が残っていれば・・・>と敗戦の苦しみは緩和されるかのように、考えるようになっていました。
対して「二郎」は、<僕自身、裁きという事ばかり考えている>、と敗戦の苦悩は極まっていくばかりのようでした。
後半は、引揚げをあきらめ中国に残ることを決意した「二郎」から、「杉」への手紙です。
「二郎」は、中国で戦争と関係のない殺人を二度していたことを、告白します
一つは二人の農夫の殺害、これは仲間がいる集団的なもの。二つは老人夫婦の盲目の老夫の殺害。
殺人は「殺すことがなぜいけないのか」と自問しながらなされる哲学的殺人でした。
「二郎」の「姓」はわかりません。老教師の息子で、学徒出陣、神を信じない「抽象的」なニヒリストして描かれています。
「神を信じない」というのは、象徴的なシーンがあるからです。
牧師の「キリストを信じますか?」の問いに対して、教会に集まった人々が手を上げ同意するのに、「二郎」は沈黙を守ります。
「二郎」は、『カラマーゾフの兄弟』の次男、無神論者のイワン・フョードルビッチ・カラマーゾフでしょうか。
<(イワン)「最終的な結論としては、おれは神の世界というのを受け入れていないことになるんだ。(中略)おれが受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、おれが受け入れないのは、神によって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで(後略)」(『カラマーゾフの兄弟』② p.218~9 ドフトエフスキー 亀山郁夫訳 光文社文庫)。
でも「二郎」はイワンのように頭脳明晰でも雄弁でもありません。神について何も語りません。
「二郎」は抽象的です。
戦場も、どこのどんな作戦中なのか、どんな戦闘が行われたのか、わからない「抽象的」な戦場です。
<被害者を選ばぬこと、人数に無関心なこと、殺人の無意味さを問題にせぬこと、何気なくなしうること>(「無感覚のボタン=武田泰淳」からの孫引き 「武田泰淳『審判論』」 p.44 白蓉 立命館大学博士課程 ritsumei.ac.jp)という、近代的な無感覚の殺人でした。
「次郎」が抽象的、「戦場」も抽象的、そして「殺人」も抽象的です。
二度目の殺人のあと、
<「とうとうやったな」いつのまにか伍長が私から五歩ばかりの所に来ていました。「若い奴にはかなわん」彼は言い、いかつい顔に善良そうな弱々しい微笑を浮かべていました。>(p.19)
上官に褒めらます(これが戦争です。しかし私=筆者が上官なら、戦争といえども「二郎」を許さない)。
しかし「二郎」は、自分が「鈴子」と結婚し老夫婦になり、自分が射殺した老夫と重ね合わせ、自分を許せなくなります。
そして婚約者・鈴子に殺人を告白する道を選びます。
<「どう思う?」と私はたずねました。「こわいわ」彼女の声はかすれていました。「どうしてあなたがそんなことなさったのかしら。信じられないわ」>(p.22)
(「なんだ、この女は?」。嘘だろう?私=筆者は憤りました。愛すというのは共犯関係になることではないか。私=筆者が女性なら「二郎」と一緒に悩む)。
さらに「二郎」は、婚約者・鈴子の父にも告白します。婚約は破棄されます。
そして「二郎」は帰国せずに、中国に留まる、自己処罰の道を選ぶのでした。
4、武田泰淳
武田泰淳は、二度中国に行っています。
1937年10月~39年10月は、兵役です。
1944年6月~46年4月は、日中文化協会への就職、国策・国民精神の宣伝のためにです。
殺人を犯した「二郎」の告白は、武田泰淳本人の告白ではないか、という説があります(前掲「武田泰淳『審判論』 p.42)。
そんなことはどうでもいいことです。
小説は、二郎も、戦場も、殺人も、抽象的にしか描いていません。
でも敢えて、作者に質問したくなります。
「二郎」は、日本兵として中国へ行ったのではないですか。
「八紘一宇」(人類一家)のために、皇国の未来を切り開くために、家族のため、先祖のために、日本民族のために、戦いに行ったのではないのですか。
米国から理不尽なハルノートを、日本は突きつけられ、止むに止まれず、立ち上がったのではないのですか。
もし「二郎」が、戦争の大義と中国出兵に異論があるなら、「二郎」は主張しなければなりません。
それ以前に「二郎」は日本人ではないのですか。日本の詩歌に涙し、日本語で話し、日本語で書く、「二郎」は日本人ではなかったのですか。
<大君の辺にこそ 死なめ 顧へりみは せじ>(大伴家持)、
<山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも>(源実朝)、
<何事の おわしますかは 知れねども かたじけなさに 涙こぼる)(西行)、
<敷島の 大和心を ひと問わば 朝日に匂う 山桜かな>(本居宣長)
<かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂>(吉田松陰)。
「二郎」は、大日本帝国陸軍の軍服を着て、日本兵として、日本人として中国人を殺しています。
それらを捨象し、「殺すことがなぜいけないのか」、ニヒリストの殺人、哲学的殺人、近代的殺人、衝動的な殺人・・・、こうした問いは成立しません。
「二郎」は、祭祀共同体における日本的情念の人ではなく、近代社会の理性の人として描かれています。
日本的情念の人とは、
<我が国の和は、理性から出発し、互いに独立した平等な個人の機械的な協調ではなく、全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和である>(『日本国家の神髄』 佐藤優 p.123~4 産経新聞社)、
和に生きる人々です。
「和に生きる」は、戦前の「禁書『国体の本義』(文部省教学局 1937年)を読み解く」の中に出てくるものです。
書き言葉にするとむずかしいですが、「分に安んずる」「分をわきまえる」となると、明治生まれの父母に言われてきたことで同じで、日本人の常識です。
同じことを三島由紀夫が「文化防衛論」で美しく語ります。
<「御歌所の伝承は、詩が帝王によって主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかわりなく、民衆詩を『みやび』を以て統括するといふ、万葉集以来の文化的共同体の存在の証明であり、独創は周辺に追ひやられ、月並は核心に輝いている。民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の文化伝統をただ『見る』だけではなく、創ることによって参加し、且つその文化的連続性から『見返』されるといふ栄光を与えらる。」(『三島由紀夫全集』 33巻 「文化防衛論」 p.398 新潮社)。
私たちは、「みやび」を「まねび」する、日本人です。
私たちは、万葉や新古今に親しみ、百人一首で遊んできました。
天皇と和歌によって日本語は形成されてきました。。
対して理性の人とは、合理主義の人です。
<合理主義、実証主義は、人間はばらばらな個体であり、各人はひとしく理性をもっているというアトム(原子)的世界観に基づいている>(『日本国家の神髄』 p.46 佐藤優 産経新聞社)。
抽象的な兵士、戦場、殺人を描く武田泰淳は、自由と平等の近代西欧の人権主義と同質になり、GHQの検閲の思想と親和的なものになっています。
占領軍の検閲は成功しました。70年後の今、日本という国家の息は止められようとしています。
日本人は、ハメルーンの笛吹きにも似た「平和と民主主義」のメロディに誘導されて海に向かって行進し、集団自殺し、30世紀初頭には世界地図からその姿を消そうとしています。
米国の狙い通り、「ならず者国家」の日本人はそのアイデンティティーを失い、民族の誇り捨て、消滅します。
5、『司馬遷』
GHQによる検閲は、墨で塗りつぶす、○○の伏字にする、などの痕跡を残すものではありませんでした。
検閲の証拠(エビデンス)を、これだ!と提示することができません。ですから「言論統制があった」の主張は、弱くなります。
「あったことに間違いないんだ!」の野良犬の遠吠えは、声を荒げたヤクザの脅し(おどし)似て、説得力の弱いものになってしまいます。
検閲の「証拠」がないだろうか・・・。見つけることは不可能だ・・・。
思い悩んでいるときに、なんと図書館から借りてきた『武田泰淳全集』の『司馬遷』を読んでいて、その証拠を見つけることができました。
『司馬遷』とは武田泰淳のデビュー作で、中国の古代史である司馬遷の『史記』について、書いたものです。
武田は、歴史的価値のみならず文学的価値があるとされる膨大な『史記』を、縦横無尽に読みこなして面白い読み物に仕立て上げ、文学者として才能を高らかに宣言しています。
若干31歳の武田泰淳がここにあります。
それはともかく、言論統制と検閲の話です。
「『司馬遷』は戦後昭和23年11月、東京豊島区西巣鴨の青柿社(筆者注、「青」には草冠がついている)から『史記の世界』と改題されて再刊されているが、このとき内容に若干の削除と変動が加えられた。この異同は、作者の意嚮によるものではなく、当時の特殊な出版事情から、泰淳の口を借りれば『善意の編集者の善意の判断で独自に』行われたという」(『武田泰淳全集 第十一巻』 「解題」p.389 古林尚 筑摩書房)。
筑摩書房版『武田泰淳全集 第十一巻』は、昭和46年11月に発行されていますが、編集方針は「初版本主義」で、昭和18年4月に刊行された日本評論社版を忠実に再現しました。
対して、「青柿社」版(昭和23年)以降に出版された昭和27年「創元文庫」版、昭和34年「文藝春秋新社」版、昭和40年「講談社」版・・・などは、「青柿社」版にならった「削除と変動」を行っています。
『武田泰淳全集 第十一巻』 の「解題」には、どこか改変されたのか、詳しく書いてあります。
恐るべきは、『司馬遷』(武田泰淳)の「Ⅴ 結語」の全文が、削除されていることです( 前傾同 p.391)。
『結語』とは何か。その一部を紹介します。
「私は司馬遷を持ち上げるような文章を、三百枚近く書きつづった。決して彼個人に感心したわけではない。史記的世界を鼻先に近づけ、グゥかスゥか、本音を吐いてみたかったまでである。吐いてみて我ながら自己の不徹底、だらしのなさ、慚愧に堪えぬ。真珠湾頭少年飛行士の信念を羨むのみである」(前掲同 p.113)。
武田泰淳は、「忠とは、身を史記的世界に置いて、日本中心を信ずることである」(p.113)と、熱く燃えています。
そもそも武田泰淳の『司馬遷』に執筆動機は、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃です。
「あの日以来、心がカラッとして、すこし書けそうになった」(前掲同 p.4)からです。
もちろん、「あの日以来・・・」の前後の文章は初版本のみにあるもので、「青柿」版以降では削除されています。
どうでしょうか。
「言論弾圧」、「検閲」の存在を証明する、十分すぎるほどの証拠ではないでしょうか。
この事実に隠された重要な問題が二つあります。
ひとつは「善意の編集者の善意の判断」という名目で文章の改変がなされたということです。
善意とは、編集者の「武田さん、これを書いちゃうと、まずいよ」という、GHQへの配慮・忖度です。
検閲者(GHQ)と被検閲者(編集者)の間には、検閲の存在を秘匿する黙約があり、緊密な協力関係がありました。
「占領当局の究極目的は、いわば日本人にわれとわが眼を刳り貫かせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼を嵌めこむことにあった」(『閉ざされた言語空間』p.223 江藤淳 文春文庫)のです。
善意とは、「日本人から自己の歴史と歴史への信頼を、将来とも根こそぎ『奪い』去ろう」(前掲江藤 p.310)とするものでした。
もうひとつさらに重要なことは、筑摩版『武田泰淳全集』が発刊された昭和46年当時、戦後からサンフランシスコ講和条約が発効する昭和27年まで、GHQによる組織的な言論弾圧と検閲が行われいたことが「知られていなかった」ことです。
なぜなら、新憲法をGHQが起草した事実、極東軍事裁判批判、そして言論検閲の存在を暴露するは、最も重要な検閲の対象で、講和条約発行以降も日本人がタブーとしてきたことだからです。
GHQの言論弾圧を明らかになるのは、米国で米国側の資料を直接調査した江藤淳の『閉ざされた言語空間』からで、昭和57年(1982年)です。
ですから昭和46年(1971年)当時の『武田泰淳全集』の編集者は、かつての言論検閲の存在を知らずに、「当時の特殊な出版事情」として「素直に」初版本と青柿版の異同を記しています。
でもこれが検閲の存在の重大な証拠になりました。
6、ニヒリズム
戦争を知らない、文学研究者でもない私が、偉そうに武田泰淳の小説について書いてきましたが、『審判』を再読して驚きます。
小説は、完璧な文章で書かれた、完璧な構成の小説で、キズがありません。
「二郎」の物語は、どうせ作り話だろうと読んでいると、作者は最後になってたたみかけてきます。
牧師である婚約者の父は、「二郎」の殺人の告白を聞いて、
<「君のような告白を私にした日本人はこれで三人目だ」>(『武田泰淳全集第2巻』 p.24 筑摩書房)
と答えます。
もし同じような体験を持った牧師が上海に10人いたとすれば、3×10で、殺人を告白した日本人は30人になります。
北京、西安、重慶、南京・・・・・・と、10都市に広げれば、30×10で、殺人に罪に苛まれる日本人の数は300人になります。
小説はさらに追い討ちをかけます。
「二郎」は殺人を、友人の「杉」に告白し、婚約者の鈴子の父に告白しました。
告白できる相手がいた「二郎」は幸せだというのです。
<多くの仲間は報告すべき相手を持たず、今なお闇黒の裡に沈黙しているのでしょうから>(p.25)
というエンディングで小説は終わり、読者に「二郎」の個人的な殺人の普遍性を強調します。
殺人をしたが告白できる相手を持てた者が、10人に1人だとすると、300人×10で、意味のない殺人をした日本兵は3000人になります。
3000人は無視できません。
「ニヒリズム」の香りが強いこの小説は書かれなければならなかったのでしょうか。
この小説を待っていたニヒリストのような日本人がたくさんいたのでしょうか。
そして『審判』は名作になったのでしょうか。
***
しかし、しかし・・・。
小説『審判』が発表されたのは1947年4月(昭和22年)です。
青柿社の『司馬遷』が『史記の世界』と改題され、内容が改変(言論統制・検閲)されて、発刊されたのは1948年11月(昭和23年)です。
なぜ改変されたのか。当時の「特殊の出版事情と善意の編集者の善意の判断」です。
小説『審判』も、この時代の空気の中で、「特殊の出版事情と善意の編集者の善意の判断」で、生まれています。
ある日本兵が、無辜(むこ)の中国人を殺したこと悔悟する物語は、占領軍にとって歓迎すべきものでした。
『審判』は、GHQの検閲をパスしている、「リベラル帝国主義」がオーケーした小説を評価していいものか。
GHQの 「War guild information program」 (「戦争についての罪悪感を日本人の心に受けつけるための宣伝計画」、『閉ざされた言語空間』p.261))に協力しているではないか。
そして問いは、この小論の冒頭に戻っていくことになります。
(end)