THE TED TIMES 2025-46「大沢巳代治」 11/27 編集長 大沢達男
(一人の時計職人が、大きな歴史の小さな歯車を、動かしていました。)
1、山田六一(やまだろくいち)
『山田六一随想集 三協精機創業以来の思い出』という本があります。
「著者・発行者 山田六一」で定価の表示はなく、自費出版された本です。
ネットで調べると国会図書館と神奈川県立図書館にしかない希少本でした。
私は県立図書館の相模倉庫からこの本を取り寄せ読むことができました。
目的は三協精機の創立に関与したと伝えられる父・大沢巳代治(おおさわみよじ)の消息を求めてです。
基本的な情報を確認しておきます。
三協精機とは1946年に長野県下諏訪に設立された「三協精機製作所」です。
オルゴールと電子機器で有名な三協精機です。
現在は「ニデックインスツルメント株式会社」で、その前は「日本電産サンキョー株式会社」でした。
1976年インスブルックオリンピック日本選手団団長が三協精機社長の山田正彦で、1998年長野冬季五輪スピードスケート500メートル金メダルの清水宏保が所属していたのが三協精機です。
山田六一はその三協精機創立者のひとりで、その後に社長になり長野県を代表する企業家の一人になりました。
『山田六一随想集』はA5版で277頁もあるハードカバーの立派な本です。
山田六一が本をまとめていたのは84歳(2001)のころです。
昔のことは忘れてしまっているのではないか。
父・大沢巳代治に関する記述はあるのだろうか。
私は疑惑に駆られながら本を開きました。
ところがいきなり、大沢巳代治の足跡を求める私の目的は、期待を上回るかたちで達成されました。
2、時計信管
冒頭の1節<我が社の誕生は時計信管の取りなす縁>に全てがありました(もちろん我が社とは三協精機)。
<諏訪地場産業の雄・北沢工業と兄弟会社の東洋バブルは、製糸産業向けのバルブメーカーの大手として繁栄していたが、太平洋戦争の激化と共に軍需産業化へのニーズが高まり、製糸産業の斜陽化と相俟って、主力製品のバルブは軍用船舶向けが中心になり、そして新たに時計信管を造ることになった。
因みに、時計信管とは高射砲の砲弾に組み込まれる時限起爆装置であり、砲弾が標的となる航空機の周辺に到達すると同時に炸裂するよう、時間を制御するユニットである。
東京の精工舎等で活躍していた時計技術者の大沢巳代治と小川憲二郎は、時計信管造りの技術者を求めていた東洋バルブにスカウトされ、機械設計技術者の私も北沢工業に就職することになった。
1944年8月(S19)のことである>(p.11)。
「時計信管」とは高射砲弾の起爆装置ですが、軍事的な特殊作戦や暗殺に使われる技術です。
戦後を騒がせた極左集団、企業連続爆破事件のテロ教本「腹腹時計」の「時計」とは、時計信管のことです。
私たち家族は、東京・本所から長野県・諏訪に疎開し、父・大沢巳代治は東洋バルブに勤務していました。
しかしその仕事の内容は誰も知りませんでした。
もちろん母も・・・。
不思議なことがあります。
小川憲二郎は、精工舎から諏訪精工に移籍し東洋バルブに勤務しています。
ところが大沢巳代治は精工舎を退社して(させられ)東洋バルブで、小川と合流しています。
大東亜戦争が始まった1941年前後の話です。
なぜそうなったのか。二つの説明が可能です。
ひとつはセイコーが、二人揃って東洋バルブに移籍して精工舎(セイコー)=軍需産業になることを、恐れたからです。
ふたつ目の説明は、大沢を退職させ、大沢の身辺を洗ったからです。
小川は学歴もあり出身もしっかりしていました(と考えられる)。ところが大沢は小学校卒業、その父は素人の相撲取りで、博徒・侠客に近い存在でした(このことについては後ほど触れる)。
出自のはっきりしない大沢を、国家機密の仕事を任せるわけにいかない、身辺を調べる必要がありました。
証拠があります。
戦後になって、母が何の意図もなく、私にした話があります。
「オオサワは頭がいいからアカ(共産主義者、社会主義者)じゃないかって、トッコウ(特高=特別高等警察)がお父さんを随分調べたんだよ」
母は特高の活動の意味を意味を知りませんでしたが、大沢を泳がせて身辺を洗っていた事実を言ったのでしょう。
時計信管(時限爆弾技術)の仕事は、最高度の軍事機密でした。
父は死ぬまでその秘密を一言も口にすることなく死んでいきました。
お国に尽くした、「報国」で「殉国」です。
逆に、山田六一がこれほどあけすけに、「時計信管」について語ったのも初めてでしょう。
戦後も50年以上たった、功成り名遂げた、という気やすさでしょうか・・・。
3、三協精機
『山田六一随想集』に戻ります。
1945年に戦争が終わります。
北沢工業と東洋バルブは、軍需産業からの事業転換を迫られます。
バルブ部門は問題ありませんが、問題は「時計信管」部門です。
新たな製品分野の展開が必要になります。そして・・・
<大沢巳代治と小川憲二郎他の技術スタッフを活用し、ウォッチ事業に参入する旨の方針が打ち出された。>(p.12)。
しかし大きな環境変化に対応できす北沢工業で労働争議が起こります。
全国の注目を集めた労働争議は、中央から神近市子、長野県からは知事・林虎雄、さらに地元・諏訪からは共産党員林百郎弁護士が登場し、争議終結まで8ヶ月もかかります。
<新規事業として取り組む筈のウォッチ製造は、構想倒れとなって取り止めが決定した。(中略)これにより大沢巳代治と小川憲二郎もまた目指す目標を失ってしまったのである>(p.13)。
そして三協精機が誕生します。
<かくして、諏訪の地に新たな産業を起こさんと企業家精神に燃えていた山田正彦をリーダーとし、機械設計技術でそれを支えたい思いの私(筆者注:山田六一)と、実績豊富な時計技術者である小川憲二郎の三人でチームを組み、新たな事業にチャレンジする相談がまとまったのである(筆者注:三協精機製作所の創業は1946.6)>(p.13).
<尚、我々三人組の発足当初よりアドバイザー的協力者だった大沢巳代治は、時計造りこそが我が道との思いが強く、我々と最後まで運命を共にするということはなかった。>(p.13)。
『山田六一随想集』は全体が48の小節から構成されていますが、冒頭の1節のエンディングは大沢巳代治で結ばれています。
こうして大沢巳代治は「伝説の時計技術者」として歴史に残ることになりました。
4、大沢巳代治
山田六一の記述に疑問があります。
まず三協精機の「三」とは誰かです。
私は母から、「山田さん、小川さん、お父さん(大沢)での三人で始めたから『三協』」、と聞いてきました。
山田兄弟と小川の三人だと、「三協」の発想はむずかしい。
「三協」というネーミングを考えたのは、大沢か小川か、大沢だったのではないでしょうか。
三人が協力して事業を始めようなんて、毛利元就の「三本の矢」のようでロマンチックです(筆者注:大沢巳代治はその後「信濃精機」という会社を創業する。「三協」と「信濃」というネーミングには、同じ浪漫の血脈がある)。
次の山田六一の記述への疑問は、大沢巳代治が「三協」を加わることを諦めている件(くだり)です。
山田六一は大沢が三協から離れていった理由として、大沢の時計造りへの情熱と解説していますが、理由は他にもありそうです。
まず年齢の違い。
三協精機創業の1946年、大沢巳代治(1903~1955)42歳、小川憲二郎(1910?~1990)30代後半、山田正彦(1914~1991)32歳、山田六一(1917~2013)29歳。
小川憲二郎の生年は不明。ただ山田六一の記述が大沢・小川の順になっていることから、小川は大沢より歳下の30代後半と推定されます。
父の口癖は「四十、五十はハナタレ小僧」、だとすれば、山田兄弟はまだ「クチバシの黄色いヒヨッコ」でした。
つぎに学歴の違い。
大沢巳代治はセイコーの創業者・服部金次郎に育てられました。金次郎を手本として、小学校卒業で丁稚奉公し、苦学して時計職人なりました。
一方、山田正彦は岡谷工業高校から早稲田大学、山田六一は諏訪清陵高校から山梨大学工学部(山梨高等工業学校)、ともに当時のスーパーエリートでした。
そして文化の違い。
大沢巳代治は東京・本所で育ち、落語、都々逸、そして将棋を指しました。巳代治の父・大沢甚之助は花相撲の相撲取りでした(筆者の推測:美男の甚之助の祖先は「壬申の乱」で千葉に逃げてきた大友皇子=弘文天皇の一行の蘇我赤兄=そがのあかえ)。
一方山田正彦は戦前の農水省に勤務していた高級官僚、山田六一が卒業した諏訪清陵高校の先輩には気象学者・藤原咲平、岩波書店の岩波茂雄、教育学者で『原爆の子』の長田新などの長野県の知識人がいて、さらに山田六一の義父は「諏訪ホテル」を経営する地元の名士でした。
父は、将棋で諏訪じゃ負ける人はいないと豪語していましたが、諏訪は父のような東京・本所育ちの粋人にはちょっぴりつらい土地でした。
父・大沢巳代治は様々な思いから、「三協」を去っていったのはないでしょうか。
5、小川憲二郎
私の小川憲二郎に関する思い出あります。
小学1年生の私は、腕時計の分解・掃除・組み立てができる、父も驚く天才でした。
つまり動かなくなったロレックスを再起動させることができる、ひとりでメシを食っていける「6歳の時計職人」でした。
ある日母に小川憲二郎の家に連れて行かれました。
小川は父より若かったが、母の対応からすると精工舎では上司だったのでしょう。
大きな門構えの家の向かう川沿いの道で言われました。
「いいかい、たっちゃん!(筆者のこと)」
「お前のことを、小川さんによーく覚えて貰うんだよ」
母の奇跡への願いは通じました。
それから40年後、2000年よりちょっと前の話です。
私はなんと「三協精機」のCMスタッフの企画ブレーンとして加わっていました。
しかしそのころ小川憲二郎はすでに亡くなっていました。
山田六一は社長として健在でした。
***
大沢:「始めまして。大沢巳代治の息子の大沢達男と申します。電通にCMクリエーターとして勤務しております」
山田:「タツオくん? 大沢さんのタツオくん! 『6歳の時計職人』のタツオくん!! 小川さんから聞いてよーく知ってますよ!」
「ようこそ、三協精機社長の山田六一です。大沢達男さん、スラっとしていて、お父さまに似てますね」
大沢:「いや中味はダメです。おだてに乗りやすい天狗で、父ほど仕事熱心じゃありません」
山田:「ホント、大沢巳代治さんは、仕事が好きでしたね」
大沢:「ところで、山田さんは諏訪湖カントリー倶楽部の理事長でいらっしゃるようですね。ゴルフならお供できますよ(笑)・・・」
山田:「やっぱり大沢達男さん、気配りとユーモア、そのスバリとしたモノの言い方は、お父さまソックリですよ」
二人:「ハッハッッハ!!!」
***
以上は冗談です。私が創作した山田六一vs.大沢達男の仮想対談です。
『山田六一随想集』のあるように、もし山田六一が大沢巳代治に対して含むところがないと知っていたなら、私は大沢を名乗り出て社長室に押しかけていたでしょう。
6、殉国
父・大沢巳代治は、大きな歴史の小さな歯車を、動かしていました。
父がアドバイス(指導)した三協精機の3人のほかに、忘れてはならない2人がいます。
ひとりはカメラ・メーカー「ヤシカ」を立ち上げた牛山善政(1922~2000)、もう一人は6×6cmの一眼レフ「ゼンザブロニカ」を開発した吉野善三郎(1911~1988)です。
ふたりは大沢巳代治の自宅を訪れアドバイスを受けていました。ふたりも大沢が世に送った企業家として歴史に残さなければなりません。
大沢巳代治がメンター(助言者・指導者)を務めた山田兄弟・小川・牛山・吉野の5人は、全て成功して時代の寵児になっています。
しかしメンターの大沢巳代治だけは、波乱万丈の10年近くを諏訪で過ごし、無一文になり東京に戻っています。
そして日本を席巻した5人の弟子たちの見舞いも受けることなしに、51歳のときにひとりで、昭和の舞台を去って行きました。。
涙、涙、涙です。
父の死の翌年(1956年)、三橋美智也の「りんご村から」がヒットしました。
信州信濃の諏訪を連想させる「りんご村から」は、父のイメージと重なる昭和の歴史のひとこまになりました。
♬上りの~夜汽車の~ にじんだ汽笛~♬
全てを失い、上諏訪駅の東京に向かう小雨のホームに立った、大沢巳代治の胸には何が去来していたでしょうか。
涙、涙、涙です。
***
「伝説の時計技術者」大沢巳代治の記録を残していただいた山田六一に感謝します。
しかし山田六一の記述に最後の疑問があります。
大沢巳代治は国家機密である「時計信管」の秘密を抱えながら死んでいきました。
その秘密を「暴露した」山田六一は正しいのでしょうか。
それが戦後の民主主義なのでしょうか。
私は、口を閉ざして死んだ父、「殉国」の父に従います。
End