『ヨーロッパ新世紀』という変な日本題名の映画、日本人が全く映画を理解できない証拠(原題 『R.M.N.』)。

THE TED TIMES 2023-44「クリスティアン・ムンジウ」 11/22 編集長 大沢達男

 

『ヨーロッパ新世紀』という変な日本題名の映画、日本人が全く映画を理解できない証拠(原題 『R.M.N.』)。

 

1、彼女

トランシルバニアルーマニアのある村の住民集会です。

村のパン工場に働きにやってきたスリランカ人3人を、巡って喧々諤々(けんけんがくがく)の議論が行われています。

「いまはたったの3人だが、やがて仲間も、家族もやってきて、この村は占領されてしまう」、

「彼らが触ったパンを食べろというのか」、

「私たちと、彼らが持っている免疫は、違う。野生動物からのウィルスが人間に感染して新しい病気が流行るように、彼らが新しい感染症を持ち込む可能性がある」。

住民の意見に対して、スリランカ人を雇用しているパン工場の女性オーナーは、

「法律に則って雇用しています」、「彼らを隣の村に移住させ、通わせます」、「手袋をして作業をさせます」・・・。

などと弁明しますが、村人は聞き入れません。

しばらくの後、過激な住民が提案します。

「採決をしよう」、「スリランカ人がこの村に住み働くことに賛成の者、反対の者」、「411対6だ」、「彼らをこの村から追い出そう」。

民集会には、映画の主人公マティアスと恋人のシーラもいました。

マティアスはドイツに出稼ぎ行っていましたが、職場で「ジプシー!」と罵倒され反抗し、村に帰ってきたばかりでした。

恋人のシーラは、パン工場の女性オーナーを支えるビジネス・パースン。

もちろんスリランカ人の労働に賛成です。

民集会は討論は面白いのですが、それとは関係なしのおかしなシーンがありました。

・・・突然・・・マティアスがシーラに、手を握らせて・・・とおねだりするのです。

シーラは、なにをみんなの前で・・・拒否しますが、両腕を組み・・・その下から皆にわからないよう、彼に手を触らせます。

村で働く異民族を守る強い女性、外国で異民族といじめられ帰ってきた弱い男性の対比・・・

どうもこのシーンには、クリスティアン・ムンジウ監督の企みが、ありそうです。

 

2、父と子

マティアスには恋人のシーラとは別に、家庭がありました。妻のアナと10歳前後の男の子ルディです。

アナは強い女性。家を出て行き、クリスマスを前に手ぶらで帰ってきた、マティアスを許していません。

そればかりか、マティアスが息子に接することも拒否します。

息子のルディは言葉を失った自閉症児のようでした。

アナは、息子のルディがだらしのない父親に影響を受け病状が悪化することを、恐れていました。

しかしマティアスはシーラの目を盗んで、父親として息子を教育しようとします。

森を通って学校に送迎し、バイクに乗せて、湖へ山へと連れて行きます。

そして雪や水との付き合い方、野獣に出くわしたら、危険人物を見つけたら・・・シチュエーションごとの危険回避を教育します。

自分が父から教えてもらったことを、そのまま息子のルディに教育しようとしていました。

男性マティアスは、女性アナがどんなに息子を可愛がろうとも、息子を男性として家長として育てることはできない、ことを知っていました。

逆に強い女性アナは、息子の教育はマティアスにはできないと、信じていましたが・・・。

これらのプロットにも、クリスティアン・ムンジウ監督の企みを、感じました。

 

3、彼女たち

映画には3人の強い女性が出てきます。

まず妻のアナ。夫のマティアスをダメ男と決めつけた強い女性です。

次はマティアスの恋人シーラです。シーラはパン工場のオーナーをサポートする有能な女性です。

そればかりでなく、シーラはチェロを弾きます。自分を表現する人間です。そしてシーラはマティアスとセックスを自由にエンジョイしています。

そしてもう一人の女性は、パン工場の女性オーナーです。

スリランカ人の労働者に気配り配慮できる人格者です。

411対6の圧倒的な不利な住民集会で、たった一人弁明の論陣をはった頭脳明晰な論客です。

強い女性3人に対して、登場する男性は弱い3人です。

まず主人公のマティアス。出稼ぎのドイツから無一文で家族の元に帰ってきた男です。

次は言葉を失った息子ルディ。

そしてもう一人。マティアスの父です。

父は一人で生活しているようです。映画は、父の妻、つまりマティアスの母についての、説明はしません。

父は老齢、病気を抱えています。しかし映画はその父に、悲劇的な結末を、用意しています。なぜそうなったのか、

ここにも、クリスティアン・ムンジウ監督の企みが、あります。

 

4、リベラリズム

映画は、住民集会の討論、男性を使い仕事をする有能な女性、そして民族の差別問題を描いています。

(映画の解説のよくマティアスは「ドイツで暴行事件を起こし、ルーマニアに帰ってきた」とありますが、完全な間違いです。「暴行事件」ではなく、「『ジプシー!』の差別発言に反抗し」です)。

映画は全体として、民主制、自由、平等のリベラリズムの主張を、しているかのようです。

ここにも、クリスティアン・ムンジウ監督の企みが、あります。

住民の無責任な発言と多数決の暴挙をする民主制、自由な女性の仕事が生み出す住民不和、差別されるものが差別する平等の不合理。

監督は、リベラリズムの危機を描いていますが、リベラリズムの正義を主張しているのではなく、逆にその正義を疑っています。

歴史人口学者エマニュエル・トッドによれば、ルーマニア核家族の国、となりのハンガリー核家族と直系家族がミックスした国、そしてそのとなりのドイツは直系家族の国です。

核家族社会では個人が自由なリベラリズム、直系家族社会では長男中心の家父長制。もちろんトランシルバニアは多民族地域(maltiethnic earea)です。

リスティアン・ムンジウ監督は、リベラリズムの危機を、この映画にワナとして仕掛けました。

***

さて映画の原題『R.M.N.』とは、「Rezonanta Magnetica Nucleara」で、英語で「Nuclear Magnetic Resonance 」、日本語にすれば「MRI=Magnetic Resonance Imaging」(核磁気共鳴画像法)になります。

MRIは、脳腫瘍、脳梗塞、脳溢血などの、脳検査で活躍しています。

クリスティアン・ムンジウ監督は、民主制、自由、平等などのリベラルな概念が巣食う脳をMRIで診断したかった、それが監督の企みで、『 R.M.N.』という題名になりました。

現在、リベラリズムは「リベラリズム帝国主義」になって、1991年のソ連崩壊後の東ヨーロッパを侵略し、ウクライナで紛争を起こし、グローバルサウスの反発をかっています。

しかし『R.M.N.』という名の映画は、「ヨーロッパ」だの、「新世紀」だのを、テーマにしていません。見当違いです。

これは、リベラルな日本の知識人が、戦後の日本の置かれた状況を、理解していない証拠です。

正しいタイトルは、『リベラリズム脳障害』、『リベラリズム狂詩曲』、あるいは『リベラリズム帝国主義 SINCE 1991』が適切です。

おすすめは『Rhapsody In Liberalism (リアリズム狂詩曲)』でしょうか。

***

映画の最後に謎のシーンがあります。

仕事で有能、音楽を愛し、性で奔放。リベラリズムの象徴のようなシーラが、ダメ男のマティウスに「ごめんなさい」と謝罪し、闇の中へ動物の住む荒野に消えていき、映画はエンディングとなります。

耳には、映画のなかばで聴いたピッチ(音程)が不安定な「ハンガリアン狂詩曲」だけが、やけに残ります。

 

End

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画のロウ・イエ監督が、世界No.1(私のベストテン)から陥落しました。

THE TED TIMES 2023-43「ロウ・イエ」 11/15 編集長 大沢達男

 

映画のロウ・イエ監督が、世界No.1(私のベストテン)から陥落しました。

 

1、シネ・リーブル池袋

 11月3日文化の日、映画「サタデーフィクション」のプロモーションで、ついに憧れのロウ・イエ監督のナマの姿を、拝見することができました。

映画館「シネ・リーブル池袋」の昼下がり、9時30分からの1回目の上映の後、映画俳優、オダギリ・ジョー、中島歩、そして中国側から脚本・プロデューサーのマー・インリー(馬英力)とともに、ロウ・イエ監督が登場しました。

観客席の後ろ方から拝見しただけですが、まあ、想像の範囲内の普通の人でした(ハッハッハ、当たり前です)。

舞台の上からのオダギリジョーの話が耳に残りました。

「劇場の外で出待ちをしていましたが、映画が終わったあと、拍手があったのに驚きました。映画ではあまりないことではないでしょうか」(筆者注:観客がこれから登場する監督に気を使っていただけ)

ロウ・イエ監督の映画は、他の映画と映画世界が違います」

「本番では5台のキャメラが回っています。『カット!』の声がかかるまでが、長いんです」

「音楽がつかない映画なんてありますか」(注:作中のジャズバンドの演奏以外に音楽はつかない)

「監督の映画は、早送りしてみたり、スマホで見る映画ではありません。劇場で見る映画です」

「きょうから『ゴジラ』をやっていますが、そういう映画ではありません。・・・いけない・・・。また怒られることを言ってしまった。まあ、冗談ですよ。・・・私が言いたいことは、この映画が普通の映画と違う、ということです」

 

2、『サタデー・フィクション』

ロウ・イエ監督の映画の魅力は、過激なエロとテロです。しかしエロとテロは検閲されます。

たとえば、私が好きな『天安門、恋人たち』(2006年 Summer Palace)は、中国では公開されない映画でした。

私は何も知らずそれを新宿で観て、あまりに過激なセックス・シーンに度肝を抜かれ、ロウ・イエ監督に熱狂しました。

対して2019年制作の『サタデー・フィクション』は、検閲を通過した映画です。

おとなしい。

期待は裏切られたばかりでなく、いくつかの疑問を持ってしまいました。

 

ケチをつけるまえ、忘れないうちに、この映画の素晴らしいところを、言っておきます。

ロウ・イエ監督が映画を発明しようとしていることです。

全ての芸術に共通しますが、新しい表現とは発明です。映画も、絵画も、小説も、名作と呼ばれるものは、そのジャンルでの表現の発明をしています。

映画でいえば、映画をぶち壊し、新しい映画を生み出すことです。

まず、モノクロで撮っています(これについては後述)。

つぎに、オダギリジョーが指摘したように、映画は音楽を使っていません(ジャズの演奏シーンを除く)。

映像制作の経験者はわかりますが、音楽を使わないと困ることが起こります。

カットとカットがつながらず、シーンになりません。モンタージュが難しくなります。でもロウ・イエ監督は挑戦しています。

そしてロウ・イエ監督はシーン転換で驚くべきことをやります。

パン(カメラを横に振る)をするだけで、一つのシーンが次のシーンに変わってしまいます。

さらにアクション・シーンは、お手の物。これもオダギリジョーが驚いたように、いくつもカメラが回っているからからです。

スパイの撃ち合いは、ハリウッドの「ジェットコースター・ムービー」のよう、いやそれ以上です。ロウ・イエ監督は編集がうまい。

ロウ・イエ監督の映画は、映画を発明しています(しようとしています)。

 

この際だからついで言っておきます。

日本人は北野武監督を甘く見ています。

映画『3-4X 10月』のイントロでは、セリフ、ナレーション、音楽なしで、延々とそのシーンのノイズだけ映画を進め、怖いほどの緊迫感を生み出しています。忘れられません。

また『あの夏、いちばん静かな海』では、聾唖者という設定で、主人公からセリフを奪っています。映像の実験です。

さらに『座頭市』では、ゲタ履きのタップダンスを音楽として使っています。今も耳に鳴り響きます。

映画には実験、映画の発明にあふれています。

北野武は映画の前衛、アヴァンギャルドです。

話がそれました。ロウ・イエ監督の映画に戻ります。

 

つぎに『サタデー・フクション』について三つの疑問を提出します。

まずシナリオ。複雑すぎます、あらすじすらわかりません。

映画は1941年12月1日から7日までの大東亜戦争が始まる前日までの上海での話です。

1)香港からやってきた上海にやってきた女優、彼女の養父はフランス人連合国のスパイ。女優の上海訪問の目的は、舞台に出演するためと日本軍に捕らえれている前夫を救うため。

日本から海軍少佐が部下と共に上海にやってくる。訪中の目的は暗号更新のため。

2)海軍少佐と香港女優の銃撃戦が始まり海軍少佐は負傷する。養父たち連合国側の暗号解読の作戦が始まる。少佐は睡眠薬を飲まされ、香港女優が暗号の秘密を聞き出そうとする。

3)劇場で海軍少佐と香港女優の銃撃戦が始まる。海軍少佐は射殺される。そして女優は連合国のスパイである養父に、暗号の「ヤマザクラ」は「ハワイ」、であると伝える。そして大東亜戦争が始まり。上海の租界は終わりを告げる。

映画は日本海軍の「暗号更新」をメインテーマにしています。それを巡って、連合国のスパイ、重慶政府(蒋介石・国民党)、南京政府(日本の傀儡・王兆銘政権)の諜報部員の暗躍するというわけです。

このあらすじは、劇場で買ったプログラムを読んでも、わかりません。

映画は作為に過ぎます。映画が生まれていません。プロデューサーの責任です。

 

つぎは、先ほど触れたモノクロ映像の話です。

ロウ・イエ監督に、なぐられることを覚悟で、言います。

映像に、色調や輝きが、ありません。

モノクロ映像の黒は黒光(くろびかり)し、白は輝くはずです。

画面にツヤがないのはなぜでしょう。わかりません。

デジタル撮影だからでしょうか。

手持ちカメラで長回しするから、ライティングいい加減になる、からでしょうか。

あるいは、上映館の映写機のレンズが悪かったせいでしょうか。

いずれにせよたとえば、モノクロ時代の巨匠、溝口健二監督に完全に負けています。

溝口監督は、カメラがどう動こうとも、絶妙のライティングで、どのカットにも光と影がありました。

アーティザンでアーティストでした。

だからあのゴダールが、一にミゾグチ、二にミゾグチ、三にミゾグチ、と絶賛したのです。

 

3つ目はロウ・イエ監督の世界観の話です。

多少映画を離れます。お許しください。映画を理解するために知っておかなければならない、ことばかりです。

1)海軍暗号書D

映画に出てくる、海軍少佐の暗号更新のための上海訪問は、フィクションではありません。歴史的事実に基づいています。

1941年12月4日の「海軍暗号書D」の「一般乱数表第八号」への更新のことです。

しかし映画は重大なことに触れていません。

暗号更新の背景には、10日前に日本が米国から戦争への最後通牒を突きつけられていた、という歴史的事実があることです。

2)ハル・ノート

1941年11月26日に日本は、コーデル・ハル米国国務長官から「ハル・ノート」を、突きつけられていました。

①中国から日本軍の撤退、フランス占領地のインドシナラオスベトナムカンボジア)から日本軍の撤退、③王兆銘の南京政府の否認。

米国の権益を主張し、日本外交を全否定するものです。

コーデル・ハルはただの米国務長官です。なぜ偉そうに、日本撤退を命令したのでしょうか。

歴史的に見ると米国は、日本が日露戦争に勝利した頃(1905年)から、中国での権益そして太平洋の制海権で、日本を邪魔だと考えていました。

映画は、「ハル・ノート」の存在、米国の存在について、一言も触れていません。

ハル・ノート」を受けて帝国海軍の機動部隊は、ハワイに向けて出発していました。

すでに戦争は始まっていました。

3)租界(そかい、concession=居留地、settlement=植民地)

映画は、上海に租界(外国人が警察・行政を管理している)があることを、当然のこととして描いています。

租界の歴史は100年以上前から始まる中国人の屈辱の歴史です。

英国はインドを侵略したあとに中国を狙い、中国人にアヘンを売りアヘン戦争を起こし、1842年に南京条約を結び、香港島を割譲させ上海その他を開港させました。

その時に租界は始まり、次第の拡張されていきます。

映画は租界を当然のものとして受け入れ、しかも中国人が、租界に住む連合国の人々の諜報戦に、積極的に協力するさまを描いています。

困ったものです。

 

さらに映画は、日本人と日本を、英米仏の白人の連合国と同じ侵略者で侵略国、と考えています。

とんでもない間違い。

日本は、アジアを西欧諸国の侵略から解放し、大東亜共栄圏を建設するために戦いました。

侵略者ではありません。

しかも日本軍は、ぶっきらぼうに、偉そうに、命令口調で話します。これは絵に描いたような・・・コミックです。

無表情で暴力的な日本人・・・これは人種偏見、西欧的な価値観でしかありません。

日本人の役者、オダギリジョーと中島歩の演技に文句を言っているのではありません。

米国製の「平和と民主主義」で育った若い彼らは、何も知らずに、監督に従っているだけです。

 

ロウ・イエ監督、申し話ありません。

せっかく初めてお目にかかれたのに、監督の世界観に問題がある、などと罵声を浴びせかけてしまって・・・。

結論的に、映画製作に立ち返って言えば、『サタデー・フィクション』に数々の疑問点があるのは、いつものプロデューサーであるファン・リー(方励)がいないから、ということにしておきましょう。

 

3、『兎たちの暴走』

今年の中国映画での収穫は、残念ながら『サタデー・フィクション』ではなく、『兎たちの暴走』(シェン・ユー監督 2020年)です。

エロやテロではなく、アンニュイ(倦怠)とノンシャラン(無気力)を描いた、中国で初めてのおしゃれな映画です。

この映画に、ロウ・イエ監督のプロデューサーであった、ファン・リーがついています。

時代は変わりました。

ロウ・イエ監督は世界の映画監督第1位でしたが、ついにすべり落ちることにしました。

だれを1位にするか、激戦、注目作が目白押しです。年末に決めます。

『ポトフ』のトラン・アン・ユン監督でしょうか。

『首』の北野武監督でしょうか。

それとも『プリシラ』のソフィア・コッポラ監督でしょうか。

・・・そしてロウ・イエ監督の新作に期待します。

 

End

 

 

 

 

「コンセプト」の作り方を秋元康から学びましょう。

THE TED TIMES 2023-41「秋元康」 11/7 編集長 大沢達男

 

「コンセプト」の作り方を秋元康から学びましょう。

 

1、アンディ・ウォーホル

「インタヴュアーはしゃべって欲しいことを、あらかじめ教えて欲しい、私はその通りに話すから・・・」と言ったのは、

現代アートのカリスマ中のカリスマであったアンディ・ウォーホルです。

月刊『文藝春秋』(2023年8月号)で連載が始まった、「インタヴュアー秋元康による秋元康ロングインタビュー」は、まさしくウォーホルのコンセプトによる新しい連載です。

まず連載は、秋元康について知りたい読者の要望に応えています。「売れる」コンセプトがあります。

つぎに連載は『文藝春秋』の新しいコンテンツになっています。「新しい」のコンセプトがあります。

いままで「自叙伝」、「私の履歴書」と呼ばれていたものを革新しました。たとえば「三島由紀夫による三島由紀夫へのインタヴュー」や「石原慎太郎による石原慎太郎へのインタヴュー」があったら、読者は飛びつきます。

さらにこの連載は、秋元康の作家活動を歴史化し、秋元ブランドを不滅のものにする狙いがあります。「ブランド」のコンセプトがあります。

つまり連載は、売れる、新しい、ブランドのコンセプトのもとに書かれています。

・・・ところでアンタは、コンセプト、コンセプトというが、コンセプトってなんのこっちゃい・・・?

コンセプトとは「考え方」、「狙い」ということです。あとで詳しく議論します。

 

2、「川の流れのように

連載のなかで、秋元康は面白い事実を明らかにしています。

世紀のヒット作「川の流れのように」を、シングルのA面にしたくない、という秋元の戦略があったことです。

しかし美空ひばり側の要望でというより、美空ひばり本人の強い願いで、A面になった、という裏話です。

よくわかります。

川の流れのように」は、美空ひばりの集大成、つまり、「売れる」コンセプトがありますが、コンセプトの第2の「新しい」、第3の「ブランド」としては、乏しく痩せています。

川の流れのように」が発売された1989年、1937年生まれの美空ひばりは52歳、1998年生まれの秋元康は31歳。

そして発売のその年に、美空ひばりはこの世の人ではなくなり、最後のシングルになります。

もう歌手生命のない美空ひばり、これから何があるわからないクリエータ秋元康、天命を知っていた美空ひばり、未来を見ていた秋元康、その差がA面論争の真実です。

先ほど、「川の流れのように」は、「新しい」と「ブランド」のコンセプトという点で乏しい、と言いましたが撤回します。

この歌は、フランク・シナトラ(作詞:ポール・アンカ 作曲:クロード・フランソワ)の『マイ・ウェイ』をヒントに作られましたが、

美空ひばりの歌唱により、新しさでもブランド構築でも、堂々たるものになっています。

さらに、マンハッタンのイースト・リバーを見ながらこの詞を書いたという秋元康のエピソードも、美空ひばりブランドに大きく寄与しました。

ひばりは、「川の流れのように」で世界に飛び立ち、不滅になりました。

 

3、『ジェリービーンズの片想い』

川の流れのように」を書いた30数年前の秋元康に戻ります。そしてその才能の秘密を探ります。

『ジェリービーンズの片想い』(秋元康 CBSソニー出版)は、1987年2月14日の出版、『川の流れのように』のリリースは1989年1月11日、あの頃の秋元康が生き生きと生きています。

○「週末の日課(スケジュール)」

「オートマしか運転しない君は/僕のワーゲンが苦手だった。/七里ヶ浜の坂を登るたびに、/エンストを起こして、/あわてさせる。/一度なんか、コークスクリューのように/逆さにバックしてしまって、/僕がブレーキを踏まなければ、/電柱にぶるかるところだった。/そして「珊瑚礁」でスペアリブとカレー/を食べながら、ケンカするのが週末の/日課(スケジュール)になった。」

『ジェリービーンズの片想い』を読んでいて懐かしくなります。

七里ヶ浜、あそこで秋元さんもサーフィンやりましたか。僕は、まだ誰もいない海の七里ヶ浜で、遊んでいました。

ワーゲン。僕の友達のフォトグラファーもデザイナーも乗っていました。デザイナーはカブリオレでしたが。カッコよかった。

そしてレストランの「珊瑚礁」に驚きました。1972年にオープンのお店。スペアリブが当時のおしゃれ、時代の最先端でした。

本の帯には「初の描き下ろし短編集」とあります。詩集なのか短編集なのか。いずれにせよ、「2月14日発行」でわかるように、恋愛がコンセプトの本です。

○「ホテルの鍵」

「『もし、ホテルの鍵を返さないで/持ってきてしまったら、/街にある赤いポストに入れると、/世界中のどこのホテルの鍵でも/

そのホテルに届くんだってさ』/僕が人から聞いた話を/自慢気に話すと、君が答えた。/『切手はどこに貼るの?』/僕は、君のそういうピントのずれたとこ/ろが好きだ。

○「あて先のない手紙」

「『あて先は何も書かずに、/手紙の差し出し人のところに、/送りたい人の住所を書くと、/切手を貼らなくても返送されるから、ちゃんと送りたい人の所に、届くんだ』/ぼくが友達から聞いた”知恵”を/自慢すると、/君は、少し、意地悪な瞳をして答えた。/『あて先のないLOVE LETTERを/もらっても、うれしい?』」

詩集に出てくる僕は何の仕事をしているのかわかりません。彼女の君(同一人物ではありませんが)もどんな生活をしている人かわかりません。

ただの彼氏と彼女です。愛し合い、喧嘩し、よりを戻しているだけの二人です。

気がつくことがあります。彼が書いた詩なのに、女性の「君」が主人公になっていることです。

オートマしか運転できない君、僕とケンカする君、ピントの外れた君、意地悪な目をする君。

女性を「いい気持ち」にさせる、女性を「よいっしょと持ち上げている」文章です。

まず恋愛願望の女性に「売れる」コンセプトがあります。

次に七里ヶ浜、ワーゲン、スペアリブは「新しい」都会のライフスタイルで、さらにいえばバレンタインというテーマ自体も当時としては「新しい」コンセプトでした。

そして秋元康の才能、「みずみずしい理性」(感性ではない、『へ』理屈)があります、それがおちゃめな「ブランド」を構築しています。

さらに本のタイトル『ジェリービーンズの片想い』のジェリービーンズが、恋の駆け引きのキーワードになっています。

青のジェリービーンズがポッケから出てきたら進め、逆に赤のジェリービーンズだったら止まれ。

ですから「ジェリービーンズ」が女性マーケットをターゲットにしたコンセプトでキーワードになっています。

単純明快です。

秋元康はその後、AKB48でスーパーヒットを連発しますが、このコンセプトのキーワード化が作詞法の原型になっています。

コンセプトのキーワードで勝負、言葉遊びや、文学はやっていません。

 

4、コンセプト

コンセプトとは、わかったようでわかりにくい言葉です。

コンセプトとは、考え方、狙いです。いままでにない新しい考え方の発明です。

コンセプション(conception)とは妊娠、女性のおなかに新しい生命が、誕生することです。

商品という大きなマル(○)を書いて、その隣に顧客という大きなマル○を描く、そのマルとマルが重なったところがコンセプトです。

商品やサービスと、顧客との新しい関係の発明です。

コンセプトは、商品やサービスを「売る」ために考えられます。

コンセプトは、商品やサービスが「新しい市場」を作るために考えられます。

そしてコンセプトは、商品やサービスを扱う企業の「ブランドを構築」するために考えられます。

○白いクラウン(1967年)

それまでクルマといえば黒、法人向け、公用車でした。それに対抗して生み出された白いクラウンは、個人向け、私用車、マイカーでした。

トヨタ自動車は「白いクラウン」でマイカー時代の宣言をしました。歴史に残るコンセプトです。

○パスポートサイズ(1989年)

ソニーのビデオカメラ「ハンディカム」の大きさはパスポートと同じサイズでした(旧パスポート)。広告キャンペーンで「パスポートサイズ」が使われました。

折からの海外旅行ブーム、外国へはパスポートサイズの「ハンディカム」が当然のものになり、売れました。

○24時間戦えますか(1989年)

それまで栄養ドリンクは、スポーツ選手の愛用飲料、セクシーな男性の必需品として売られてきたのに対して、リゲインはビジネスマン・ドリンクとして広告コンセプトが立てられました。

インターネットの5年前ですが、ビジネスはファックスで24時間体制、都市も眠らない「24時間都市」になっていました。1989年の流行語大賞になりました。

***

歴史のお勉強はこの程度にして、秋元康の作品からコンセプト作りの見事さを、学びます。

ヘビーローテーション(2010年)

ラジオで頻繁にかけられる曲を「ヘビーローテーション」といいます。秋元が「ヘビーローテーション」という業界用語を見つけ、この作品のコンセプトのキーワード(キャッチコピーと言っても良い)にすることで、勝負は終わっています。

売れる、新しい。秋元は、24時間恋い焦がれる気持ちを、ヘビーローテーションと名付けました。もちろん男性の僕が君を恋する気持ちです。蜷川美香のVIDEOでは、ランジェリー姿の少女たちが戯れます。アーンして、キスして、全裸でバスタブに・・・もういけません。

さよならクロール(2013年)

夏向けの曲を失恋ソングにするコンセプトの冒険。そしてそれが高校時代からの失恋という懐古趣味のコンセプトの冒険。ここでは「クロール」がコンセプトでキーワードになっています。高校時代に水泳部だった彼が「クロール」と呼ばれ、「さよならクロール」、「切ないクロール」、「思い出クロール」になり、「酸素が足りない 恋の息継ぎ」となっていきます。青空、青い海の下での失恋の私、彼に向かって「どこに向かって泳いでいるの?」と問いかける人生の不条理へと、失恋コンセプトは展開されます。でも、若さって素晴らしい。

恋するフォーチュンクッキー(2014年)

これもモてない女の子を励ますがコンセプトです。秋元は食べるおみくじ、「フォーチュンクッキー」をコンセプトのキーワードにしました。可愛いコだけがいつも人気投票で1位だけど、「ツキを呼ぶには笑顔を見せること」とフォーチュンクッキーに運命をゆだねています。

さきほども言ったように、秋元の詞には文学やレトリックはありません。「人生捨てたもんじゃないね」。フォーチュンクッキーがあるワ、モてない女の子の救済のコンセプトで貫かれています。

***

「インタヴュアーはしゃべって欲しいことを、あらかじめ教えて欲しい、私はその通りに話すから・・・」

冒頭のウォーホルの言葉は、何が売れるか教えてくれれば、つまり売れるコンセプトを提示してくれれば、新しさとブランド構築は自らが付け加えることができる。

私へのインタヴュー記事は売れますよ。アンディの自信の表明にほかなりません。

クリエイティブはコンセプトが全てです。アンディ・ウォーホルは広告のデザイナーとしてそのキャリアを始めています。

コンセプトを立てるのがうまい、秋元康の才能の秘密はここにあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

FTのジリアン・テットの「SMR」議論が面白い。これから彼女に注目します。

THE TED TIMES 2023-40「SMR」 10/30 編集長 大沢達男

 

FTのジリアン・テットの「SMR」議論が面白い。これから彼女に注目します。

 

1、サム・アルトマン

サム・アルトマン(1985~)を知っていますか。

チャットGPTで世界の注目を集めているオープンAI社のCEOです。セントルイスミズーリ生まれ、ユダヤ人系の生まれ、ヴェジタリアンで同性愛者であることを公表しています。スタフォード大学中退です。

そのサム・アルトマンが、次世代原発とされるSMR(Small Modular Reactor = 小型モジュラー原子炉)の開発に本格的に乗り出しています。

スキャンダラスなのは、サムが会長を務める新興企業オクロが、ウォール街の大物バンカーであるマイケル・クラインとともに立ち上げた特別買収目的会社SPACと、合併したことです。

SPACは、資産バブルを招いたとして、2年前から忌み嫌われています。そのSPACに「核」が加わることは、さらに一般市民の嫌悪感を強める可能性があるからです。

かといって、私たちはサム・アルトマンのオクロを無視することはできません。

米空軍はアラスカ州でオクロの原子炉を使う計画を発表しました。もし実現すれば、米国内で商用SMRが使われる初めての事例になります。

 

2、SMR

次世代原発SMRは投資家の注目をあつめています。

まず米マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツが投資するテラパワーがあります。

つぎに米のニュースケール・パワーがあります。同社はSPACとの合併で上場し、ルーマニアでのSMRプラント建設計画のために様々な政府から2億7500万ドルの投資額を確保しています。

そして米ゼネラル・エレクトリック(GE)と日立製作所との合弁会社米GE日立ニュークリア・エナジーは、カナダでSMRプラントを建設しています。

さらの英国は「英国の電力の4分の1を50年までに国産原子力エネルギーから確保」すること表明し、SMR設計の国際コンペを立ち上げています。

背景には、

1)世界経済の成長、人工知能(AI)の新技術には大量の電力が必要で、電力需要は数年で急増する。

膨大な量の安くて安全なクリーンエネルギーに対する差し迫った需要が生まれる。

2)電力生産を化石燃料に依存すると地球温暖化は悪化する。蓄電で技術革新がなければ、風力や太陽光などの再生可能エネルギーでは需給ギャップを埋められない。

3)原子力技術は変わった。金と時間がかかる巨大発電所の時代は終わった。SMRは小さく、工場で生産された設計品を現場で組み立てる。費用と時間は格段に少ない。電力の需要地の近くに設置できる。

4)リサイクルされた核廃棄物を燃料として使うために廃棄物処理問題を軽減できる。

以上があります。

しかし、SMRには根強い反対派がいます。

1)環境保護派は原発が嫌い。原発を「環境負荷が小さい」から除外している。

2)米原子力規制委員会(NRC)の元委員長アリソン・マックスファーレンは、アルトマンのようなリバタリアン自由至上主義者)のテック・プロ(自信満々のテック業界)がニュークリア・プロになっている、という意見すらを嫌っている。

3)マックファーレンは、SMRは原子力規制当局から許認可を得ていない、商業的に利用可能なものが一つもない、SPACは誇大宣伝をしている、と主張している。

4)さらに、既存の原子力発電所は温暖化ガスの削減の大きな役割を果たしている、SMRの将来性は疑問だとしている。

以上は、「小型原子炉、電力の未来か」(ジリアン・テット 日経9/6)からの要約です。

つまりSMRは注目を浴びているが、その将来はバラ色ではないと、ジリアン・テットは書きます。

 

3、ジリアン・テット

しかし結論で、ジリアン・テットはSDR支持、を表明します。

理由として映画『オッペンハイマー』で見られるように米国政府は、原子力の技術革新をリードしてきたにも拘らず、第2次世界大戦後は革新について嘆かわしいほど動きが遅くリスクを嫌うようになってしまった、からです。

今ではSMRの予備実験を、ロシア、中国、アルゼンチンが、行っています。

ジリアンの文章は、極めて論理的、短い論考の中で賛成反対のディベートも行い、さらに自らの意見もはっきり主張しています。

ニュースがあり、事実の報道があり、提案があります。そしてなにより面白いのは、皮肉とユーモアがあることです。

いままで、FTのギデオン・ラックマンに注目してきました、これからはジリアン・テットもです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「2024年問題」を語るなら、フィールドワークをして、まず現場の声を聞くべきである。

THE TED TIMES 2023-39「2024年問題」 10/22 編集長 大沢達男

 

「2024年問題」を語るなら、フィールドワークをして、まず現場の声を聞くべきである。

 

1、2024年問題

「2024年問題」とは、労働時間短縮とワークライフバランスの問題です。日経の「『2024年問題』の行方」(日経9/22,25,26)を読んで驚きました。

この問題をご専門とする大学の先生たちは、労働時間の数字の議論ばかりをしていて、労働者の生活を全く問題にしていません。

左翼的な革命理論から言っているのではありません。労働者の生活を一顧だにせず議論を組み立てる、先生たちの学問の力に疑問を感じました。

2019年4月の改正労働基準法が施行され、時間外労働の上限規則が導入されました。それは、原則月45時間、年360時間、特別の事情があり労使が合意した場合にに限り年720時間の時間外労働が許されるというものです。

しかし建設業、自動車運転業務、医師は十分な猶予期間が必要との理由により、24年4月からの実施となった、これが「2024年問題」です。

 

2、医師の2024年問題

医師の問題に限定すれば、2024年には団塊の世代が全員75歳を超え、サービス需要が急増するタイミングになります。

日本の医療提供体制は、04年の臨床研修制度から変わります。それ以前は、新人医師はいきなり大学の医局に入り、滅私奉公的な初期研修を5~10年受けました。

50歳以上の多くの医師は、医療の王道は内科や外科、週80時間ほど病院にいる、請われれば過疎地でも勤務する、価値観を持っています。

対して新しい研修制度で育った04年以降の医師たちは、どの診療科が大変かを知っていて、滅私奉公的な研修を経験していない、ワークバランスを重視する価値観を持っています。

結果、外科系診療科への入局は極端な場合はゼロ、外科医不足が顕在化しています。

そこに働き方改革が追い討ちをかけ、第1に夜間救急患者を受け入れる病院が少なくなり、第2に手術提供能力が低下します。

では働き方改革を止めるべきか。しかし働き方改革をしないならば、救急医、外科医、産科医はさらに減ります。

つまり労働時間の短縮の問題だけでなく、ワークライフバランスが可能な生活を送れることを、保証することが必要になります。

以上は、「医師確保へ働き方改革急げ」(高橋泰国際医療福祉大学教授 日経9/26)から。まあ高橋先生はまともです。労働者しての医師の問題をよく考えています。

 

3、自動車運転と建設業界の2024年問題

黒田祥子早稲田大学教授は、「2024年問題」での自動車運転と建設業での問題は、値上げと賃上げ、であると結論しています(日経9/22)。

「過労に起因する医療・交通・建設事故が起きれば多くの人が犠牲になる。(中略)コストを負うのは日本国民だ。(中略)そのため値上げと賃上げは不可欠という発想の転換が必要だ」。

同じく首藤若菜立教大学教授は、労働時間を短縮して賃金単価を上昇させるには生産性の向上が必須になる、と結論しています(日経9/25)。

そして「日本の物流は長い間、ドライバーが柔軟に長時間働くことを前提としてきた」、これを変えなければとならない、と結んでいます。

「2024年問題」は、なんだか上品な賃金の問題で、お二人の問題提起からはワークライフバランスの問題が全く見えてきません。

道路、建設の公共事業の入札はまず価格ありき、予算を抑えた業者が落札します。つまり人件費を切り詰めた業者が勝ちになります。

現場には、外国人労働者が溢れています。鳶、職人、警備員・・・現場はいまだに「飯場」、「詰所」、「タコ部屋」の封建的な「昭和」です。

そこには、賃上げやワークライフバランスの、上品な問題はありません。

現場の監督が威張り腐る、パワーハラスメント、監督が気に入らなければ警備員は「帰れ!」と怒鳴り散らされます。サービス残業など当たり前。

人権無視が国民の血税を使った公共事業の現場で、正々堂々、当たり前のように行われています。

「2024年問題」を論ずるなら、お二人の先生に、職人の現場、ドライバーの現場の取材をおすすめします。

藤井聡太は、希有の天才の一つの実験の結果、想像の線の上の必然。

THE TED TIMES 2023-38「藤井聡太②」 10/15 編集長 大沢達男

 

藤井聡太は、希有の天才の一つの実験の結果、想像の線の上の必然。

 

1、永瀬拓矢

藤井聡太8冠達成。

最後のタイトル「王座」を明け渡した永瀬拓矢が、日経のインタヴューで藤井聡太は「人間をやめている」と答えました。

その意味は、まず集中力。そして自分の損得で物事を考えないこと、さまざまな勉強の邪魔になる雑事を断らないこと、対局以外のイベントのスケジュールを断らないことです。

そして羽生善治のような第一人者的な考え方があるといいます。たとえば、後手番が厳しいと誰もが言うが、ふたりは後手番の可能性を信じています。さらに藤井聡太は全ての棋書を読んでいると言います(日経 23.10.16)。

永瀬拓也31歳、藤井聡太21歳。

3年前藤井聡太が18歳で史上最年少で棋聖タイトルを獲得したときにも、永瀬拓也は言葉は違いますが、ほぼ同じような感想を述べています。

「藤井さんが渡辺さん(前棋聖渡辺明)を相手に勝ったのはすごいことですが、(何度も練習将棋を指し)藤井さんの強さを一番知っている私からすれば、『藤井さんの力をもってすれば順当』です」。

そして10歳年下にもかかわらず、「人間的にも尊敬できる」、「藤井さんの強さは『努力の結晶』」である、としています(日経 20.7.25)。

王座戦での永瀬拓也の対局のシーンが思い出されます。

失着の一手を指した後、永瀬は頭をかきむしり、感情を露わにしました。

対して藤井は、何の感情も表さずただ盤上を見つめ、坦々と1分将棋を指していました。

 

2、藤井聡太

王座獲得の後に、藤井聡太も日経のインタヴューの答えています。

将棋AIの候補手と自身の考える最善手の違いについて、

「ある局面を突き詰めれば、先手勝ち、引き分け、後手勝ちの3つに集約される。

(どう指しても負けの場合があるわけで)常に最善の手があるわけではない。

自分は全ての局面で正解を指そうと考えているわけではなくて、どうしたら局面のバランスを保てるか、どうしたら少しリードできるか、と考えている」。

そして「負けの局面では、普通の手ではどうしても勝てない。普通じゃない手を考えた中で最も難しい、複雑な手を選ぶ」。

なるほど・・・明解。といっても、王座戦を第4局で、どの場面がそうだったのか、わかりませんが・・・。

AI評価では、藤井はいつも、永瀬にリードされていました。そして負けが99%になったあとに、逆転勝利したのですから・・・。

永瀬が評価するように、藤井は人間性で優れているのでしょうか、あるいは損得を度外視し人間をやめるほどの人間性の勝利なのでしょうか。

 

3、羽生善治

藤井聡太という存在、その姿は一人の稀有の天才が作り出した、一つの実験の結果であり理想像ではないかと。その天才の描いた想像の線の上に藤井は、それが必然であるかのように存在した」(日経23.6.5)。

元「将棋世界」編集長で作家の大崎善生は、藤井聡太の存在を神秘でも不思議でもないとし、極めて論理的に説明しました。

時は遡ります。

1996年冬に羽生善治が7冠完全制覇と偉業を達成します。

そのときまだ25歳の青年は人生の目的を問われて、「将棋の本質を目指す。それを解き明かす」、と答えました。

そして羽生は、極限状態のスケジュールの中で、将棋の定跡書を書き連ね、新しい才能、次の世代に懸けます。

羽生の言葉の一行一句が子供たちの体に染み込み、血と肉になっていきます。

羽生という天才が仕掛けた想定どおり、藤井聡太が生まれたというわけです。

大崎善生の大胆な予言は、その天才・藤井聡太の生みの親である、稀有の天才・羽生善治の言葉によって証明されています。

永瀬拓也の項で前述した、藤井聡太渡辺明から初タイトルを獲得した棋聖戦の感想を、産経新聞に寄稿しています。

「(第2局は本格的な矢倉模様になり・・・)出だしは昔の中原誠米長邦雄戦をおうふつさせる序盤戦で、昭和の香りが漂いました。

(中略)藤井さんの新工夫で、古き皮袋に新しい酒を盛ることになり、令和の時代の味に変化しました。

そして、昔に流行した形であっても、まだまだ眠っている可能性があることを呼び起こしてくれたような気がしています」(産経 20.7.17)。

物事は、温故知新(古きを訪ね、新しきを知る)が基本で、将棋のおいても定跡の研究がなければ新手はありません。

でなければ8冠棋士は生まれない。これが結論です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『日本二千六百年史』(大川周明 毎日ワンズ)を読む。

THE TED TIMES 2023-37「大川周明②」 10/8 編集長 大沢達男

 

『日本二千六百年史』(大川周明 毎日ワンズ)を読む。

 

1、ダイナミック

大川周明は戦前の代表的な国家主義者として知られています。

ところが『米英東亜侵略史』(土曜社)を読んで、単純な「国家主義者」などというイメージは、ブッ飛びました。

大川周明は、戦前の日本を代表する、いやいまの時代においても日本を代表する歴史学者といえます。

さらに今回、『日本二千六百年史』読み、その思いを強くしました。

『物語日本史 上中下』(平泉澄 講談社学術文庫)にも驚きましが、大川周明は負けていません。

大川の優れた点は、国際的に、ダイナミックに、世界における日本の歴史が描かれていることです。

それは何か。中国の儒教、インドの仏教です。当たり前ですが、大川はそれを国家主義者ではなく、国際主義者として描いています。

科学的、論理的で説得力があります。つまり一流の歴史学者として、実証的に日本史を論述しています。

 

2、日本国

万世一系・・・いまの人は「万世一系」を軽々しく口にするが、深奥なる意義を理解していないと指摘します。

まず古代諸国で日本の建国思想に匹敵する国はない。秦の始皇帝は万世に至らんと豪語しましたが、わずか二世で亡国になりました。

対して日本の皇統万世一系です。日本民族は万世に独立し繁栄しています。日本民族福祉の根源はここにあります。

天皇とは「天神にして皇帝」の意味です。吾らの祖先は、天神にして皇帝たる君主を奉じて、この日本国を建設しました。

聖徳太子・・・17条の憲法があります。重要なのは12条です。「国に二君なし。民に両主なし」。

これを大川は、「当時の社会並びに政治組織を、根底より否認すせる画期的宣言である」、とします。

なぜならば、これまで日本の天皇は、最高族長として諸族の長を統治していたけれど、直接日本全体の国民を統治していたのではなかったからです。

大川は「大化の改新の思想的根拠」を明確にしています。

平安朝時代・・・大川は、『古今集』、『後撰集』、『新古今集』、『竹取物語』、『源氏物語』、『枕草子』などを繊細優麗、世界無比として評価します。

しかしそれは剛健堅実の精神を伴っていなかったから、浮華文弱に陥る、と指摘しました。

そして実際にその後の日本は堕落していきます。

「多くの男と交わるのは手弱女(たおやめ)の手柄、多くの女を従えるのは風雅男(みやびお)の誉れと誇る」浅ましい世態になっていきます。

大川は国風文化を絶賛していません。批判すべきものははっきりと否定しています。なんでもありの「国粋」主義者ではありません。

 

3、戦国時代

連座の掟・・・戦国時代は軍国主義の時代でした。諸侯と家臣の関係は情誼ではなく法律的になっていきます。厳重な制裁が科せられるようになります。「連座の掟」がうまれます。一人罪を犯せば、その親子一族に罪が及ぶ、連帯責任を負わせるものです。

「喧嘩両成敗」も戦国時代にできた法律です。

町村自治・・・租税の滞納、道路の破損、田地荒廃は一家乃至一村落の連帯責任でした。そして町村自治が盛んになります。

向三軒両隣・・・近所合壁(きんじょがっぺき=となり近所)だけの組合もできるようになります。

一方で、物資に供給、産業の発展の必要性から、鎖国はできず商人には特権を与え、関所の出入りを自由にさせました。

つまり戦国時代は、単なる混沌の時代ではなく、新しい文明の要素が成熟する時代でもありました。

日本の共同体が戦国時代から発生し、成熟していったという大川の指摘は極めて重大です。

 

4、国民

大川は国家主義者ですが、国粋主義者ではなく、国民主義者でした。権力だけでなく、その下の国民の生活を見ていました。

「日清日露の両役に疲弊せる平民を慰撫し、その福祉を増進するために、千々の心を砕くべき筈であった。妻子を飢え泣かせた者、出征のために家産を倒せる者、老親を後に残して屍を異境に晒せる者は、実に幾十万を算した」。

にもかかわらず、米騒動の際に「日本軍隊は外敵に向かって研ぎ来れる鋭き剣を同胞に向かって揮い、貴重なる弾丸を同胞に向かって放たねばならなかった」と、ときの政治家を批判しています。

大川周明の筆は鋭く権力を告発しています。

残念なのは、『日本二千六百年史』の満州事変で終わるエンディングには、『米英東亜侵略史』のような明解さがないこと、だけです。