「ヒットマン」を年間ベストワン候補のひとつに選びました。だめでしょうか。

THE TED TIMES 2024-41「ヒットマン」 10/15 編集長 大沢達男

 

ヒットマン」を年間ベストワン候補のひとつに選びました。だめでしょうか。

 

1、「ヒットマン

私の青春の映画体験のベストは、グレン・フォードの「暴力教室」でも、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」でも、バート・ランカスターの「OK牧場の決闘」でもありません。

「マーティン & ルイス」の「底抜け」の爆笑劇です。

やたら映画館で笑ったのを覚えています。私にとってアメリカ映画はお笑いでした。

芋づる式にあの頃を思い出します。

「大人の漫画」のクレージー・キャッツ植木等、「雲の上団五郎一座」のエノケンも面白かった、ホントに腹を抱えて笑いました。苦しかった。

映画「ヒットマン」を観て、あの頃のように笑い、映画を楽しみました。幸せでした。

グレン・パウエルが演じる主人公ゲイリーは、普段は大学で心理学と哲学と教えています。

一方で警察のおとり捜査官として殺し屋になり、依頼人から具体的な殺害依頼を聞き出したところで、逮捕するという仕事をしていました。

ですからゲイリーは依頼人に合わせて、全く異なるキャラクターに変身し、犯人を誘導します。

パウエルの演技の幅に広さが映画の見せ所になります。殺人の依頼でありながら、笑ってしまうわけです。

さらに面白いのは捜査本部では、ゲイリーと依頼者のやりとりを盗聴しています。

ゲイリーは違法スレスレの会話をします。本気か演技か。ハラハラドキドキ。

でもゲイリーのあまりものC調ぶりに、捜査本部も、映画を観ている観客も笑ってしまう、仕組みになっています。

映画のエインディングがいいです。

ネタバレのようになってしまいますが、ゲイリーと依頼人が純な恋におちてしまいます。

だまし合いのストーリーの中で唯一、私たちの純粋さがマッサージされるようで気持ちがいい。

思わず私は、今年度のベストワン・ムービーの一つだ、とつぶやいてしまいました。

 

2、日経

映画を観たのは日経のおかげです。映画評論家・春日太一の推薦です。

まず春日は2024年は「グレン・パウエルの年」だと言います。

トップガン・マーヴェリック」で注目を集め、今年日本で公開されるのは、「恋するプリテンダー」、「ツイスターズ」そして「ヒットマン」というわけです。

春日は、3本とも年間ベスト級、と評価します。

つぎにリチャード・リンクレイター監督の作品であることです。

アカデミー賞5回ノミネート、ゴールデン・グローブ賞2回受賞、英国アカデミー賞2回受賞、ベルリン国際映画祭銀熊賞2回受賞の輝かしい戦績を持つ監督です。

残念ながら、どの作品も観ていません。

まあ今回監督の名前を知っただけでも収穫としておきましょう。

 

3、グレン・パウエル

さてグレン・パウエルのような役者が日本にもいるでしょうか。

まずコロッケがいます。森進一、美空ひばりのモノマネは秀逸。コロッケなら、グレン・パウエルに負けない。

そしてもうひとり中村獅童を思い出しました。映画「首」(北野武監督)です。

中村獅童の演じた難波茂助には驚きました。だれもが、歌舞伎役者はここまで芸域が広いのかと驚いたはずです。

映画自体は、北野監督へのあまりもの期待が強すぎ、評価できなかっただけに、中村獅童の演技だけが印象に残りました。

中村獅童なら絶対グレン・パウエルに負けない。変な映画の感想になってしまいました。

朝日、毎日が発行部数を減らしているのは、リベラリズムの主張で、いまだにGHQの機関紙のようだからです。

THE TED TIMES 2024-42「GHQの機関紙」 10/22 編集長 大沢達男

 

朝日、毎日が発行部数を減らしているのは、リベラリズムの主張で、いまだにGHQの機関紙のようだからです。

 

1、天声人語

朝日・毎日の元幹部の記者をまえに、「朝日・毎日はGHQの機関紙」とジャーナリズムの素人が、思わぬ喧嘩を売ってしまいました。

証拠を出します。

昭和23年(1948)1月8日の朝日新聞に掲載された「天声人語」の全文を引用します。

『閉ざされた言語空間ー占領軍の検閲と戦後日本』(江藤淳 文春文庫 1994年)からの孫引きです。

 

「キーナン検事の尋問に対して東條被告は『首相として戦争を起こしたことは道徳的にも法律的にも正しかった」と答えている▲東條が法廷で何を言おうとそれはかまわぬ。思った通りをそのまま言えばよい。東條一人が前非を悔いてしおらしいことを言ってみても今さら何の足しにもならぬ。われわれもまた東條の言辞を相手に論争しようとも思わぬ▲問題は、東條の陳述に国民がどんな反応を起こすかである。アルカリの反応をするのか酸性の反応を示すかである。諸外国の注意もそこにある▲外人記者も言っておる。『世界は東條の口許を見ていない。東條の言を聞いた国民の表情を注視しているのだ』と▲このごろ電車の中などで『東條は人気を取り戻したね』などと言うのを耳にすることがある。本社への投書などにも東條礼賛のものを時に見受ける。沈黙している大部分の国民は、いまさら東條のカストリ的、爾光様的迷句に酔うとは思われない。が一部に東條陳述共鳴の気分が隠見していることは見逃してはならない▲それは歴史のフィルムを速く回すことだ。民主主義のプールの飛び込んだはずの水泳選手が、開戦前の侵略的飛込台に逆戻りするにひとしい。それはまた、美しいワイマール憲法を作ったドイツ国民が、ナチスの害虫にむしばまれてしまったことを連想させる」(p.290~291)

(筆者注:カストリ=密造酒。爾光様=人間宣言天皇は退位した。これからは自分が天皇と宣言した宗教家。信者に双葉山呉清源

 

東條元首相をめぐる極東軍事裁判は1948年1月7日終わりますが、1月8日の「天声人語」はそれを受けてのものです。

その裁判で、前年の12月19日に「東條口述書」が、ウェッブ裁判長、キーナン主席検事に提出されます。

東條は口述書で次のように断じていました。

「私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認されたる国際法に違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつて本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、また敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人になり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えたこととてない」

「敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である」(p.285~6)

裁判は4日間、東條は以上の主張を、キーナン主席検事の反対尋問に対してもまったく崩しませんでした。

 

『閉ざされた言語空間』の著者・江藤淳はこの天声人語の筆者に対して、「奴隷的な言葉」を用いて書いている、と怒りをあらわにしています。

そして図らずも天声人語が指摘した「東條礼賛」の空気があるなら、東條は処刑の暁には殉国の士になりかねない、このことを恐れたGHQは言論検閲の新たな強化を計画をするようになります。

いかがでしょうか。朝日新聞GHQの機関紙の証拠になっているでしょうか。

 

2、GHQ言論弾圧

戦後史に対する見方は、いま取り上げた『閉ざされた言語空間ー占領軍の検閲と戦後日本』を読んでいるかいないか、で全く変わってきます。

戦後史を語る上では、必読なのに、読まれていない本です。

初出は雑誌『諸君』(文芸春秋社)、1982年~1986年に連載され、単行本が1989年(平成元年)、文庫本が1994年に出版されています。

 

戦後にGHQの言論検閲があったとは、「プレスコード」があったことで、だれでも常識的に知っています。

プレスコード」(Press Code for Japan=日本に与える新聞遵則)は、1945年9月18日の朝日新聞の発刊停止処分を受けて、9月19日に発布されました。

新聞のみならず刊行物にも適用されるもので、日本での言論の自由を確立する、を目的にしたものでした。

その内容は、連合国を批判しない、進駐軍の動向を報道しない、そして真実の報道する、公安を害しない、など常識的なものでした。

続いて「日本放送遵則(Radio Code for Japan)」、映画遵則も発布されます。

戦後のGHQの言論検閲は「プレスコード」によって行なわれ、連合国批判は御法度だった、これが日本人の常識でした。

 

ところが昭和の終わり、平成時代の到来とともに『閉ざされた言語空間ー占領軍の検閲と戦後日本』(以下、「江藤本」と呼ぶ)によって明らかにされたGHQによる言論検閲はとんでもないものでした。

それは「言論検閲」、などとという甘っちょろいものではなく、「言論統制」であり「言論弾圧」でした。

言論弾圧の3本柱は、「極東裁判への一切の批判」、「日本国憲法GHQ起草への批判」、そして「GHQによる言論検閲の秘匿」、言論の自由とは正反対のものでした。

 

なぜ江藤淳はこんなことが書けたのでしょうか。

占領軍が、米国が持ち帰った言論検閲のための日本の書籍、新聞、雑誌、おびただしい言論検閲の資料に、米国立公文書室で触れることができたからです。

それらは1977年まで図書館の地下室に死蔵されていて、あやうく忘れ去られそうになっていました。

それが米国人文科学振興基金助成金で整理され公開されるようになったものでした。

 

言論検閲の実体の要点は、

1)言論検閲はCIE(Civil Information and Education Section=民間情報教育局)を中心でしたが、本当の主役は影の組織CCD(Civil Censorship Detachment=民間検閲支隊)でした。

CCDは伏字だとか削除とか荒っぽい検閲をしませんでした。あくまでも秘密ですから、なにもなかったかのような静かでスマートな検閲でした。

2)CCDの言論検閲には英語ができる日本の知識人が9000人が雇用され協力していました。

私信を開封する検閲作業もありました。

後に自治体の首長になった人もいたと噂されていまが、いずれにしても政治家、公務員、マスコミ、企業の将来の日本の指導的立場になった人々です。

誰がGHQに協力したかは不明です。知る限りでは2名の人が名乗りをあげています。

T.K.さん(89)とS.K.さん(88)で、ともに1947年にCCD(民間検閲局=民間検閲支隊)に入っています。

T.K.さんによれば、国家公務員の初任給が4000円だったときに検閲官の給与は7000円、もちろん私信開封に罪悪感はあったと回顧しています。

S.K.さんは、友人にCCDで働いていることを打ち明けたら、「ひどいことをしているんだね」と言われ、周りに語ることをやめたと言います。でも自分がやったことは後世に伝えなければいけないと重要な事実だと認識していました。

(以上は日経2015年9月2日。報道では実名が入っている)

3)言論検閲の真相が明らかになったのは平成になってから、団塊の世代が成人してからの話です。昭和の終わりまで、言論検閲はないものとされきました。

日本人の知識人の常識に「江藤本」はありません。

4)朝日新聞毎日新聞の論調、○靖国神社参拝批判、○護憲。憲法改正反対、○言論の自由(民主主義)の主張は、GHQの言論検閲のポリシーそのものです。

ただし読売新聞は1994年11月に読売憲法改正試案を発表しています。渡辺恒雄が「江藤本」を読んだからです。対して朝日、毎日は「江藤本」を「右翼」の本として無視しています。

5)江藤淳は、占領軍の検閲は戦前戦中の日本の国家権力の検閲とは次元を異にするもので、検閲の秘匿を媒介にして非検閲者を共犯関係に誘い込み伝染させる、ことを意図していたと指摘しています。

「占領軍当局の究極の目的は、いわば日本人にわれとわが眼を刳(く)り貫(ぬ)かせ、アメリカ製の義眼を嵌(は)めこむことにあった」(江頭本 p.273)。

つまりアメリカ製の義眼をはめこまれた朝日・毎日と進歩的文化人は、サンフランシスコ講和条約が結ばれGHQがいなくなっても、GHQに代わって言論検閲を続けていました。

 

3、太平洋戦争史

言論検閲、言論統制言論弾圧の始まりは、「太平洋戦争」というネーミングです。

GHQは「大東亜戦争」に変わり「太平洋戦争」という名を日本人に与え、1945年12月8日から10回、全国の新聞に『太平洋戦争史』を掲載しました。

『太平洋戦争史』(GHQ/SCAP/CIE 連合国総司令部民間情報教育局資料提供 呉PASS復刻選書7 呉PASS出版 復刻平成27年6月10日 原著昭和21年3月30日 高山書院)からその冒頭を紹介します。

「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙の暇がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬような明瞭な資料によって発表されて行くことになろう」(前掲p.15)。

まず、権力と国民を分断することを狙い、そして戦争犯罪を告発しています。あきらかに「天皇制ファッシズム」、マルクス主義の記述です。

1)軍国主義者は権力を濫用した、2)国民の自由を剥奪した、3)軍部は国際慣習を無視し捕虜と非戦闘員に非道なる取り扱いをした、さらに4)真実を隠蔽した国民をだましてきた。

つぎに、日本人を暴力的な野蛮人・未開人扱いにした人種偏見、リベラリズムの記述があります。

「(南京で)婦人達も街頭であろうと屋内であろうと暴行を受けた。暴力に飽まで抵抗した婦人達は銃剣で刺殺された。この災難を蒙った婦人の中には60歳の老人や11歳の子供達までが含まれていた」(p.55)

お読みなってどう感じますか。

(筆者注:GHQ製の『太平洋戦争史』では北京での死者は2万人だが、『中国の旅』(本田勝一 1981年)は30万人。本田勝一の取材記事は、すべて中国共産党のアレンジ・プロパガンダのままで、「従軍慰安婦問題」以上の誤報である)。

GHQの主張は私たちの常識の一部になっていませんか。

だいいち「太平洋戦争」は私たち日本人が何のストレスもなく使う用語になっていませんか。

私たちはGHQに洗脳されています。

『太平洋戦争史』を平成27年になって復刻した出版した編集者この事態を嘆いています。

編集者は、「大東亜戦争は、国際的な善悪のパラダイムが既に形成、固着しており、これらを拭い去ることは容易ではない」と呼びかけ、日本人はあきらめてはならない、大東亜戦争の意義を語り継がなければならない、と出版の意図を語っています(p.6~7)。

 

大東亜戦争の意義を明解に語った本があります。大川周明の『米英東亜侵略史』(土曜社)です。

GHQの『太平洋戦争史』の掲載が始まった1945年12月8日の4年前、大川周明は、1941年12月8日の開戦直後の14日から25日までNHKラジオで全12回の連続講演をしました。それを書籍にしたものです。

まず『米英東亜侵略史』には、英国がインドと中国でやってきた侵略と殺戮が、証拠をそえて余すところなく描かれています。

さらに米国は、満蒙・東洋進出に日本が邪魔であるのに気づき、サンフランシスコで日本人を排斥し、日英同盟を廃棄させ、さらにワシントン会議日本海軍を米英の6割に制限させる経緯を、事実をもとに説得力を持って書いています。

大川周明は怒りの叫び声をあげます。

アメリカの乱暴狼藉かくの如く(後略)・・・繰返して述べたる如く、米国の志すところは、いかなる手段をもってしても太平洋の覇権を握り、絶対的に優越たる地歩を東亜に確立するに在る。そのために日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、しかる後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするのである」。

大川周明は戦いの正当性を訴えます。

「大東亜戦は、単に資源獲得のための戦いでなく、経済的利益のための戦でなく、実に東洋の最高たる精神的価値および文化的価値のための戦いであります」。

「日本精神とは、やまとごころによって支那精神とインド精神を綜合せる東洋魂であります」、と12回のラジオ講演を結びます。

大川周明東京裁判戦争犯罪人として逮捕されながら、精神障害を理由に免訴されています。

でもそれは表向きの理由。

もし大川が法廷に立ったなら、裁かれなくてはならないのは、米英であることを証明されてしまうからです。

大川は東京大学を卒業し、拓殖大学、法政大学で教壇に立った学者です。

それも、とんでもない学者でした。

英語、フランス語、ドイツ語、サンスクリット、そしてアラビア語、以上は完璧、さらに中国語、ギリシャ語、ラテン語にも手を出していました。

ですから『米英東亜侵略史』は、豊富な文献にあたった事実に溢れ、実証的で文章に優れ説得力に富む、現代でも通用する一級の著作でした。

東京裁判の法廷で大川周明を論破できる知識人はいませんでした。

 

現代を代表する書き手の佐藤優が、大川周明の『米英東亜侵略史』を読み、GHQ流の大東亜戦争(太平洋戦争)批判に疑問を投げかけています(『日米開戦の真実ー大川周明著『米英東亜侵略史』を読むー』 佐藤優 小学館文庫)。

「国民は騙されて無謀な戦争に突入した」、「大本営発表はすべて大嘘だったとの通説は実証されるのだろうか」(p.146)。

さらに「国民が政府・軍閥に騙されて勝つ見込みのない戦争に追いやられたというのは、戦後に作られた神話である」(p.152)。

そして歴史に「もし」はないとしながら、「あの状況で戦争を避け、アメリカの理不尽な要求を呑んでいても」、

「植民地にならずとも保護国のような状態になった」(p.200)、もしくは社会主義国家になったかもしれないと推定しています。

そして忘れてはいけません。

米英の侵略は、白人帝国主義、人権・自由・平等のリベラリズムの旗の下に行われていることです。

アロー戦争(1856~1860)中、イギリスの新聞デーリー・テレグラフは以下のような社説を掲載しました。

「すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ。人殺しの如き人相して、奇怪な服装をなせるこれらの多数の悪党の姿は、笑うに耐えざるものである。支那に向かっては、イギリスが彼らより優秀であり、彼らの支配者たるべきものたることを知らしめなければならぬ」。

イギリス人の下品な言葉遣いに、大川周明は驚いています。

それどころか1960年代まで、白人が遺伝的に優秀である、は常識でした。

つまりGHQ占領政策は、白人帝国主義リベラリズム帝国主義のもとで、行われてきました。

 

最後に『太平洋戦争史』を誰が書いたか、を推測します。

まず、CIEの企画課長スミス・ブラッドフォード(ブラッド・フォード・スミス 1909~)です。

スミスは昭和9年から11年まで、東大、立教大学で講師を務め、昭和16年から20年まで戦時情報局員(ルース・ベネディクトと同じ)でした。戦時中は紙爆弾(ビラ)を作成し、対日放送で心理戦争に従事していました。

戦後にCIE(民間情報教育局)に勤務するために再来日したことになっています。

つぎは、エドガート・ハーバート・ノーマン(1909~1957)です。宣教師の子供で軽井沢生まれ、トロント大学ケンブリッジ大学ハーバード大学で学び、日本では羽仁五郎に学んだ日本史歴史学者です。

英国情報局保安部はノーマンを共産主義者と断定、ノーマンはソ連のスパイの疑いをかけられ、1957年に自殺しています。

そしてチャールズ・L・ケーディス(1906~1991)です。マルクス主義者で日本国憲法の9条を起草しました。

そしてもうひとり日本人の羽仁五郎(1901~1983)がいます。

1945年12月に日教組の原型である教員組合をGHQの指導により結成した羽仁五郎は、GHQのお気に入りで、占領軍のあたりをうろついていました。

『太平洋戦争史』は、占領軍だけでなく、日本人の羽仁五郎によって書かれていることを忘れてはなりません。

 

4、リベラリズム

『サピエンス全史』のユベル・ノア・ハラリは、西欧キリスト教社会では1960年代まで白人帝国主義であった、と指摘しました。

つまりGHQの占領施策である東京裁判日本国憲法・言論検閲は、白人帝国主義リベラリズムの所産でした。

歴史人口学者のエマニュエル・トッドは、『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上下』(エマニュエル・トッド 堀茂樹訳 文藝春秋)で、リベラリズムは米英の核家族イデオロギーに過ぎない、と指摘しました。

「(核家族型社会の価値観である)個人主義的で、自由主義的で、女権拡張的な価値観(中略)、この価値観に適応しようとしたからこそ、ドイツと日本の直系型家族社会は人口面で機能不全を来し始めたのではないだろうか」、

「子供を生み出す力がドイツと日本で弱いのは、(中略)アメリカ的近代に対する直系家族型社会の反動なのではないのか(p.175)」。

「(現在の)日本は米国の占領地」と、トッドは露骨に指摘します。

つまり日本国憲法GHQ言論統制により西欧思想のリベラリズムに占領されているからです。

 

「人権」とは、侵略と占領で奴隷がいた階級社会が生んだ概念です。さらに西欧の啓蒙思想は、自然を支配し、森林を破壊しました。

私たちは、「山川草木悉皆成仏」、ものみな仏になります。

さらに「衆生無辺誓願度」(しゅじょうむへんせいがんど=生きとし生けるものをみな救って欲しい)です。

 

「自由」など問題になりません。私たちは他民族の自由を奪い奴隷にし支配したことも、されたこともありません。

天皇は民を「うしはく(所有・支配)」するのではなく「しらす(一体化・知らす)」存在です。

私たちは天皇の大三宝(おおみたから)です。共同体のなかの守るべき分があります。

 

「平等」てなんでしょう。私たちは西欧のような階級社会ではありません。黒人、有色人種を差別してきていません。男女同権は「魔女狩り」をしてきた西欧思想です。

「一視同仁」(いっしどうじん=すべてのひとの分け隔てなく)です。

男は益荒男(ますらお)、女は手弱女(たおやめ)、妻は「かみ」さん、山の神(やまのかみ)です。

 

GHQが掲げてきた米英アングロサクソンの、人権、自由、平等のリベラリズムは、人類の普遍的な価値観ではありません。

それどころか<リベラルな構造を突き詰めるとある種の帝国主義に至る>( 後掲書 p.62)のです。

<自由と民主主義を破壊し、専制帝国主義を招いたのは「リベラリズム」だった!>というキャッチ・コピーの衝撃的な本『ナショナリズムの美徳』(ヨラム・ハゾニー  庭田よう子訳 東洋経済新報社)がいま問題になっています。

<リベラル派は、何が正しいかについて自分たちの見方を多数のネイションが受け入れることを当然と考えるのだ>( p.62 )

<リベラル構造は・・・1つの原則しかない・・・それは個人の自由だ。ジョンロックは(その著『統治二論』の冒頭で)・・・すべての人間は一人ひとり、生まれながらにして「完全に自由」で「完全に平等」な状態だと冒頭で宣言する>(p.66)

さらにはっきりしてきました。国際紛争の陰には、ウクライナアフガニスタン、中東・・・いつもリベラリズムがあります。

***

朝日・毎日は、「GHQの機関紙」だという憎まれ口を利きましたが、他意はありません。

私自身が、朝日・毎日に育てられてきたからです。

私は幼少の頃から、朝日新聞の読者で、学生・社会人になってからは、朝日ジャーナル週刊朝日の熱心な読者でもありました。

スターリン死去(1953年 筆者10歳)の朝日新聞の報には世界がどうなるか心配しました。

宇宙飛行士ユーリー・ガガーリン、そしてメルボルン・オリンピック(1956年 筆者13歳)でのウラジミール・クーツ(陸上5000・10000m)たちのオリンピックでのソ連選手の活躍に興奮しました。

朝日ジャーナルの「若者たちの神々」(1984~85 筑紫哲也)、週刊朝日の「ブラック・アングル」(1976~山藤章二)も楽しみました。

元毎日の新聞記者・大森実が発刊した新聞「東京オブザーバー」(1967~70 筆者24歳)はお洒落で驚きました。大森実は憧れの人になりました。

同じく毎日記者上がりのテレビで活躍した三宅久之コメンテイターもファンでした。

江藤淳は昭和23年の朝日の天声人語を「奴隷的な言葉」と批判しましたが、その後の朝日・毎日の発行部数の伸びからすると、その論調は戦争を嫌い平和を望む国民の気分を先取りしていた、といえるかもしれません。

新聞記事といえども需要と供給です。マーケティングが必要です。朝日・毎日の人権・自由・平等のリベラリズムは国民読者の要望に応えていました。

 

しかしいま2024年は『ナショナリズムの美徳』の時代になりました。

日本はインバウンドの観光客で溢れています。なぜ世界は日本に惹かれるのでしょうか。

東京駅の前にある広大に皇居に外国人観光客は何を思うでしょうか。なぜ皇室があるのか。自由と平等のリベラリズムでは説明できません。

全国には8万強の神社と8万弱のお寺があります(因みにコンビニの数は5万)。日本人はなぜお参りするのでしょうか。緑豊かな神社や氏子(うじこ)を人権では説明できません。

日本にはなぜ200年企業があるのでしょうか。「三方良し」を「プロテスタンティズムの倫理」では理解できません。。

MLBでは日本人・大谷翔平が活躍しています。野球能力の話ではありません。なぜ大谷はグランドのゴミを拾いポケット片付けるのでしょうか。「自利利他」はフェアプレー理論にありません。

大相撲に外国人は魅了されています。ハダカの関取、紋付袴の親方、そして行司の衣装、目を見張るファッション。女人禁制の土俵は後進国女性差別として否定されるべきものなのでしょうか。

・・・まあこんな難問はさておき、いまや朝日・毎日の論調は、時代に答えていません。

 

2024年元旦の社説に朝日新聞はガザとウクライナの戦争についてふれ<暴力を許さね 関心と関与を>と書きました。

同じく元旦の社説に毎日新聞は、<二つの戦争と世界 人類の危機克服に英知を>のタイトルを掲げ、まずは停戦で死傷者を減らす、つぎに市民が声を上げる、そして人類の危機には他者との共生の道がある、と説きました。

まるで小学生が児童会で、ケンカはいけません、いじめはいけません、転校生ともなかよく、と主張しているかのようです。

私たちの仲間はここ10年、朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の「元旦社説ランキング」を、毎年やっています。

2024年の結果は、なんと朝日が最下位、毎日が下から2番目、初めてのことでした。

ディスカッションの6人のメンバーに、元朝日、元毎日、もとテレ朝の記者がいた、にもかかわらず。

現代の紛争と戦争の世界に、リベラリズムでは何も説明できません。

リベラリズムでは解決できません。リベラリズムが原因になっているからです。

新聞の時代は終わります。

それにしても朝日と毎日の落ち込みはひどい、リベラリズムの朝日・毎日から読者は逃げています。

 

End

 

 

 

 

 

『至福のレストラン』は、ワイズマン監督の傑作。『ニューヨーク公共図書館』、『ボストン市庁舎』をはるかにしのぎます

THE TED TIMES 2024-39「至福のレストラン」 10/1 編集長 大沢達男

 

『至福のレストラン』は、ワイズマン監督の傑作。『ニューヨーク公共図書館』、『ボストン市庁舎』をはるかにしのぎます。

 

1、映画の発明

映画『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』(フレデリック・ワイズマン監督 アメリカ)を、今年のベスト・ワン候補に推します。

まず映画を発明しています。240分の長編ドキュメンタリーですが、飽きないどころかもっと観ていたい、と思いながら映画館の席を立ちました。

それほど魅力的な映画なのに、ナレーションが、スーパーが、そして音楽がありません。ないないづくしの映画の冒険をしています。

そして映画は料理人のトロワグロが成し遂げた「フランス料理の革命」を描いています。

映画の原題は「Menus-plaisirs Les Troisgros」は、「Menus-plaisirs du roi」(王様の喜びのメニュー)をもじったものです。

「Menus-plaisirs du roi」とは、アンシャン・レジーム時代のフランスにあった宮廷機関で、王様のためのスペクタル、セレモニーをオーガナイズするところでした。

「Menus-plaisirs Les Troisgros」(トロワグロの喜びのメニュー)とは、料理を食べる、提供する、そして創作する三つの喜びのことです(映画カタログ ワイズマン監督へのインタヴューから)。

映画は、キッチンで料理が作られる、客からオーダーを受け、客が料理を楽しむ、その全てを描写しています。

宮廷専属の料理人がフランス革命により解放され、市民のためにフランス料理のレストランを経営するようになります。

映画『至福のレストラン』は、さらにトロワグロによって成し遂げられた市民のための「フランス料理の革命」を描いています。

 

2、フレデリック・ワイズマン

ワイズマン監督といえば、映画『エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館』(NYPL=New York Public Library 205分 2017年 )です(Ex Libris=bookplate 蔵書票)。

日本での上映はいまはない神保町の岩波ホールでした。

私は2時間待たされて映画館に入れず、日を改め4時間前から並んでやっと映画館に入るという体験を、「岩波書店」にさせてもらいました(ネットでのチケット販売がなかった)。 

そして挙げ句の果てに見せられたのは、「図書館は民主主義の柱だ」、という時代錯誤の主張でした。

本の時代もリベラリズムの時代も終わっているのに、新しい時代の新しい問いかけがありませんでした。

次のワイズマン監督の作品は、『ボストン市庁舎』( City Hall 274分 2020年)です。

主人公はマーティン・J・ウォルッシュ市長です。2013~2021年までボストン市長、市長退任のあとはバイデン政権の労働長官です(23年2月辞任)。

「ボストン市庁舎はトランプが体現するものの対極にあります」(フレデリック・ワイズマン、映画パンフレットp.1)という映画でした。

私は日本人ですから、トランプだろうがバイデンだろうが、なんでもいいのですが・・・。映画をみていてイヤになっちゃいました。

<なんだよ、民主党のキャンペーン・ムービーを見ているのかよ>。

そしてこのたびワイズマン監督は『至福のレストラン』を撮りました。

この映画にも、環境と人権のリベラリズム的な主張がありますが、すんなりハマっていました。

レストランを都市から農村に移した、このことにより、新鮮な食材が手に入る、場合によっては朝に料理人自らが採取できる、さらに自然破壊をせずに牛を飼育できる、などが映画で描かれます。

しかしこれらは、リベラリズム的な環境論ではなく、トロワグロの成し遂げた新鮮な食材によるフランス料理革命の本質でした。

今回はワイズマンとトロワグロは、うまくシンクロし、傑作が誕生しました。まあ偶然でしょうが。

 

3、フランス料理

1966年東京・銀座にフランス料理店「銀座マキシム・ド・パリ」がオープンします(2015年閉店)。

その時、映画の主人公ミッシェルの父ピエール・トロワグロは、初代料理長として東京に来て滞在していました。

私は銀座の電通に68年から勤務していました。

先輩からマキシムで食事をしてこい、アドバイスを受けていました。

行きませんでしたが今思うのは、行けばよかったではなく。行かなくてよかったです。

そうでしょう。泰明庵の「カツ丼」、吉田の「おかわり付き天せいろ」、とん通の「ロースカツ」、東興園の「焼売ライス」しか食べたことがない私に、フランス料理の何がわかるのでしょうか。

その代わりCM撮影の仕事では、フランスに数回訪れ、フランスのレストランには数10回通っています。

フランス人スタッフとの一緒の時もありました。なかでも女優のソフィー・マルソーと一緒だった朝食が忘れられません。

映画の中のトロワグロのディナーは350ユーロ見当、5万円でしょうか、もちろんロケではそんな贅沢をしていませんが・・・。

映画のメニューの説明の中で「ジャポネ」という単語が尊敬を込めて何度も言われます。キッチンにもテーブルにも醤油というソースがあります。

父ピエールと息子のミッシェル、二人のトロワグロは、印象派ロートレックが浮世絵の影響を受けたように、ヌーヴェル・キュイジーヌ(新しいフランス料理)の料理人として懐石料理と会席料理の日本料理から学びました。

フランス料理を知らなくても、私たちは日本のおいしいもの、フグやハモそしてモズク(!?)にも自信を持っていいと思います。

映画の中で客に向けて「何かアレルギーになるような食べ物はありませんか?」と尋ねるシーンがあります。

すると客は「『勘定書き』というのが嫌いなんだ」と答えます(笑)。・・・・・・これがフランス料理の楽しみ方でしょう。

あっ!忘れていました。

ワインをいただくとき、グラスをグルグル回して、あれほど香りを楽しむとは知りませんでした。まあ場合によるでしょうが。

今度食事をするときには、ワインの香りをていねいに楽しみ、フレデリック・ワイズマン監督に「乾杯!」です。

 

End

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルヴィスとジョン・レノンが対立していたなんて、ほんとのようでウソの話です。

THE TED TIMES 2024-38「エルヴィス&ビートルズ」 9/24 編集長 大沢達男

 

エルヴィスとジョン・レノンが対立していたなんて、ほんとのようでウソの話です。

 

1)「抱きしめたい(I want to hold you hand)」

こんにちはエルヴィス・プレスリーです。

今日はエルヴィスとビートルズの話をしましょう。

ビートルズが、アメリカのヒットチャートに登場したのは、1964年1月です。

2月1日に「抱きしめたい(I want to hold you hand)」がビルボード誌のチャートで1位になり、

あとは5月2日に「Can’t buy me love」まで、ビートルズはトップを独占し続けます。

そのときエルヴィスは何をしていたかって?

いい質問です。

62年以降は映画出演の契約に縛られていました。ですからヒットは映画がらみのものだけでした。

映画に無関係のヒットソングは、63年の「悲しき悪魔(Devil in Misguise)」だけ、という寂しい状態でした。

この曲は63年8月31日と8月17日にビルボードで第3位、それが最高位でした。

 

ちなみに名誉のために60年代のエルヴィスのヒットソングだけに限って言っておきます。

1960.4.25~5.16に4週連続「本命はおまえだ(Stuck on you)」が第1位、

1960.8.15~9.12に5週連続「It now or never」が第1位、

1960.11.28~12.31に6週連続「今夜はひとりかい?(Are you lonesome tonight?)」が第1位になっています。

つぎに

1961.3.20~3.27に2週連続「Surender」が第1位に、

そして1962年2月3日に「好きにならずにいられない(Can’t help loving you)]」が第2位に、

1962年4月21日~4月28日に2週連続「Good luck charm」が第1位に、

1962年11月17日~12月15日に5週連続「心の届かぬラブレター(Return to sender)」が第2位に

さらに先ほど触れた

1963年8月10日~8月17日に2週連続「悲しき悪魔(Devil in disguise)」が第3位になっています。

間違いなく、エルヴィスが終わり、ビートルズが始まっています。

私のヒットソングには、音楽的な冒険がありません。

強いて言えば「本命はおまえだ(Stuck on you)」だけがロックっぽい歌です。

あとはエルヴィスの声と歌唱力に頼ったヒットソングばかりです。つまり他の誰かが歌ってもそれなりの歌になるようなものばかりです。

しょうがありませんね。エルヴィスが爆発したのはビートルズアメリカ登場の8年前、1956年4月の「Heart break hotel」です。

 

2)ハート・ブレイク・ホテル

にも関わらず、ビートルズのメンバーは、昔のエルヴィスに心酔していました。

ジョン・レノンの有名な言葉があります。

「エルヴィスがいなければ、ビートルズは存在しなかった」。

「エルヴィスによって白人の自分たちにもロックンロールを歌えることに気づかされた」。

「エルヴィスを知ったことでバンド結成を思い立った」。

ポール・マッカートニーも同様のことを言っています。

「救世主が現れたと思った」、

「『ハートブレイクホテル』という曲がその証拠さ」。

(以上は、Http://abbyroard0310 Hatenadairy.jp 「ビートルズに影響を与えたアーティストたちーエルヴィス・プレスリー その1」を参考にしました)。

そしてビートルズアメリカで爆発した一年半後に、ビートルズはエルヴィスと会うことになります。

1965年8月27日(金)の夜10時、ビートルズの4人は、ロス・アンゼルス・ベルエアの私の家にやってきました。

 

その話になる前に、1曲、聴いていただきます。

 

♬(Heartbreak hotel

Well since my baby left me,                                                        あの娘が行ってしまってから

Well I’ve found a new place to dwell                                       新しい居場所を見つけたよ

But it’s down at the end of Lonely Street                               ロンリーストリートの外れにね

At Heartbreak Hotel, where I’ll be・・・                                      ハートブレイクホテルというところ                                 

 

(Chorus 1)

I’ll be so lonely, baby,                                                               さみしいよ きみ

I may so lonely,                                                                         めちゃさみしいよ

I may get so lonely I could die,                                                  さみしいよ 死んでしまうほど

 

Although it’s always crowded                                                  いつも混んでいるけれど

You still  can find some room                                                    部屋ならあるさ

For broken hearted lovers                                                         ふられた奴のために

To cry there in the room                                                           涙を流す部屋さ

 

(Chorus 2)

Well they get so lonely, baby,

Well they get so lonely,

They’ll get so lonely they cloud die,

 

Now the bell-hop’s tears keep flowing                                     ベルボーイは涙を流し                                    

And  the desk-clerk’s dressed in black,                                    ホテル従業員は喪服だよ

Well they’ve been so long on Lonely Street                             みんなそうなんだ ロンリーストリートでは

They’ll never, never look back                                                  みんな過去を絶対に振り返らない

 

(Chorus 3 as 2)

 

Well if your baby leaves you                  もし君が彼女に振られたら  

And you’ve got a tale to tell,               泣きを言いたくなるだろう   

Well just take a walk down Lonely Street         そしたらロンリーストリートさ 

To Heartbreak Hotel, where you will be ・・・       ハートブレイクホテルにおいでよ      

 

(Chorus 4 as 2)

 

 

3)ベル・エア

きっかけはビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインと私のマネジャーであるパーカー大佐の話し合いからです。

ブライアンが、

ビートルズロスアンゼルスのベネディクト・キャニオンにいます」。

パーカー大佐は、

「セキュティに問題があるね。ミスター・プレスリーが住んでいるのはベル・エアという安全な場所ですよ」。

ブライアン、

「われわれがあなた方を訪問すべきだと主張なさるんですね?」。

パーカー大佐、

「”主張”は言い過ぎだよ。ブライアン。あなた達は我々の国にいる、そうでしょう。もしミスター・プレスリーがあなたの国にいるだったら、我々があなた方を訪問するでしょう。そういうことじゃないかね?」

・・・・・・。

パーカー大佐はフリーのジャーナリストのクリス・ハッチンスの同行だけを許し、

カメラ、写真、テープレコーダーの禁止を条件にエルヴィスとビートルズの会見を許すことにしたのでした。

しかもパーカー大佐はエルヴィスの住所すらブライアンに教えませんでした。

絶対の秘密、当日も車を乗り換え乗り換え、まるでスパイ作戦のようにして、ビートルズは私に会いに来てくれました。

 

4)ポール・マッカートニー

ビートルズの4人が部屋に入ってきたとき、

私・エルヴィスはプリシラと一緒に部屋の真ん中のソファーに座っていました。

プリシラはまだ20歳で許婚、結婚していませんでした。

私の周りにはいつものように、メンフィス・マフィアの男たちがいました。

部屋に入ってきた4人を私は立ち上がって出迎え、ソファの私の右にジョンとポール、左にリンゴとジョージが座らせました。

ところが、レコードの音が途切れると、気まずい沈黙が訪れました。

4人は私を見つめているばかりでした。

私はたまりかねて言いました。

「君たちみんな、そうやって僕をじっと見つめているつもり?それなら僕は寝てしまうよ」。

「一緒にプレイしてもいいと思っていたのに」

そのとき声を出したのはポールでした。状況を察して声を上げてくれたのです。

「それはいいなぁ!」

私は言いました。

「ギターを持ってきてくれ」

私はベースギターを取り上げ、ジョンとジョージはギターのチューニングを始め、ポールはピアノの前に座りました。

私はリンゴに言いました。

「悪い、ドラム・キットがないんだ」

私はベース・ギターを鳴らしながら、ポールに話しかけました。

「うまく弾けないんだ・・・でも練習しているんだ」

ポールは丁寧に様々なポイントを教えてくれました。

「上達が早いですね。あなたをスターにしてあげますよ」

お世辞を言い、冗談を言いました。

それから私と4人は、飛行機トラブルやステージでのトラブルの話をしながら、打ちとけて行きました。

部屋の片隅ではパーカー大佐が

「皆さん、カジノが始まりますよ」

声を張り上げ、ルーレットのまわりに人を集めていました。

メンフィス・マフィアの連中はカクテル・バーで飲み始め男同士の話をしていました。

ベース・ギターを抱えた私は、ポールに「何を演る?」と聞きました。

ポールは「もう一人のシーラ、シーラ・ブラックの『ユー・アー・マイ・ワールド』」と言って弾き始めました。

私・エルヴィスと4人のビートルズで構成された即席バンド、「ベル・エア・オールスターズ」は、やはりプロでした。

ただひとり、この模様を取材していたクリス・ハッチンスはこう書いています。

「エルヴィスの声は誰よりも豊かで、深く、力強く響き、彼の歌には魔法があり、それがいとも自然に生み出されていた」。

 

3)ジョン・レノン

私がベースで「I feel fine」を弾き始めたときでした。

ちょっぴりリラックスしたジョン・レノンが話しかけてきました。

「なぜエルヴィスは昔のロックを捨てたんですか?」

「昔のサンのレコードが僕は好きだったんだけど・・・」

私は答えました。

「僕が映画のサウンドトラックばかり作っているかって、もうロックンロールができないってことじゃないよ」

もちろんジョンの質問は正しいものでした。

私はダメな自分を知っていました。

映画はどうしようもないものばかり、テレビ出演なし、国内はもちろん海外でもコンサートもなし、だからヒットソングもなし。

私は、ないないづくしのエルヴィスを知っていました。

でもそれはパーカー大佐のマネージメントの方針でした。

なぜそんなマネージメントだったのか?

<パーカー大佐の個人的な事情>(彼はパスポートが取れない身の上でした)がありました。

これは天国に来て知ったことなんですが・・・。

このときジョン・レノンは、私の部屋の片隅にあった幌馬車の模型に「どこまでもLBJとともに」というスローガンがあるのを見つけて、私への反感を強めたことになっています。

LBJとは、リンドン・B・ジョンソン第36代アメリカ大統領のことで、当時アメリカはベトナムで戦争をしていました。

でもこれは、クリス・ハッチンソンの『エルヴィス・ミーツ・ザ・ビートルズ』によれば、という限定です。

エルヴィス・プレスリージョン・レノンとの対立はそのときに始まった。>

私はジョン・レノンに含むところは何もありません。

クリス・ハッチンソンの記述は到底信じられないものです。

「いまや両者の間には純粋に個人的な敵対関係が生まれた。それは音楽に関するものではなく、政治信念に関わる対立、強健なアメリカの愛国主義者エルヴィスと、反戦主義者ジョンの対立だった」(『エルヴィス・ミーツ・ザ・ビートルズ』 p.183)。

ということになっています。

そして『エルヴィス・ミーツ・ザ・ビートルズ』の結論は、私がニクソン大統領に会い「ビートルズが反アメリカ精神の元凶になってきた」(p.233)と述べ、FBIを訪ね「(エルヴィスの)持てる力のすべてを費やしてジョン・レノンへの復讐を果たそうとした」(p.235)

というのですから・・・私は天国に来てからこの本を読みました。もちろん出版されたのは1995年ですから、私が死んでから18年も経ってからのものです。

1965年8月27日のエルヴィスとビートルズが会った貴重な記録であることを認めますが、「エルヴィスvs.ジョン・レノン」の本のテーマを私は認めません。

想像してみてください。

あの日私は、キング・オブ・ロックンロールとはいえたったの30歳、ジョンにいたっては24歳です。

ふたりとも音楽では世界の頂点に立っていましたが、世間知らずの若者でした。

すくなくとも私には「政治的信念」なんてものはありません。あるのは母に教えられた南部の男としてのモラルだけです。

それは『エルヴィス・ミーツ・ザ・ビートルズ』の著者のクリス・ハッチンソンがよく知っていたはずです。

束の間の音楽セッション、ルーレット、談笑を楽しんだビートルズのメンバーは、午前2時に帰って行きました。

私は、ビートルズを乗せてきた運転手のアルフ・ビッグネルに向けて「サー」をつけた敬語で、お礼を言いました。

<運転手がエルヴィスのあまりもの礼儀正しさに仰天した>(p.185)というエピソードを書いているのは著者のクリス・ハッチンスです。

これが、これこそが、エルヴィスです。

(以上は、『エルヴィス・ミーツ・ザ・ビートルズ』 クリス・ハッチンス&ピーター・トンプソン 高橋あき子訳 シンコー・ミュージックを参考にしました)

 

4)ウッド・ストック

1965年、ビートルズと会ったあの日、私は、映画『いかすぜ!この恋(Ticle Me=ぼくを喜ばせて)』の撮影が終わり、次作の映画『ハレム万歳(Harum Scarum=無鉄砲野郎)』の準備が始まっていたところでした。

ないないづくし、あるのはアン・マーグレットとのスキャンダルだけ、生涯最悪の時代でした。

1968年TV出演「カムバック・スペシャル」までの休息の時代でした。

ビートルズはアルバム「Help!」が出たあとでした。

このあと「Rubber Soul」、「Revolver」とグループの最高傑作を出し、ビートルズを不滅にしています。

時代は大きく動いていました。

エルヴィス・プレスリーの時代もビートルズも時代も終わます。

ヒッピーのロック・フェスティバルの時代になります。

1967年の「モンタレー・ポップ・フェスティバル」(映画は1968年公開)のジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョップリン、ママスアンドパパス。

そして1969年の「ウッドストック・フェスティバル」でのグレイトフル・デッドCCRザ・フー

青空での大音響のロック・フェスティバルの時代になります。

ジーンズ、スニーカー、Tシャツ、ロングヘアは単なるファッションではなく、生き方、ライススタイルを表現するもので新しい文化でした。

私のコンサートライブに集まる若者とははっきりと違った人々になっていました。

 

では最後にビートルズポール・マッカートニーが褒めてくれた1955年の私の曲を聞いていただきます。

エルヴィスとビートルズが出会う10年前の曲です。

 

♬ (Mistry Train

Train I ride, sixteen coaches long.                                                              乗った列車は長い16両

Train I ride, sixteen coaches long.                                                              乗った列車は長い16両 

Well, that long brack train                                                                          そうさ長い真っ黒な列車

Got my baby and gone                                                                                彼女を乗せて行った

 

Train train, comin’ ‘round.                                                                         列車が回ってやってくる

‘Round the bent                                                                                         ぐるり回ってやってくる

Train train, comin’ ‘round the bend.                                                          列車がやってくる回ってやってくる

Well it took my baby,                                                                                  彼女を連れて行った

But it never will again(no, not a・・・gain).                                                   だけどもう戻ってこない 

 

Train train, comin’ down, down the line                                                     列車がやってくる線路を下って   

Well it’s bringin’ my baby,                                                                         彼女を連れて

‘Cause she’s mine, all, all mine.                                                                 だって彼女はぼくのもの 絶対ぼくのもの 

(She’s mine,・・・all, all mine,・・・)

 

 

エルヴィスとビートルズの時代の終わり・・・。

なんだか、結論のようになってしまいましたが。

まだ私から話さなければならないことがあります。

まず、プリシラのこと。

ビートルズと会った時、プリシラは同席していましたが、まだ結婚していませんでした。

次に、1969年から1977年までのラスベガス公演のこと。

そしてパーカー大佐のことです。

もうしばらくエルヴィスの天国日記は続きます。

 

 

 

 

8月18日88歳で、俳優のアラン・ドロン(1935~2024)さんが、亡くなりました。

THE TED TIMES 2024-37「アラン・ドロン」 9/17 編集長 大沢達男

 

8月18日88歳で、俳優のアラン・ドロン(1935~2024)さんが、亡くなりました。

 

1、L.V.

太陽がいっぱい』(Plein soleil 1960)で世界的なスターになったアラン・ドロンは、早速イタリアの巨匠・ルキノ・ヴィスコンティLuchino Visconti 1906~1976)に目をつけられ映画『若者のすべて』(Rocco et ses freres 1960)の主役に抜擢されます。

その時のロケの話です。

アラン・ドロンは、ロケ現場の到着したルキノ・ヴィスコンティ監督の荷物を見て、驚きます。

「さすが有名な監督だけのことはある。旅行カバンやバックには全て自分のイニシアルであるL.V.(Luciono Visconti)が刻んである、たいしたもんだ」

アラン・ドロンがL.V.(Louis Vuitton)の旅行カバンを知らなかった、という笑い話です。

もう20年も前ですけどこの話を、下北沢の焼き鳥屋で知り合ったフランス人に話したら、笑っただけでなく、すごく褒めてくれました。

「この話は、テッド(私のことです)が、自分で作った話?」

「いや、だれだか忘れたけど、聞いた話ですよ」

「それにしてもよくできた話だ・・・。実話かどうかなんて、どうでもいい。アラン・ドロンの本質をよーく表しているよ」

そしてフランス人は焼き鳥を上品に食べ、白のグラスワインをエレガントに飲みながら、衝撃的な話をしてくれました。

アラン・ドロンは貧しい育ち、学歴もない、無教養な男である、日本と世界はアラン・ドロンを美男俳優としてだけ受け取っているけれども・・・。

 

2、映画『若者のすべて

映画『太陽がいっぱい』は、ヨットを所有するような富豪のフィリップ(モーリス・ロネ)に、貧しく無教養なトム(アラン・ドロン)がこき使われ、やがてトムはフリップの財産を狙い殺害するようになるピカレスク(ごろつき)・サスペンス映画です。

アロン・ドロンが演じたのは、ドロン本人と似たようなごろつきの美男でした。

太陽がいっぱい』を観たルキノ・ヴィスコンティが、すぐさまに『若者のすべて』の主演にアラン・ドロンを決定したのは、ごろつきの美男が必要だったからです。

未亡人と4人の息子がイタリア南部の貧しいバジリカータ州(地図上だと、靴の爪先とヒールの間、土踏まずの所)から、北部の豊かなミラノにやってきて、一旗あげようとする映画です。

息子たちはボクシングで身を立てようとします。三男のロッコアラン・ドロン)もボクシングをやります。

映画はイタリアの北部と南部の貧富の差を描いています。しかし描いているのは、貴族階級出身のルキノ・ヴィスコンティ監督です。

監督はアラン・ドロンの美貌の下にある下卑(卑しく、下品な)た美男の本質を見抜いていたに違いありません。

映画はヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。

日本でのアラン・ドロンはなんといってもレナウンのCMで、「D’URBAN, c’est  elegance de l’homme moderne.(ダーバンは、いまの男性のエレガンス)」のキャッチコピーは、日本人の心に刻まれました。

私は電通のCMプランナーとしてダーバンのCM制作に関わり、小林亜星の音楽取り、城達也のナレーション取りに数年立ち会っています。

企画・ロケは先輩、ですから私はパリには行っていませんし、アラン・ドロンにも会っていません。

録音スタジオで妙に印象に残っていることがあります。

アラン・ドロンが早暁の平原で、鳥を撃つ銃を持ったままリンゴを齧(かじ)るシーンに、なんかヘンだなと感じていました。

カッコよくない、ダンディじゃない。

そして改めて、食べる・飲むに関わるアラン・ドロンのシーンを、見直してみました。

下卑ている。下北沢の焼き鳥屋でのフランス人の指摘は当たっていました。

そしてルキノ・ヴィスコンティ監督はこの「下卑た美男」が気にいったのだと思いました。

 

3、ラテンとアラブ

これも2~30年前の話ですが、仕事仲間にフランス人の父と日本人の母から生まれた20代の女性がいました。

フランス語と英語、そして日本語を話します。

彼女がある日何気なく私に言いました。

アラン・ドロンはラテンとアラブのベスト・ミクスチャーなのよね」。

・・・・・・。

Rest In Peace. 

アラン・ドロンさんのご冥福をお祈りします。

世界最大の企業はアップルでもマイクロソフトでもありません。エヌヴィディアです。

THE TED TIMES 2024-36「エヌヴィディア」 9/10 編集長 大沢達男

 

世界最大の企業はアップルでもマイクロソフトでもありません。エヌヴィディアです。

 

ジェンスン・ファン(Jenson Huang 黄仁勤 1963~)は、時価総額世界一企業のNVIDIAのCEOです。

台湾で生まれ、9歳でアメリカに渡り、1984年にオレゴン大学で電気工学の学士号、1992年にスタンフォード大学で電気工学の修士号を所得しています。

トレードマークは革ジャンで、サインを求められ写真を撮られる、ロックスターのような人気者です。

以下は2024年6月の台湾・台北でのコンピューター国際見本市COMPUTEXでのジェンスン・ファンのスピーチです(CNN ENGLISH EXPRESS 2014.9 )。

 

1)There are many algorithms that you operate completely in parallel: computer graphics, image processing, physics simulations, combinatorial optimizations, graph processing, database processing, and, of course, the very famous linear algebra of deep learning.

There are many types of algorithms that are very conducive to acceleration through parallel processing.

 並行して完璧に使えるたくさんのアルゴリズム(問題解決の方法)があります。たとえば、コンピュータ・グラフィックス、イメージプロセッシング、物理シミュレイション、組み合わせの最適化、グラフ処理、データベース処理、そしてもちろん、デープラーニングのための有名な線形代数機械学習のための計算の簡略化)もです。たくさんのアルゴリズムが並行進行で生産的で高速化処理されるようになります。

 

2)So we invented an architecture to do that. By adding the GPU(graphics-processing unit) to the CPU(central processing unit), the specialized processor can take something  that takes a great deal of time and accelerate it down to something that is incredibly fast. And because the two processor can work side by side -they’re both autonomous and independent, that is we can accelerate what used to take 100 units of time down to one unit of time. The speed-up is incredible. It almost sounds unbelievable.

私たちはそれができる仕組み(アーキテクチャー)を発明しました。CPUにGPUを加えることで、膨大な時間をかかったプロセスが信じられないほど早い時間で処理できるようになりました。並んでいる二つのプロセサーは、ともに自動で独立していますが、いままでの100分の1の時間で仕事をこなすようになりました。その速さは、考えらないほどで、信じられないほどです。

 

3)The benefit is quite extraordinary: 100-times speed-up, you only increase the power by about a factor of three, and you increase the cost by only about 50 percent. We do this all the time in the PC industry. We add a GPU, a $500 Geforce GPU, to a $1,000 PC, and performance increases tremendously.

利益は計り知れないものになります。100倍のスピードアップをたった3倍の電力と5割増の予算で実現できます。私たちはこうしたことをPC業界にしてきました。1000ドルのPCに、500ドルのGフォースGPUを加えるだけで、性能の向上はとてつもないものになります。

 

4)We do this in a data center, a billion-dollar data center: We add $500 million worth of GPUs, and of a sudden, it becomes an AI factory. This is happening all over the world today.

10億ドルのデータセンターに5億ドルのGPUを加えることでデータセンターはAI工場に変身しました。こんなことが世界中で起きています

 

5)The savings are quite extraordinary. You are getting 60-times performance per dollar, 100-times speed up. You only increase per power by 3x. The savings are incredible.

節約も計り知れないものです。ドルあたり60倍の性能と100倍のスピードが手に入ります。電力は3倍だけ、信じられない節約です。

 

6)The saving are measured in dollars. It is very clear that many, many companies spend hundreds of millions of dollars processing data in the cloud. If it was accelerated, it is not un expected that you could save hundreds of millions of dollars.

節約は金です。たくさんの会社が何億もの金をクラウドのデータアクセスに使っています。高速化すれば何億ドルも節約できる、期待できないことではありません。

 

7)Now, why is that? Well, the reason for that is very clear. We’ve been experiencing inflation for so long in general-purpose computing, now that we finally determined to accelerate, there’s an enormous amount of captured loss that we can now regain ― a great deal of captured, retained waste that  we can now relieve out of the system. And that will translate into saving―savings in money, savings in energy. And that’s the reason why you’ve heard me say. “The more you buy, the more you save.”

なぜでしょう。理由は明快です。私たちは長い間汎用コンピューティングを増加を経験してきました。そして改革を決意しました。積もり積もったムダを捨てるーーーため込まれ、抱え込まれたムダをシステムから捨てる。つまり節約するーーー予算を節約、エネルギーを節約するのです。私は何時も言ってきました。「買えば買うほど節約できます」。

 

END

 

 

岸田総理に辞任を決断させた、倉重篤郎の『保守政治家 石破茂』という本。

THE TED TIMES 2024-35「石破茂」 9/3 編集長 大沢達男

 

岸田総理に辞任を決断させた、倉重篤郎の『保守政治家 石破茂』という本。

 

1、倉重篤郎の結論

「もう、この男しかいない」。

8月7日に出版された『保守政治家 石破茂』(倉重篤郎編 講談社)という本の帯には、このキャッチコピーが踊っています。

まるで1週間後の8月14日の岸田首相の自民党総裁選不出馬宣言を予告したかのように。

なぜ、石破茂なのか。

それに対して倉重篤郎(毎日新聞政治部長・元論説委員長)はこの本の締めくくりで、以下のように説明しています。

1)安倍政治がまだ終焉しない。

まず経済でのアベノミクス、異次元的金融緩和政策を終わらせたい。そして外交・安保での主体性の喪失を終わらせ「対米自立」にしたい。石破茂ならできる。

2)石破茂を総理に、という世論が根強い。

石破自身が、「次期総理」調査で1位になることを説明している。安倍は太陽、石破は月。安倍政治批判できるの石破しかいない。

3)石破茂を軸に本格的政治改革政権を樹立したい。

成立した政治資金規正法改正案は一歩前進だが、石破は、国民的共感を得られるものではない、としている。石破ならカネがかからない政治を制度化ができる。

4)安倍政治のアンチだけでない、石破政治オリジナルを期待したい。

戦後保守の2系列があり、保守本流石橋湛山吉田茂田中角栄大平正芳宮澤喜一自民党本流が、岸信介福田赳夫安倍晋三である。

保守本流は、あの戦争を膨張主義的国策と否定し、小日本主義的生き様を志向し、軽軍備、通商重視、憲法第9条では、護憲、軍縮的で、対米関係では同盟基軸でも一定の距離感を持ち、経済では自由経済がベースである。

対して自民党本流は、戦中の国策を全面否定せず、大アジア主義的・膨張主義的志向を残し、外交・安保では改憲・軍拡的で、対米では日米一体論的従来主義、経済では統制色、計画色である。

 

重篤郎の結論は、改憲論者である点を除けば石破茂保守本流である、だから「もう、この男しかいない」というものです。

朝日新聞毎日新聞は、「平和と民主主義」、「人権・自由・平等のリベラリズム」の論調で戦後社会を、リードしてきました。

にもかかわらず倉重篤郎は、自由民主党総裁石破茂を、具体的な提案として指名しました。

リベラリズムの論調を終わりを宣言する、毎日新聞の革命です。

 

2、田中角栄

次の総理の世論調査では石破茂が必ずトップになるが、私たちは石破茂をよく知らない。

そこで石破茂の伝記的ヒューマン・ヒストリーをつくれないか、ということで本の企画がスタートしました。

重篤郎は、2023年暮れから2024年春にかけて、石破茂を何度もインタビューしました。

倉重には、40年以上永田町を見てきた経験があり、さらに「サンデー毎日」のコラムで、2017年から7年間石破茂に1回1~2時間のインタヴューを20回してきた、実績がありました。

『保守政治家 石破茂』は、石破茂著 倉重篤郎編になっていますが、文章にしたのは倉重でしょう。

大変読みやすい、読み物として面白い。

そして野口博のポートレート写真がいい、さらにブックデザインがいい、いい本に仕上がっています。

読み物としての圧巻は、田中角栄が登場するパートです。

田中角栄なかりせば、いまの政治家としての今の石破茂はなかったのです」(p.60)

ネタバレになりますが、一部ご紹介します。

 

1)1981年9月16日に石破茂の父・石破二郎は亡くなります。鈴木善幸政権の自治大臣国家公安委員長でした。もちろん田中派です。

鳥取の柿畑の真ん中に「石破二郎 和子の墓」とその横に「越山 田中角栄」と書かれた墓があります。

田中派葬のあと、24歳で三井銀行の会社員だった石破茂が、目白の田中角栄にお礼の挨拶に行きます。

すると突然田中は、選挙に出ろ、と言います。

「君は県民葬に来てくれた鳥取の3500人全員に、名刺持参で会葬御礼に回れ。それが選挙の基本だ」(p.70)

石破茂は、父の遺言で政治家になっていけない、と言われているという辞退の返事をします。

「何が銀行だ。遺言だ。君は代議士になるんだ。(中略)君は自分さえよければいいのか。そんなことでは石破二郎の倅とはいえないよ」(p.70)

これで石破茂の人生は決まりです。

いろいろありますが、83年に石破茂は、三井銀行を退職し、田中派木曜クラブ)の事務局員として政治の世界に飛び込みます。

2)木曜クラブでのある日、石破茂角栄先生に呼ばれます。

「君は嫁がいないじゃないか。(中略)いいのがいるぞ」

「も、申し訳ありません。じ、実は大学の同級生で一緒になりたいと思っている人がおりまして」

「何だ、それは。どこに勤めているんだ」

「ま、丸紅です」(注:ロッキード事件渦中の会社)

「馬鹿者・・・待て、その子の親はどこの出身だ」

「ご出身は新潟です」

「そうか、それならいい」

石破茂角栄先生に仲人をお願いします。

角栄先生は断ります。そして言います。

「何を言っているんだ。(中略)俺は、お前の親父さんの代わりにお前のお袋さんの横に立ってやりたいんだ」

・・・・・・

涙、涙です。

田中角栄とはなんという人なんでしょうか。

そして披露宴では、スピーチで新婦が丸紅であることに触れ、丸紅はいい会社だ、私のことがなければもっとい会社だと、丸紅の人を笑わせました。

3)84年9月16日、父の命日に石破茂衆院選への出馬を表明、86年の選挙までに5万2000軒歩いて、5万6534票獲得して当選します。

歩いた数、握った手の数しか、票はでない。

田中角栄の言う通りになりました。

でもこれは、「なぜ石破か」とは関係の薄い「昭和」の美談、というべきでしょう。

4)田中角栄に学ぶべきことがあります。

「昭和20年代おける政治家・田中角栄の国会活動は、議員立法を中心としたものであった。8年間に26件もの議員立法に提案者として参画した事実はわが国の議会史に例を見ない」(『政治家 田中角栄』 p.91 早坂茂三 集英社文庫)。

さらに立案・構想に参加した法律を含めるとその数は、田中本人の言によれば73件に、加えて閣僚として関わったとなるとその数は数100件になると早坂茂三は振り返っています。

公営住宅法道路法電源開発促進法、原子力基本法住宅金融公庫法、建築基準法国土総合開発法日本道路公団法、空港整備法、高速自動車国道法都市計画法・・・。

敗戦の焦土から日本を再建し繁栄に導いたのは田中角栄です。

石破は田中の議員立法に学ぶべきです。

もう一つは反面教師。

1972年9月の日中共同声明は、同年2月のニクソン訪中に遅れを取らなかった、田中角栄の電撃外交として歴史に残っています。

田中は外交でも偉大でしたが、結論としてキッシンジャーの怒りを買い、ロッキード事件で葬り去られます。

後述しますが、安倍晋三の外交の方が、田中角栄より一枚上手です。

石破は外交を田中より安倍に学ぶべきです。

 

3、安倍晋三

さてこれからが本論です。

倉重は「なぜ石破茂か」の問いに、安倍政治からの脱却できるから、としています。

しかし毎日新聞(そして朝日新聞)が、なぜ安倍政治を否定するのか、がわかりません。

戦前の東條英機内閣の商工大臣岸信介の孫だからというのが、その理由でしょうか。

教育基本法を改正し、憲法改正を狙ったからでしょうか。

政治の素人が、日本を代表する政治ジャーナリストに反抗するのは100年早い。しかし思い切って言います。

GHQの機関紙と言われてきた「朝日・毎日」が変わらなけば、日本が滅びるからです。

1945年9月18日に朝日新聞GHQにより発刊停止処分をうけ、GHQに忖度する自己検閲の新聞になりました。毎日新聞もそれに従っています。

 

まず安倍晋三の外交。

倉重は主体性がないと指摘しますが、安倍晋三は国際基準の政治感覚で、各国首脳と付き合っています(以下は、『安倍晋三回顧録中央公論新社から)。

 

1)洗練されたコミュニケーター(communicator=信頼関係が築ける人)

まず、プーチンとの出会い。

2014年2月のロシア・ソチ五輪の開会式を、性的マイノリティへのロシアの姿勢で、アメリカ・オバマ、フランス・オランド・・・がボイコットします。

それをチャンスと見た安倍は開会式に出席し、プーチンとの会談するチャンスをつかみます。

プーチン秋田県知事から贈られた秋田犬「ゆめ」を連れてきて、ふたりの間には一挙に信頼関係が築かれます(『安倍晋三回顧録中央公論新社 p.182~3)。

その後北方領土問題を新しいアプローチで解決する合意ができます。

つぎに、トランプ大統領

トランプ米大統領とは電話が来ると1時間も話します。でも本題は15分だけ、あとはゴルフ、各国首脳の悪口。

なぜトランプとここまで親しいのか。

トランプが選挙で勝つと就任前にトランプ・タワーを訪れて、面談しているから。安部のセンスがトランプを信用させています。

そしてトランプは皇居で安倍に、シンゾウはいつも上着のボタンを閉めているが天皇の前では私もしたほうがいいか、とアドバイスを求めるほどの信頼関係を築いています(p.348)。

2)卓越したネゴシエーター(negotiator=交渉人)

その1。米大統領オバマが、焼き鳥屋「すきやばし次郎」で、安倍に言います。

「ここに来るまで、アメリカ車を見ていない。輸入して欲しい」

安倍はオバマを店の外に連れ出し通りを見ます。

ベンツ、BMWフォルクスワーゲン・・・外車はいくらでもいます。しかしアメリカ車は来ません。

安倍が解説します。

「みんな右ハンドルに変えて輸入されています。ところがアメリカ車は右ハンドルを日本人に押し付けています。これでは売れません」

オバマは黙ります(p.131)。

その2。メルケルドイツ首相は、中国重視のくせに、口先だけ中国の膨張政策を批判します。

そこで安倍は議論はぶつけます。

「ところで、ドイツのエンジンメーカーは、中国にディーゼル・エンジンを売っていますね。

中国海軍は、ドイツ製のエンジンを駆逐艦や潜水艦に搭載している。これは、いったいどういうことですか」。

メルケルは「え?そうなの?」と言って、後方に控えている官僚の方を振り向いて聞きました(p.189)。

やり手のメルケルが安倍に1本取られています。

3)優れたプレゼンター(presenter=提案ができる人)

第1。安倍は、2013年ブエノスアイレスでのIOC総会での2020東京の招致プレゼンテーションで、勝利しています。

練習、練習、練習で、アイコンタクト、ワンセンテンス・ワンパースン、ワンバイワンの「国際基準のコニュニケーション」に、成功したからです(p.118)。

第2。インド訪問時の「二つの海の交わり」のスピーチに始まる、「自由で開かれたインド太平洋戦略(FOIP)」の提案をしています。

インド洋と太平洋は、自由と繁栄の海としてダイナミックな結合をもたらしている、ということを日本からまずインドへ、そしてオーストラリア、米国に呼びかけました。

インド・太平洋を大きな経済圏としてこの海洋の権益を守っていこうというものです(p.159)。

 

安倍は、国際基準のコミュニケーター、ネゴシエーション、プレゼンターとして、外交を展開してきました。

 

4、アベノミクス

つぎに安倍内閣の経済。

『日本の死に至る病 アベノミクス罪と罰』(倉重篤郎 河出書房新社 2016年)があります。

登場するのは伊東光晴金子勝吉川洋など、反対派の人だけ、「サンデー毎日」に連載された安倍政権反対のプロバガンダです。

アベノミクスを構想した学者・賛同者は登場しません。

経済政策を建設的に議論しようというものではありません。本のタイトル通り「日本の死に至る病」、初めに結論ありきです。

 

アベノミクスの理論を支えるのは、浜田宏一(1936~)イエール大学名誉教授、元内閣官房参与です。

アベノミクスのベースとなる考え方は、経済学の世界では「リフレ」と呼ばれるものだということです。私もその「リフレ派」学者の一人とされています」(『アベノミクスとTPPが創る日本』(浜田宏一 講談社 p.3)。

そして浜田は安倍政権の前の民主党政権を批判します。

総理の菅直人増税すれば経済は成長する」、官房長官枝野幸男「利上げすれば景気が回復する」、総理の野田佳彦「金融に訴えるのは世界の非常識」・・・浜田はこれらの発言を狂気であり、金融緩和という正しい薬をもって登場したの安倍総理だとしています(p.27~9)

アベノミクス民主党政権の悪夢から生まれました。

 

アベノミクスの実行役は、岩田規久男(1942~)元学習院大学教授、元日銀副総裁です。

<マニタリーベースというのは、金融政策の緩和度を見るうえで重要な変数です。リーマンショック後、各国・地域の中央銀行が、どのくらいマネタリー・ベースを増やしたかを見てみましょう。最も増えたのがイギリスで4倍、アメリカは3倍(中略)、ところが日本銀行東日本大震災前までほとんど増やしていません。(中略)日銀以外の各国の中央銀行は(デフレ回避の)超金融緩和政策をとったのです。それに対して日本はデフレに襲われ・・・>(『リフレは正しい』  p.36~7 岩田規久男 PHP)。

アベノミックスは、日銀の無策から生まれました。

 

アベノミクスの実行役のもうひとりは、本田悦郎(1955~)静岡県立大学教授・内閣官房参与がいます。

<アベノミックスがやろうとしているのは、長年凍り付いたデフレ予想を溶かし、2%程度の緩やかなインフレ予想を醸成して、それを現実のものにする、ただそれだけのことです(p.134)>

<アベノミックスに反対する人は「現状をどうすればよいのか」という建設的な提言をしようとしません>(『アベノミクスの真実』 p.135 本田悦朗 幻冬舎)

ハーバード大学の故サミュエル・ハッチントン教授が喝破した通り、日本は「一国で一文明」を担う極めてユニークな国です>(p.219)

海外駐在の長い本田は、世界を知ればするほど、日本を知らなかった自分を反省しています。

 

アベノミクスを評価した米国の学者が、デール・ジョルゲンソン ハーバード大学教授(1933~2022)・元アメリカ経済学会会長です。

教授は、2012年にスタートしたアベノミクスが成果を上げていると評価し、5年後2017年に第2ステージへの提言をしています。

非製造業の生産性(とくに卸し・小売り)、これらは国内市場志向の分野の生産性が上がれば、日米の生産性格差は縮まる(日経 2017.11.30)。

 

アベノミクスを絶賛しているのではありません。

経済政策には功罪があります。ブループリント(青図)通りの結果はでません。

所得倍増計画、日本列島改造計画・・・そしてアベノミクス

政策に名前がつき、失われた20年からの脱出、リーマンショックからの回避、デフレの終わり、国民に明るい期待感を持たせただけでも成功です。

では『日本の死に至る病アベノミクス罪と罰』から、アベノミクスへの経済学者の伊東光晴金子勝吉川洋の反対意見を紹介します。

 

まず伊東光晴(1927~ 一橋大学卒)。

安倍総理は<「祖父(岸信介元首相)を神様のように思っている。思い込みが激しい。改憲とやりたがっている・・・」>(『日本の死に至る病アベノミクス罪と罰』 p.88)。

<「思い込みの激しさが、(中略)五輪招致の際の福島原発汚染水の『アンダーコントロール』(完全制御)だ」>(p.89)。

浜田宏一について<「あの人は法学部から経済に転科した人。アベノミクスの中心は(岩田規久男日銀総裁ですよ。ぼくはアカデミズムにおいて全く評価しない」>(p.92)

日銀黒田総裁のについて<「だめですね。なにもわからないんだから」>(p.91)。

筆者が大学時代(60年前)の伊東光晴はかっこよかった、しかしいまやその発言は、「下品」なだけです。

伊東光晴は、浜田宏一岩田規久男黒田東彦のだれと比べても、学歴と経験で格下です。

フリードマン云々には鼻白みます。

先方はノーベル経済学賞、コチトラは田舎学者・・・。

あきれたのは、安倍総理の2013年五輪招致プレゼンテーション批判です。

安倍はプレゼンで「原発汚染水の完全制御」などと言っていません。

「Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you, the situation is under control. It has never done and will never do any damage in Tokyo.」

(フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。)

プレゼンの文案は安倍晋三の「思い込み」ではありません。

フクシマについての1行は、日本の頭脳の集積とイギリス人のプレゼンの専門家の知恵が生み出したものです(『世界を動かすプレゼン力』 p.116~130 ニック・バーリー 佐久間裕美子訳 NHK出版)。

国際舞台で仕事をしていない「田舎学者」の伊東光晴はプレゼンのむずかしさを知りません。

安倍のプレゼンを誤解しています。「サンデー毎日」は誤報しています。

 

次は金子勝(1952~東京大学)。

アベノミクスのどこを批判したいのか、金子は何を提案したいのか、さっぱりわかりません。

大言壮語の最後に金子は、若者の非正規と失業に対しては安倍政権は無策である、として以下のように言います。

ナチスですよ。第1次大戦後の大恐慌と過大な賠償でナショナリズムが台頭する。ナチスがやったのはアウトバーン(高速道路)を作ってフォルクスワーゲンを開発し、1家に1台持たせたこと。だから圧倒的に若者の支持を受けてしまった>(p.143~4)。

逆に質問します。だれが、ヒトラーへの道を開いたのですか、残念ながらヴァイマル共和国の民主主義のリベラルです。

<(理性主義のリベラルは)理論については過激、行動では遅疑逡巡、反対するときは強硬、権力を握れば無力、机上においては正しく、政治おいては無能である>(『産業人の未来』 p.190~1 P.F.ドラッカー ダイアモンド社)。

ドラッカーは、オーストリー生まれユダヤ人として民主主義からヒトラーが誕生するのを目撃し、イギリスからアメリカに移住しています。

『産業人の未来』は1942年に刊行されましたが、まるで80年後の金子勝の登場を予言しているかのようです。

 

次に吉川洋(1951~ 東京大学イエール大学

2016年時点で吉川はアベノミクスは「現在完了で失敗」としています。

アベノミクスを支えるリフレ説、つまり物価動向は市場に出回る貨幣量で決まる、としたフリードマンらの経済学説自体が正しくなかった>(p.75~6)としています。

吉川は小泉、福田政権を支えてきた経験があるだけに、余計なことを言いません。

しかし世界の誰が、伊東光晴吉川洋フリードマン批判に耳を傾けるでしょうか。

 

フリードマン(1912~2006)とは、どんな経済学者なのか。

1)フリードマンは、恐慌(1929年)からアメリカ経済と世界経済を救いました。

フリードマンは<恐慌は連邦準備制度理事会が起こした>と指摘しました。

1930年代の大不況は、中央銀行がお金を出すべきときに、お金の発行を減らしてしまったことにありました。

2)フリードマンは、レーガン政権とサッチャー政権に貢献しました。

ケネディ大統領の「ニュー・エコノミックス」、ジョンソン大統領の「偉大な社会」、ケインズ的な財政政策で経済成長が図られ、完全雇用を達成します。

その時代にフリードマンケインズ政策を批判していました。

現実はフリードマンの予測通りになります。スタグフレーション。つまり、スタグネーション(停滞)とインフレーション(物価上昇)が同時に起こる、「不況下のインフレ」になります。

フリードマンは、ケインズ的総需要管理政策への対立軸として、貨幣供給量により経済成長とインフレをコントロールすることを目指しました。いわゆるマネタリストの政策です。

1980年にフリードマンの市場規制の緩和を掲げるロナルド・レーガン大統領が当選、1979年にはフリードマンの「小さな政府」のサッチャー政権が登場、

ケインズ派の勝利、新自由主義政策、フリードマンが世界を席巻します。

3)フリードマンアダム・スミスハイエクの直系の古典派経済学者です。

基本は自由競争、権力からの自由です。国家の財政政策、国家による福祉政策を否定します。

「機会の平等」はいいが、「結果の平等」を求めるのは間違い。それでは平等も自由も達成できないからです。

(『選択の自由』 M&R・フリードマン 西山千明訳 日本経済新聞社)。

重篤郎は本書の中で、アカデミズムからのアベノミクスへの異論が少ないと嘆いていますが、真正面からフリードマンと対決し、浜田、岩田、本田とディベートできる学者がいないからです。

 

そして、安倍内閣の安全保障。

外交、経済に続いて安倍総理の「安全保障」をとりあげなければなりませんが、ここでは省略します。

国家安全保障局長・北村滋の「追想安倍晋三内閣総理大臣」(『文藝春秋』2022.9)あるから十分です。

ただ北村茂のひとつの証言を紹介しておきましょう。

安倍総理はインテリジェンス・ブリーフ(諜報報告)に多くの時間を割き、情勢認識を事実で検証していました>。

安倍はあの柔和な笑顔の下で、外交上に仕掛けれられた地雷を巧みに避け、遅れて立ちながらも先手を取る「後の先(ごのせん)」の政治家であったということです。

 

最後に人間・安倍晋三の評価をまとめておきます。

御厨貴(東大名誉教授)は、『安倍晋三回顧録』という本を通じて、安倍晋三を評価しました。

<『安倍晋三回顧録』は、「闘争の記録」で、最後には政治家安倍の人間そのものを見出してホッと安堵した気持ちになる>と評しました(日経2023、3/25)。

これ以上の賛辞はありません。

つぎに前国家安全保障局長・北村滋は、安倍晋三元総理は「国士」だ、比喩的に讃えました。

「国士」とは憂国の士で、国のために尽くし、国のために、自らの命を差し出す人のことで、ふつう在野の人の形容です。

しかし安倍晋三はまさしく「国士」でした(『文藝春秋』2022.9)。

そして幻冬舎見城徹

「とにかく安倍さんは信義、義理、忠義、仁義なと『義』の付くものを守り抜く人でした」(『Numero Tokyo』 160 p.170)。

安倍晋三は「義人」(自分の利害を考えず他人の苦しみを救う人)、義の人でした。

 

安部政治の話が長くなりなりました、石破茂に戻ります。

 

5、小室直樹

『保守政治家 石破茂』で注目しなければならないことがあります。

それは石破茂が、「小室直樹の著作からは大きな影響を受けました」、と述べていることです(p.200)。小室直樹とは何者なのでしょうか。

 

まず、小室直樹GHQ教育基本法批判。

小室は、<日本の教育から徹底して民族教育の要素を除去する。「非アメリカ的」(カギカッコは筆者)な教育をすることによって、日本がふたたび強国になる道を塞(ふさ)ごうというのである>(『日本国憲法の問題点』 小室直樹 集英社インターナショナル p.168)と主張します。

つまり民族国家においては祖国愛を育てることが教育の目的で、その意味で「大日本国帝国憲法」と「教育勅語」こそが民主主義的アメリカ的教育であった、と逆説的に説いています。

安倍晋三は、教育基本法の改正をしました。

「新教育基本法」の(教育目標)第二条の5には「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が書き加えられました。

わずかですが、小室批判に安倍は応えました。

 

つぎに、小室直樹GHQの日本人洗脳計画批判。

<日本人はGHQによって、日本人の誇りを奪われた>、

<日本人が「南京大虐殺」をやったと脳裏に叩きこまれたからである>、

<日本の歴史は間違いだった、日本軍は大虐殺をやった、日本人は悪い人間である>。

GHQ言論統制と検閲で、日本人をマインドコトロールし、日本人をアノミー状態(無規範、無連帯)にしました(『日本国民に告ぐ』 小室直樹 ワック株式会社 p.271~2)。

安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」を掲げますが、まさに「日本人洗脳計画」からの脱却です。

 

そして、そして小室直樹GHQ製の「象徴天皇」批判。

日本人とユダヤ人とは神によって土地を約束された>、<天照大神は、「葦原の瑞穂の国は王(きみ)たるべき地(くに)なり」と皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのおみこと)に神勅を下された>(『「天皇」の原理』 p.11 小室直樹 文藝春秋)。

伊藤博文の慧眼によって、立憲政治国家・大日本帝国を作りあげるために(中略)「天皇」は、キリスト教的な神になった>(『奇蹟の今上天皇』 p.95 小室直樹 PHP )。

実は、小室直樹は「日本国憲法第一章天皇」を、議論のテーマにしません(回避しています)。

そのかわりと言っては何ですが、三島由紀夫日本国憲法第一章の改正案に触れています。

<第一条 天皇は国体である。第二条 天皇は神聖である。第三条 神勅を奉じ祭祀を司る>(『三島由紀夫が復活する』 小室直樹 毎日ワンズ p.187)。

三島由紀夫憲法改正案を小室直樹は支持しています。

『保守政治家 石破茂』で石破茂は、<寒風吹きすさぶ中、若き昭和天皇は、微動だにせず観閲されていた。それに凄く感激した。こんな立派な人がいるのかと思った>(p.116)という感想を持った父・石破二郎を、偲んでします。

そして自らも皇室崇拝者であると記しています。

 

さらに、小室直樹東京地検特捜部批判。

1983年(昭和58年)検察官は被告人・田中角栄に、受託収賄罪と外為法違反の罪で懲役5年、追徴金5億円を求刑します。

テレビは朝日の番組に出演した小室直樹は、スタジオで絶叫します。

<「田中を起訴した検察官が憎ーいッ!」(中略)

「あの四人の検事を殺せッ!まとめて殺せッ!ぶっ殺せェーーーッ!」>

「田中に五兆円をやって無罪にしろッ!!>(『評伝 小室直樹』 下 p.81)。

また翌日のテレビ朝日の別の番組で、小室は怪気炎を吐いています。

<政治家は賄賂をとってもよいし、汚職をしてもよろしい。それで国民が豊かになればよいのです。政治家の道義と小市民的道義とはまったく違います>(p.85)。

全くその通りです。

「奇人」小室直樹が生きていれば、「森友問題」、「加計問題」、「桜を見る会」は、小市民的道義の問題と却下するに違いありません。

 

小室直樹(1932~2010)は、京大、東大、阪大で学び、アメリカに渡りました。

ミシガン大学計量経済学マサチューセッツ工科大学でポール・サミュエルソンハーバード大学ケネス・アロー、さらに社会学のタルコット・パースンズに学んだ天才学者です。

デビユーの「社会動学の一般理論構築の試み」(「思想」 岩波書店 1966年)は、数学的な社会変動論で、その抽象度の高さに日本の社会学会は騒然となりました。

有名にしたのは、『ソビエト帝国の崩壊』(小室直樹 光文社カッパブックス 1980年)、世界で初めてソ連の崩壊を予言しました。

歴史は1989年のベルリンの壁の崩壊、1991年のソ連邦の崩壊と、小室直樹の予言通りになりました。

しかし石破茂小室直樹のどこに影響を受けたのかよくわかりません。

小室直樹は結論は衝撃的ですが、すべて議論をアカデミックな方法論から出発させています。

たとえば前出の『「天皇」の原理』は、<日本人とユダヤ人とは神によって土地を約束された>ように訳のわからないことから始まり、本の三分の二はユダヤ人とユダヤ教の神の話で天皇なんか出てきません。

東大出身の社会学の先生は、橋爪大三郎宮台真司大澤真幸以下すべて、自主講座「小室直樹ゼミ」で学んでいます。。

怪気炎の「奇人」ですが、その理論は、社会科学の難解な基礎理論に溢れています。

石破茂小室直樹の本をどこまで理解していたかはわかりません。

石破茂は「兵器オタク」、そして小室直樹も「兵器オタク」、そこだけの影響でなければいいのですが。

 

6、戦後レジームからの脱却

冒頭に倉重篤郎が、「もう、この男しかいない」と具体的に石破茂の名をあげたのは、まさに清水の舞台から飛び降りるような「快挙」と評価しました。

なぜこれが毎日新聞の革命になるかを説明します。

 

<安倍の葬式はうちで出す>。

かつて朝日新聞は、こう言明しました。

朝日新聞の論説主幹であった若宮啓文(わかみやよしぶみ)は、「朝日はなぜ安倍を叩く、いいところはきちんと認めろ」との文芸評論家・小沢榮太郎の問いに対して、「できません」と答えました。

さらに「何故だ」の問いに、「社是です」と答えました(『約束の日 安倍晋三試論』 p.3~4 の要約 小沢榮太郎 幻冬舎)。

<安倍の葬式はうちで出す>。

この姿勢はおそらく毎日新聞も同じです。

大東亜戦争を主導した東條英機内閣の商工大臣岸信介の孫・安倍晋三は、戦前を全否定する「平和と民主主義」の敵で、「人権・平等・自由のリベラリズム」の敵だったからです。

GHQの機関紙としては許せないからです。

安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」を掲げていました。

戦後レジーム」とは、日本国憲法、「太平洋戦争」論、東京裁判で、日本が米国に復讐できないようにしたものでした。

戦後レジーム」とは、戦後になって米国が日本に仕掛けてきた、戦前の日本を全否定し、日本の歴史と伝統を破壊する「文化の戦争」でした。

戦後レジーム」とは、「超ドメ(極端に内向き)官庁」(『国家の罠』 佐藤優 新潮文庫)の東京地検特捜部です。田中・ロッキードホリエモンカルロス・ゴーン東京五輪事件で、国益を全く考えない起訴をして、世界に恥をさらしています。

戦後レジーム」とは、護憲、反原発靖国参拝批判、「天皇制ファッシズム」批判の論調です。朝日・毎日も「超ドメ新聞」になっています。

戦後レジーム」とは、「ハーメルンの笛吹き男」に導かれて海に没して行ったネズミのように、リベラリズムのメロディで日本民族を滅ぼそうとするものです。

 

歴史人口学者のエマニュエル・トッドは、少子化で悩む日本とドイツが米・英の核家族リベラリズムの価値観に対応しようとして直系型家族の価値観に機能不全を起こしている、と衝撃的な議論を展開しています(『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』 下 p.175 エマニュエル・トッド 文藝春秋)。

<歴史と伝統がある君たち日本人に、新参者のアングロ・サクソンのリベラリズは似合わないよ>。

トホホホ!!日本人がフランス人からアドバイスを受けるなんて・・・・・・なんともみっともない。恥ずかしい。

さらに少子化に対しては<戦後GHQが仕掛けた人口戦に日本が敗北したもの>(『日本の少子 百年の迷走 人工をめぐる「静かなる戦争」』  河合雅司 新朝選書)>(『保守政治家 石破茂』 p.245)という研究が私たちを驚かしています。

ポツダム宣言の10に「我々は日本人民族を奴隷化したり、国民を滅亡させる意図を有さないが・・・」(We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation.)とあります。

<日本人を民族として奴隷にする(be enslaved as a race)><日本国民を滅亡させる(destroyed as a nation)>。

化けの皮がはがれたな、白人帝国主義者ども。<本来なら、黄色人種の日本人は奴隷か、皆殺し>・・・・・・よくわかったぜ。これが占領政策の基本なんだね。

 

結論。

自由民主党の立党宣言「党の使命」には、<占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度改革に当たり、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない>とあります。

ひとことで言うなら占領時の諸政策は、日本を分裂・弱体化するためのものでした。ですから「党の政綱」には<現行の憲法の自主的改正>があります。

「もう、この男しかいない」の『保守政治家 石破茂』という本を朝日・毎日の記者はどう受け止めるでしょうか。

重篤郎の石破茂支持は、戦後レジームからの脱却し、GHQの機関紙を返上する、毎日新聞(そして朝日新聞を巻き込む)の革命になりました。

重篤郎がバッシングを受けるようでしたら日本はまだまだ、支持されるようでしたら日本の未来に光です。

 

End