『日本語はひとりでは生きていけない』(大岡玲 集英社)は、リベラリズム国語学ではありませんか。

THE TED TIMES 2025-44「大岡玲①」 11/13 編集長 大沢達男

 

『日本語はひとりでは生きていけない』(大岡玲 集英社)は、リベラリズム国語学ではありませんか。

 

1、リベラリズム国語学

大岡玲は父・大岡信の影響でしょうか。左翼です。日本の文学史をひん曲げています。

「漢字を導入する以前の古代の日本には文字はなかった」(p.66)。

「言語のみで暮らす倭=日本の人々が文字=漢字を使用するようになったのは、百済から仏教が伝来した時期から・・・」(p.67)

「漢字の音訓を使用して倭語を表記する、いわゆる「万葉仮名」(中略)「万葉仮名」という呼称は、現存日本最古の歌集『万葉集』に由来するわけだが(中略)4500首余りの歌を収める『万葉集』の成立は、現時点では8世紀の後半のどこか・・・」(p.91)。

と、ここまではいいです。

「『古今和歌集』に始まる勅撰和歌集、すなわち天皇自らが歌集を総監修するという文化政策が、その後の日本文学の根幹を作った・・・」(p.94)。

天皇自らが歌集を総監修するという文化政策>。

天皇は、経済・社会・文化政策を策定し実行する行政のトップであった・・・初めて聞く珍説です。

「(紀貫之が書いたと言われる『古今和歌集』の仮名序の冒頭部はこうだ。『やまとうたは、ひとの心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中のある人、ことわざ繁きものなれば、心に思うことを、見るもの聞くものにつけて、言い出せるなり。」(p.146)

「万の言の葉」という明らかに『万葉集』にことです。

万葉集』は大伴家持による編纂です。

海行かば水漬く屍/山行くば草生す屍/大君の辺にこそ死なめ/かへりみはせじ」

この歌は大伴家持で、天皇への忠誠を歌っています。

万葉集』の編纂にも天皇の力がありました。

大岡玲は、天皇文化政策は『万葉集』から始まる、とでも言いたいのでしょうか。

以前、『日本語 新版 上下』(金田一春彦 岩波新書)を読んで驚きました。

日本を代表する国語学者金田一春彦の左翼ぶりにです。

調べてみるとわかりました。

金田一春彦が影響を受けたのは、友人のマルクス歴史学者遠山茂樹、そしてその師・羽仁五郎はでした。

彼らはGHQに協力したリベラリストないしはマルキストです。

『日本語』(岩波新書)は、皇室を物笑いのネタにし、日本語に占める皇室伝統を全否定しています。

『日本語はひとりでは生きていけない』(大岡玲 集英社)も同じです。

大岡玲もやはり左翼的リベラルです。

父の大岡信は「九条を守る会」で、しかもGHQの機関紙といわれる朝日新聞に「折々の歌」を連載していました。

父の影響でしょうか。

 

2、大和魂

大岡玲天皇を避ける論考は、「大和魂」の議論で頂点に達します。

「『いさぎよく散る』のが『やまとだましい』といった『武士道』的用法や、『忠君愛国』とそれを接続するといった天皇制絶対主義の用法が『やまとだましい』の本義とは言えない・・・」(p.353)。

そして『『やまとだましい』の文化史』(斎藤正二)を引用しながら大和魂とは、「臨機応変に世間で立ち回る能力」、「当意即妙の機知の働き」、「政治問題・社会的葛藤を処理できる能力」、などというトンチンカンな議論を展開しています(p.355~9)。

「ヘェ~」と口をアングリ、驚いてしまいます。

大和魂とはアングロサクソンの行動様式ですか、と反問したくなります。

因みにAIに訊いてみましょう(筆者の校正あり)。

大和魂とは、外国文化を取り入れるときに対となるべき日本人の常識的な対応能力、のことである。

大和魂とは、論理・倫理ではなく情緒・人情で物事を把握し共感する能力、のことである。

大和魂とは、日本民族固有の、勇敢で潔(いさぎよ)く、主君・天皇に忠義の精神性・心ばえ、のことである。

こちらの方がはるかに共感できます。

さらに「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂吉田松陰)」です。

大岡玲天皇の議論を避けるあまり日本語から遠ざかっています。

 

3、リベラリズム

挙げ句の果てに、大岡玲は「日本国憲法」の前文の文章を取り上げ、悪文の象徴として取り上げなながら、あれこれと「擁護」しています。

つまり大岡玲は、GHQ占領政策リベラリズムの擁護をしたいのです。

これは日本の共産主義者が占領軍を解放軍として歓迎したのと同じです。

米国独立宣言(1776年)を引用しながら(p.289~p.290)、その文章のワンセンテンスが、日本国憲法(第13条)にコピペされているのをなぜ指摘しないのでしょうか。

リベラリズムの基本精神についても同じです。

福沢諭吉の独立宣言の1866年の日本語訳があります(p.291)。

そのなかで諭吉は、「平等(equal)」を「同一徹」(過去の失敗を繰り返すこと。経過、道筋、やり方、結果が同じであること)と、「権利(right)」を「通義」(並び立つ。併存する)、と翻訳しました。

「自由(liberty)」は「自由」(自らに由る。解脱。仏教用語+わがまま)と翻訳しました。自由は「権力からの自由」というより、「なんでも好きようにやれる」という意味に理解されました。

つまり「平等」、「権利」、「自由」に相当する日本語はありませんでした。

なぜなかったのか。そんなことは皇室がある日本では問題にならなかったからです。

日本の人々は天皇にとって「大御宝(おおみたから)=国民の一人一人が大切な宝物」だったからです。

「山川草木悉皆成仏」。ものみな仏になるからです。

リベラリズム日本国憲法の精神とは、侵略と略奪と奴隷と女性蔑視のアングロサクソン独自の思想、であったということです。

羽仁五郎遠山茂樹マルクス主義歴史学をはるか昔に滅びています。

金田一春彦大岡信・玲のマルキストないしリベラリストいまだ現役とは驚きます。

 

4、桑田佳祐村上春樹

大岡玲の皇室軽視はぞの著『日本語はひとりでは生きていけない』の本質です。

しかしそこだけを論じていると、はじっこだけをほじくっているようで、気分が悪いので大岡玲の本論に触れます。

大岡玲桑田佳祐を、始めと終りで論じています。よほど桑田佳祐が気に入っているのでしょう。

桑田佳祐とは、紫綬褒章を受けながらそれもオークションにかけるというギャクで、顰蹙(ひんしゅく)をかった男です。

その態度は、皇室をバカにする金田一晴彦に共通します。

なぜそれが攻められるか、

皇室がなければ日本語特有の尊敬語、謙譲語、丁寧語は生まれず、日本文芸の中心には皇室があり、日本語は皇室と共にあったからです。

「御歌所の伝承は、詩が帝王によって主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかわりなく、民衆詩を『みやび』を以て統括するといふ、万葉集以来の文化的同体の存在の証明であり、独創は周辺に追ひやられ、月並は核心に輝いている。民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の文化伝統をただ『見る』だけではなく、創ることによって参加し、且つその文化的連続性から『見返』されるといふ栄光を与えらる。」(『文化防衛論』 三島由紀夫全集 第33巻 p.398 新潮社)。

皇室軽視で敬語を扱っていない大岡玲の『日本語はひとりでは生きていけない』は日本語論として大きな傷があります。

桑田佳祐に戻ります。

「平和の街」桑田佳祐作詞作曲

歌おう Shoo-Be-Doo-Wop!!/いつの日か/大好きな人に巡り合える Someday/平和の街で/共に生きよう

小さな幸せと平和を歌った「平和と民主主義・リベラリズム」の桑田佳祐に日本と日本語の未来を託すことができるでしょうか。

もうひとり、『日本語はひとりでは生きていけない』のエンディングに登場し、大岡玲が絶賛する小説家がいます。

村上春樹です。

大岡玲村上春樹の小説を読んで、面白いけど、「虚しい」と思わないでしょうか。

なぜ「虚しい」か。村上は才能豊かですが、思想「音痴」だからです。

騎士団長殺し』でとんでもないことを書いています。

ドイツのファッシズムと日本の「天皇制ファッシズム」を同列に扱い(筆者注:「天皇制ファッシズム」とはコミンテルン共産主義者の用語)、

そして東京裁判も、さらに南京大虐殺もなんの批判もなしに取り上げています。

村上春樹GHQの「平和と民主主義・リベラリズム」を商売道具にしています。

結論的にいえば、桑田佳祐ではなく宇多田ヒカルはどうなんだ、村上春樹でなく朝吹真理子はどうなんだ、とからみつきたくなります。

つまり大岡玲は趣味が悪い。

***

『日本語はひとりでは生きていけない』を読んだ動機は、日本語の歴史はハイブリッド(異種の混合、複合)の歴史であるということを扱っている、という書評をどこかで読んだからです。

筆者を右翼の国粋主義者と誤解する方もいらっしゃるかもしれませんが、海外出張を50回ほどしている筆者は排外主義者ではありません。

ジャズとロックンロールを研究し、赤ワインはカヴェルネ・ソーヴィ二オン、白ワインはリースリングが好きで、もちろんアイラもカナディアンのいただきます。

ただ、GNQに洗脳された「平和と民主主義・リベラリズム」では日本は滅びます。

なぜ日本の若者たちの死亡原因のナンバーワンが自殺なのでしょうか。

「日本語の歴史はハイブリッドの歴史」については半分ぐらい満足でき、いろいろなことを教えていだだきました。

この点については大岡玲に感謝します。それについては次回に論じます。

 

End