THE TED TIMES 2022-39「マネ」 11/2編集長 大沢達男
エドゥワール・マネに関する3つのお話。
第1話 ジュリー・マネ
私の家にはいつもマネがいます。机の上にいつもエドゥワール・マネの娘、ジュリー・マネの絵葉書が飾ってあるからです。
2016年の国立新美術館でのルノワール展で買ったものです。毎日見ています。6年も飾ってあることになります。
「ジュリー・マネ」と題する絵とは、エドゥワール・マネ(1832~1883)の友人であったオーギュスト・ルノワール(1841~1919)が、マネの娘のジュリー・マネを描いたもので、「猫を抱く子ども」という題名でも知られています。
ルノワールが好きというのではありません。マネが好きだから、「ジュリー・マネ」が飾ってあるのです。
ルノワールは偉大です。でも日本での人気は異常、だからルノワールは苦手なんです。
国立新美術館の雑踏を当時の日記に、「田舎者でごった返す観光地のようで」、と書いてありますから、よっぽどやなことがあったのでしょう。
それともうひとつ。ルノワールが、ガブリエル・ルナール(1878~1959)を描いていることです。これは嫉妬です。
ガブリエルは16歳の時に、家政婦としてルノワール家にやってきて、37歳年上のルノワールに愛され、20年以上その裸体をルノワールに提供します。
『浴女たち』(1918-1919)では主役のモデルを務めているので、その顔とその肉体をすぐに覚えてしまいます。
ガブリエルを見るたびに悔しくて悔しくて・・・、ルノワールの絵を見ていられません。
ルノワールは、遊び相手はアマチュア、卑怯です。それくらべてマネはモデル選びはプロ、フェアです。
『草上の昼食』、『オランピア』、『フォーリー・ベルジェールのバー』・・・みんなプロ・・・だから時代が描けるのです。
好きなマネだから、その子どもと聞いただけで愛おしい、しかも『ジュリー・マネ』という絵は、バカテクのルノワールが描いたものですから、申し分ありません。
第2話 エロスとタナトス
「日本の中のマネ」(練馬区立美術館 2022.9.4~11.3)という展覧会が開かれました。西武線の中村橋というなじみのない駅、不安でしたが駅のすぐそば、親しみが持てました。
意欲的な展覧会でした。学芸委員がしっかりしているのでしょう。
ですが、展覧会の企画意図とは裏腹に、私はマネの違う面を発見し、興奮していました。
マネといえば、エロスの画家です。
たとえば『草上の昼食』は、紳士二人が女性を二人と川を下り、人気のないところで一戦を交えた後(あるいはあるいは交える前)の食事を描いたものです。
女性二人はすでに裸ですから、きっとプロなんでしょうね。
たとえば、『オランピア』は、当時有名な娼婦の名前だといいます。黒人のメイドは、当時の娼婦のメイドは黒人と相場が決まっていたそうですから、プロ中のプロを描いた作品です。
そして『フォーリー・ベルジェールのバー』の女性も、場合によっては男性とお付き合いするプロの女性だと言われています。右うしろの男性がプレイボーイというわけです。
つまりマネはエロばかりを描いた画家でした。
そんな思いを巡らせながら、練馬の美術館を歩いていたわけですが。最終日の文化の日というわけで、観客多い。しかも各作品の解説が小さな字で、B4(?)にびっしり書いてある。
だから観客は渋滞する(学芸員さん、長い解説は親切なのでしょうが、混み合ってくると鑑賞のじゃまになるだけです)。
で私は足早に会場を歩き、入り口に戻りカタログを買い、ロビーのソファで展覧会全体を俯瞰し、復習することにしました。そしてふたたび展覧会会場へ、人混みの中へ。
それで印象に残ったは『死せる闘牛士』というエッティングです。なんとも奇妙な感覚に囚われました。死んだばかりの人を描いていいの・・・でも闘牛士はそこに死体として生きていました。
そういえば、マネには『皇帝マクシミリアンの処刑』という作品があることを思い出しました。皇帝と2人の将軍が8人の兵隊により射殺されている瞬間の絵です。塀の外から、数人の野次馬がその光景を目撃しています。
人が殺されているところを描いていいの・・・やはり奇妙な感覚に捉われます。
家に帰って、ネットで『死せる闘牛士』の油絵版を見ました。まだ闘牛士の体温が残っていそうな絵でした。
あっ!マネはタナトスを描こうしている。そのとき思いました。
タナトスとは死への衝動(本能、欲動)です。生きるとは死の欲動と戦うこと。対してエロスとは性(情欲)への衝動です。燃え上がるような愛の形です。
『草上の昼食』と『皇帝マクシミリアンの処刑』、『オランピア』と『死せる闘牛士』、エロスとタナトス。
マネは生きることの本質を問うた画家でした。
第3話
「日本の中のマネ」の最終章では、森村泰昌と福田美蘭の二人の現代美術が登場します。
森村は『オランピア』と『笛を吹く少年』さらに『フォーリー・ベルジェールのバー』を演じて見せます。
森村は、日本の美術教育が「美術といえば印象派」、という偏向教育であったと指摘します(『日本の中のマネ』 p.184)。そして銀行が持ってくるカレンダーが決まってルノワールであったと揶揄します。
私がルノワールの偉大さを認めながら、なんとなくイヤイヤをする気持ちを正確に説明してくれます。
そして森村は意外な事実を発見します。『笛を吹く少年』と『オランピア』のモデルは同じ女性であると。それで森村は『笛を吹く少年』の下半身を裸にし、さらに後ろ姿を演じて見せます。
森村泰昌は相変わらずスキャンダラスです。
しかし今回それを上回ったのは福田美蘭。
会場の大きな部屋にテレビで見るような『ゼレンスキー大統領』がどんと座っていました。
福田は、マネがしたように不明瞭な現実を絵画によって見える形した、と言います。
福田の意図はどこにあるのかわかりませんが、ゼレンスキー大統領の背後に、死霊を見たのは私だけでしょうか。
最終章は衝撃的でした。NATO(ウクライナ)とロシアの戦闘の未来を見たのですから。
おしまい。