THE TED TIMES 2024-25「東京下町労働運動史」 6/22 編集長 大沢達男
「本所緑町(ほんじょみどりちょう)」生まれを、恥じるべきか、誇るべきか。
ー『東京下町労働運動史』を読んでー. 大沢達男 20124.6.13
0、はじめに
『東京下町労働運動史』の著者・小畑精武さんは、労働運動に一生を捧げてこられた方です。
私は元電通のCMクリエーターで労働運動のことなど何も知りません。にもかかかわらず書評のような感想文を書いたのは、ちょっとした理由があります。
その1。小畑さんと知り合ったのは「富士塚めぐり」という奇妙な散歩の会のガイド役としてでした。その後も大震災や大空襲のゆかりの地をご案内していただき、数回親しく食事をさせていただきました。
ですから小畑さんの『東京下町労働運動史』が出版されるとのニュースを聞いたときには、何も知らずに何かを書こう、書かなければと決断していました。お世話になってきたお礼をしたかったからです、古くさい言い方ですが感想文は「男の気持ち」でした。
その2。本のテーマが東京下町。父母が生まれ育ったところ、私が生まれたところ、いい機会だ、振り返りたいと思ったからです。
その3。手前勝手な心情吐露の感想文を書き、「富士塚巡り」の散歩仲間の梶本章(元朝日新聞論説委員)にメールしました。意外にも梶本が評価してくれたからです。『東京下町労働運動史』とは別の「東京下町物語」になっている、発表してよろしい。
小畑さん大沢の見当違いの文章をお許しください。
ご著書『東京下町労働運動史』により私はいい機会をいただきました。
東京下町生まれの父・大澤巳代治(明治36年生まれ)と母・静子(明治41年生まれ)に恩返しができました。
長年の労働運動への献身に敬意を評します。ご著書の出版おめでとうございます。
1、本所区緑町3-6-2
私の本籍は本所区緑町3-6-2(現在の墨田区緑3-6-2)です。
といっても1943年(昭和18年)8月5日生まれですから、昔の本所のことは、何も知りません。
生後5~6ヶ月で母に抱かれた玄関前、10ヶ月自宅で雛人形の前、そして1歳「大澤用水」の前で裸ん坊で大きなオチンチンを見せ(笑)椅子に座り笑っている、3枚の写真があるだけです。
1歳半で長野県諏訪市に疎開し、10歳になってから東京に帰ってきました。本所には戻らず、目黒と世田谷で育ちました。
父も母も東京の人ですから、東京の言葉を話します。
「おまえはねぇ、お相撲のふれ太鼓を子守唄に育ったんだよ。テケテンテケテン・・・」(ふれ太鼓=行司が太鼓を叩いて練り歩く、大相撲興業の情宣活動)。
母にいつも聞かされていました。本所緑町(ほんじょみどりちょう、現在は「緑」)は両国の国技館のそばでした。
何の記憶もないけれど、母の話からなんとなく私は、本所生まれはカッコいい、と思ってきました。
本籍地のそばには都立両国高校があります。昔の府立3中で芥川龍之介(1892~1927)が通っていました。もちろん芥川は本所育ちです。
そして『東京物語』を撮った映画監督・小津安二郎(1903~1963)は、本所の隣の深川の人。
さらに、江戸時代の「富嶽三十六景」の天才画家葛飾北斎(1760~1849)も「本所の産」。両国駅のそばにいまでも「すみだ北斎美術館」があります。
もし米国が東京大空襲をしていなければ、私は両国高校に進学して芥川の後輩なり・・・本所育ちの風流な粋人として一生を送っていた・・・。
ところが、今回『東京下町労働運動史』(小畑清武 旬報社)を読んで、私の本所への夢は粉砕されました。
「細民(貧民)の最も多く住居する地を挙ぐれば・・・本所・深川の両区なるべし」(p.26 『日本の下層社会』 横山源之助 1898年 からの引用)。
日雇稼(ひようかせぎ)・人足・車夫など下等労働者は本所・深川から供給されたというのです。
本所は貧民の街でした。
なぜ、貧民の街なのか、『東京下町労働運動史』を読んでみます。
2、女工哀史
19世紀末から20世紀の初頭、本所は『女工哀史』の街でした。
「モスリン」という知らない言葉が登場します。
「東京モスリン」、「東洋モスリン」、「松井モスリン」・・・モスリンとは織物のことです。紡績工場です。
「東京モスリン」は日本で初めて設立された毛織会社で、ここを舞台に『女工哀史』(細井和喜蔵 1925年)が書かれています。
私は無知・・・完全に誤解していました。
女工哀史といえば『あゝ野麦峠ーある製糸女工哀史』(山本茂実)で、製糸工場の女工ばかりを想像していました。
『山内みな自伝ー十二歳の紡績女工からの生涯』があります。
山内は1913年12歳で、宮城県の県北から上野駅に着き、墨田区文花(亀戸駅の北側10分ぐらい)にある「東京モスリン」に就職します。
賃金は1日18銭です。ですが食費10銭、手元に残るのは8銭だけ。
正午から午前0時まで、午前0時から正午までの二交代。山内は入社の翌年にストライキというものを体験しています(p.37~41)。
1920年当時の亀戸の人口は38,548人。「東京モスリン」、「東洋モスリン」、「松井モスリン」、3000~4000人規模の紡績工場があり、新潟、福島などからの出稼ぎ女工が集められていました。
日本は紡績産業大国で、かつての鉄鋼やいまの自動車のように、紡績は国の基幹産業でした。
本所が紡績産業の拠点で、紡績は女子労働者によって支えれていました(正確には亀戸だが、亀戸は本所、深川、城東にあり、ややこしいので「本所」で表記する)。
小畑は下町労働史のハイライトとして「東洋モスリン」(注意:「東京モスリン」は亀戸駅から北側。「東洋モスリン」は亀戸駅の南側の亀戸7町)の戦いを取り上げています。
ここでは「労働女塾」の帯刀昌代(たてわきまさよ)がでてきます。
労働女塾では、女性が労働運動ととも裁縫や割烹も学び、労働婦人「文庫」と「ニュース」を編纂し発行していました。
1927年「東洋モスリン」の5021人のうち4951人の労働者が参加する待遇改善闘争が展開されます。
自由外出させよ、臨時工を普通職工にしろ、夜業手当を支給せよ・・・などです。
会社は全ての要求を受け入れます。労働運動にとって画期的な日になった、女子労働者は自信を持った、と記述されています(p.140~142)。
1933年、日本は綿織物の輸出で世界一になっています。でもこのあたりが紡績産業のピークでした。
そして1935年を最後に、『東京下町労働運動史』(戦前編)から、紡績産業の労働争議の記述は、姿を消します。
整理しておきます(『東京下町労働運動史』にはない記述もある、とくに戦後の事実は筆者が補った)。
「東京モスリン」は1896年創立され、1902年モスリン生産国内シェア81%を占めるようになりますが、1936年大東紡織株式会社に改称します。さらに2016年にダイトウボウに。業態は不動産、ヘルスケア、そして繊維、昔の面影をわずかに残すだけです。
「東洋モスリン」は1907年に創立、1938年東洋紡績工業へ名称変更、さらに1941年鐘紡紡績に合併されますが、カネボウは2008年に消滅しています。
「松井モスリン」は1902年に東京毛糸紡績として創立、1905年に松井モスリンに。その後買収され東洋モスリン亀戸第二工場になりますが、工場は閉鎖され売却されます。
そしてその跡地に1939年、第二精工舎・亀戸工場が、建設されます(それぞれの位置関係は『東京下町労働運動史』冒頭の写真の地図ページが分かりやすい)。
紡績産業の時代と女工哀史の時代は終わります。
3、大澤巳代治
私に父の名前は、大澤巳代治(おおさわみよじ)、1903年(明治36)生まれです。
なぜ、終戦2年前の8月に本所で生まれた、私が生き延びることができたのでしょうか。
精工舎は1892年に設立され(錦糸町の駅のそば)、1937年にウォッチ部門を分離・独立させ第二精工舎を作ります。
そして1939年に東洋モスリン第二工場(かつての松井モスリン)の跡地に、第二精工舎の亀戸工場を建設します。
父は第二精工舎に勤務する時計職人でした。
戦争が激しくなると第二精工舎は長野県諏訪市の諏訪精工舎に移ります。
父の転勤で、私も家族も諏訪に疎開し、東京大空襲に被災せずに助かったのです(長姉だけが被災、奇跡の生還)。
なぜ私が、『東京下町労働運動史』の「本所・深川は貧民の街だった」の記述に、衝撃を受けたのでしょうか。
時計職人の父が、今風に言うとビジネス・エリートだったからです。
精工舎に勤務する女子従業員は高給取りで、「女工哀史」は過去のものになっていました。
父は戦後になり諏訪精工舎を辞め、1946年の三協精機(日本電産サンキョー→二デックインスツルメント)の創業に加わり、さらに自らの会社を始め、50歳で病に倒れ亡くなっています。
父は時計職人でしたが企業経営者になっていました。
さらに付け加えるなら、父は貧民どころか、粋人(すいじん、粋な人、風流の人)でした。
父の自慢話をしているのではありません。
大相撲の触れ太鼓が鳴り響く本所は粋人の街でした。
本所は将棋の14世名人木村義雄(1905~86)が生まれ育った街で、同時代の東京の下町の人気者には、落語の古今亭志ん生(1890~1973)、都々逸の柳家三亀松(1901~1968)がいました。
諏訪にいる頃、小学校に入ったばかり私が、父に訊いたことがあります。
「父さんは、将棋がどのくらい強いのですか?」。
父は即座に答えました。
「本所じゃヘボだが、諏訪じゃ負ける人はいないだろう」。
<本所じゃヘボ>当たり前です。本所には木村名人がいらした。
ちなみに、諏訪は人口5万弱(現在)の都市で、岩波書店の岩波茂雄の故郷で、知的な(リクツっぽい)人が多い街です。
父は無学な時計職人でしたが、素人の縁台将棋ではない、美学を持った将棋指しでした。
本所は「貧民の街」ではなく「粋人の街」でした。
本所は人情の街でした。母の実家は乾物屋でしたが、客にカネの融通をする金貸しでした。向こう三軒両隣の助け合いを、率先していました(笑)。
本所は権力に距離をおく下町でした。「ナニィ?外国人が井戸に毒をぶち込んだって、バカなことを言ってんじゃないヨ」。お上の言うことなんか、右の耳から左の耳へ、聞き流していました(拍手)。
そして、本所は粋人の街でした。父も母も年がら年中、都々逸を語り、小唄を歌っていました。「ままになるなら、竹竿かけて、寝ていてしょんべん、してみたい、傍(はた)で見るほど、楽じゃない」(大笑い)。
谷崎潤一郎が小説『細雪』で本所緑町(ほんじょみどりちょう)を登場させています。
<その明くる日の歌舞伎座で、最後の吃又(どもまた 近松門左衛門の浄瑠璃)の幕が開く少し前、舞台の方の拡声器が絶えずいろいろな人の名を、ーーー「本所緑町の誰々さあん」、「青山南町の誰々さあん」、ーーー
と呼び立てるの聞いている時であった。>(『細雪』中 p.268 新潮文庫)。
『細雪』で谷崎が描いた時代は昭和の10年代の前半です。日本橋生まれの谷崎は、本所緑町に粋人の大澤巳代治が住んでいた、のを知っていたのでしょうか(笑)。
4、粋人(すいじん)
無学な父がなぜ、職人から企業経営者になれたのか、働きながら学んだからです。
精工舎を創立した服部金太郎(1860~1934)は、年少従業員の教育と熟練工の養成に熱心でした。
将棋も、精工舎のおかげです。
服部金太郎は将棋の愛好家で、福沢諭吉(1835~1901)、森有礼(1847~1889)の将棋仲間で、12世名人小野五平(1831~1921)を支援していました。
1918年(大正7)に精工舎は、旧制中学に近い夜学制度を作り、職人たちに国語・数学・習字を学ばせました。
「労働女塾」を思い出させます。しかし時代からして精工舎が先、「労働女塾」の帯刀貞代(たてわきまさよ)は「夜学制度」の服部金太郎の影響でしょう。
おっと、いけねぇ。
労働運動史がテーマなのに、経営者論のようになりそう・・・本筋に戻ります。
『東京下町労働運動史』(戦前編)の最後に面白い記述があります。
1933年の浅草・松竹座、松竹レビュー・ガール・水の江瀧子と活弁士たちとの共闘です(p.272~4)。テクノロジーの進化で活弁士は消えていく仕事で、もちろん救えません。
いうまでもありませんが、水の江瀧子は石原裕次郎を売り出した、戦後の日本映画界の流れを作った人です。
もうひとつ、大相撲のストをとりあげています(p.275~7)。大相撲では、江戸の末期から10~20年ごとに争いが起きています。取り組みの不公平、親方による利益の独占などですが、大相撲は伝統の仕事で。人権・自由・平等では解決しません。
この二つの記述は『東京下町労働運動史』のこれから書かれるであろう「戦後編」を予感させます。
テクノロジーで消えていく仕事があり、伝統で変わらぬ仕事があります。
私たち本所の人間の人生の目的は粋人であることです。
お相撲、歌舞伎、寄席を見て、浅草の「松風」で一杯やって、都々逸・小唄を楽しみ、将棋のお稽古に励むことです。
「労働」も「労働運動」も変わります。
「金を払うから、仕事をくれ」(笑い)という時代になります。
そして粋人の街・本所緑町に、AI時代の新しい光が・・・。
なんのことはない。明治生まれの母が言っていた通り、になるだけです。
「おまえねぇ、働くってぇのは、傍(はた)を楽にさせるさせること」、
「他人様(ひとさま)のお役に立つことなんだよ」。
End
*浅草「松風」:父の大澤巳代治が愛用した伝説の飲み屋。おつまみは「あさりの佃煮」「しそ昆布」。隣の席同士、見知らぬ者同士でのお酌は禁止。床はタイル張り。私は父の死の30年後、叔母からの情報で数度訪問。ほんとの東京・下町の飲み屋だった。2008年閉店。