糸川を忘れない。日本のロケットの生みの親です。

クリエーティブ・ビジネス塾30「糸川英夫」(2013.8.15)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、はやぶさ
いまから3年前、2013年6月に小惑星探査機「はやぶさ」は、小惑星イトカワ」のサンプルを採取し、60億キロの旅を終え地球に帰ってくることに成功しました。世界初の快挙。地球重力圏外の天体表面に着陸して、初めてサンプルを持ち帰りました。
はやぶさが打ち上げられたのは、2003年5月、思えば長い旅でした。そしてこの快挙の陰に、日本ロケットの父と呼ばれる糸川英夫(1912~1999)の長い旅がありました。
映画『風たちぬ』で描かれているように、戦前日本の航空機技術は世界のトップにありました。そこにはスター技術者がいました。でもポツダム宣言により、戦後の航空機・宇宙開発(再軍備)は禁止されていました。米ソの大陸間弾道弾(ICBM)の開発競争を日本人は指をしゃぶって見ていました。昭和27年のサンフランシスコ講和条約の成立までは、航空機の開発を許されませんでした(部分解除、運行・製造の全面解除は昭和32年)。
そして、海軍の「零戦(ゼロセン)」の堀越二郎が旅客機「YS-11」の開発で、そして陸軍の戦闘機「隼(はやぶさ)」の糸川英夫がロケット開発で、帰ってきます。小惑星探査機の「はやぶさ」は、飛ぶ鳥のハヤブサからで直接「隼」と関係ありませんが、小惑星の「イトカワ」は糸川英夫からです。
2、ロケット開発の父
現在につながるロケットの歴史は、第2次世界大戦末期にドイツが開発した「V1」と「V2」から始まります。終戦後、米ソは競ってドイツの技術者を自国に連れて帰り、ICBMの開発をし宇宙技術に発展させていきます。その結果ソ連は1957年に世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、1961年にはボストーク1号でユーリイ・ガガーリンを宇宙に送り出すことに成功します。
東京タワーができたのが1958年、旅客機YS-11の飛行成功が1962年、東海道新幹線開通と東京オリンピックが1964年。日本は貧しく、人工衛星は夢の国の出来事でした。
糸川は多くの企業にロケット開発への協力を持ちかけますが断られます。そのなかで唯一、中島飛行機の流れをくむ富士精密工業(後のプリンス自動車工業日産自動車)が糸川の情熱に投資を決定します。
1955年にペンシルロケット(全長23cm、直径1.8cm)の発射試験。1958にカッパ6型ロケット(全長5.4m、直径0.25m)で初の高層大気観測に成功します。これは国際宇宙観測年の事業でした。
そしてこの成功が、1970年の日本初の人工衛星おおすみ」の打ち上げにつながり、現在の「はやぶさ」の快挙をもたらしています。
3、糸川英夫
糸川が子どもの頃、大正初期の照明は「ガス灯」。それがある日、「電灯」変わります。少年糸川は「この電灯はだれが考えだしたの?」父に訊きます。その答えが「トーマス・エジソン!」。もうひとり糸川にはヒーローがいました。それはケプラーの惑星に関する法則をたったひとつの力学の方程式で説明したアイザック・ニュートン。このふたりにあこがれ、糸川は科学少年に育っていきます。
つぎに糸川が偉大なのは、単なるアイディア屋、発明屋ではないことです。相手のことを考える。大きくいうとマーケィングやマネージメントを知っていたことです。糸川は、How are you?(お元気ですか。あなたは如何にあるか)は、こんにちはと違う、そこにはコミュニケーションがある。How are you?の精神を説きます。そしてMay I help you?(お役に立てますか。あなたのお役に立てますか)が対人関係の基本と説きます(『逆転の発想』p.26&p.116糸川英夫 角川文庫)。
そして糸川はいつも国家社会に奉仕することを考えていました。戦後になってまず最初に考えたのは、日本列島の海底に大量の石油を備蓄するタンクを作ることでした。そもそもロケットに取り組んだのは、ジェット機では米英ソと差がありすぎる、競争できない。ロケットなら国際競争で戦えると判断したからです。祖国と人類の未来を考える。これも糸川英夫から学べることです。
ロケットの打ち上げに人はなぜ感動するのでしょうか。それは、宇宙のどこからか流れ着いた、私たちの過去の記憶を刺激するからでしょうか。