TED TIMES 2020-50「蘇我赤兄」 8/26 編集長大沢達男
なぜ平安の「みやび」に憧れる、私の先祖に蘇我赤兄が見えてきました。
1、犬飼と大澤
私の名前は大澤達男です。戦争が終わるほぼ2年前の昭和18年8月5日に、東京・本所(現・墨田区)に生まれました。
結婚する前の母の姓は「犬飼」、母の父は犬飼平五郎といい、尾張の人です。明治の初期に東京に移り住み、東京の下町で乾物屋を経営するようになります。
母や叔母の話によれば、尾張にある犬飼の本家は、近所を見下ろすような大きな家で、床の間には立派な系図が飾ってあったそうです。
徳川家のお膝下ですから、生類憐みの令の将軍綱吉のころにはお犬さまということで、「犬飼」も大切にされたのかもしれません。
それよりも、物語『南総里見八犬伝』(滝沢馬琴)の登場人物に犬飼源八がいます。江戸時代の大ベストセラーです、誰もが「犬飼」という姓に馴染みがあったはずです。それもヒーローの名前として。
母の両親は、本所で乾物屋を営み、金貸しでした。町内のうわさ話が集まる情報センターで、小口消費者金融の金融センター、なんとなく「犬飼」は偉いんだ、明治40年生まれの母と同じように、私は母方の先祖を誇りに思っていました。
ところが大正生まれの母の妹は、尾張の立派な系図を小馬鹿にしていました。
<ずいぶん、お金をかけて調べたらしいけど、なんでも、最後(始まり)は水飲み百姓だったらしいよ>。叔母は、日本女性が初めて働きに出た、百貨店「松坂屋」のデパート・ガール(母はもちろん生涯主婦でしたが)で、モダンガールでした。権威や権力を嫌う、チャキチャキの下町娘は、クールでした。
とはいえ、犬飼という姓は全国にあるうち、なんと尾張が7割以上、尾張の犬飼はホンモノです。そして犬飼(犬養も同じと考えてよい)は、日本書紀にも登場する由緒ある苗字です。
母の先祖の話はともかく、父の先祖の話になると、私は黙っていました。
何しろ父の祖先の姓がはっきりしない。話にならない。父の姓は「大澤」です。ですが、祖父の大澤甚之助は、祖母の大澤シズのところに養子に来た。だからもとの姓はわからない。情けないんです。
どこの馬の骨かわからない。他人には言えない話です。
シズの実家は千葉県君津の豪農だったらしい。ところがシズと甚之助は結婚は許されずに、船に乗って家出、東京に逃げて来た、という。明治初期の話です。どんでもないこと、おびただしい。
甚之助の仕事は足袋職人、仕事と言えるような代物ではありません。やっぱり「馬の骨」。
ただ大男で色男、花相撲(素人相撲)のチャンピオンで人気者、それにシズが惚れて、入れ込んだらしい。今でいうなら、ロックバンドのボーカルにお金持ちのお嬢さまが、いかれちゃったようなものです。
許されるわけがありません。花相撲の相撲取りなんて、テキ屋かヤクザが、やることです。
私の父、シズと甚之助の子供、大澤巳代治は、明治37年生まれで、精工舎の時計職人でした。本所・緑町(現在の緑)に住み、錦糸町の精工舎の工場に、通っていました。本所は将棋の14世名人木村義雄を生んだところです。
父は将棋を指し、都々逸、小唄を愛し、落語が好きな、下町の粋人でした。五尺七寸(171センチ)、まあ「相撲取り」の息子ですから、明治男としては大柄でした。私は10歳で父を失っていますから、俳句と将棋の手ほどきを受けただけで、先祖の話を聞くことはありませんでした。
2、壬申の乱
電通はいまでは日本を代表するブラック企業になってしましましたが、日本のエリートが集まっていました。ある日、一人のカメラマンから、言われました。
<大沢の顔は、百姓とか労働者の顔じゃない。かといって武家でもない。公家とか・・・の方だな>。
たくさんのタレントだけでなく、政治家、財界人のポートレートを撮っているカメラマンの言葉だけに、単なる冗談ではなく、真実味がありました。
悪い気はしませんでした。実際に電通には、政治家、企業家、公家、学者の息子がたくさんいました。
でも私は、何のコネもなく、成績だけで入社した野良犬でした。父は苗字もわからない馬の骨の息子の時計職人、母は金貸しの乾物屋の娘。
でもカメラマンの言葉は、ズキンと、私の心に突き刺さりました。私の本質を当てていたからです。
学生時代にみんなが、マルクスを論じているときに、私は誰にも言えぬ心の秘密として、「保田与重郎・日本浪曼派」、日本の伝統の王朝にいかれていました。浪漫的反抗、滅びの美学です。
そして、私は生涯を通して、大伴家持、藤原定家、源氏物語の光源氏、伊勢物語の在原業平・・・好きもの、好きごと、色事、みやび(雅)に惹かれ続けるようになります。
「公家」の血はいつも私を呼んでいました。「みやび」とは「ひなび(田舎)」ではないこと。私は好きもの、私の血の中には、みやびがある。
祖父は千葉の君津から逃げてきた。どこの馬の骨かわからぬ。しかし、大澤の顔には、公家の血がある。
その謎に対して私は漠然と、房総の千葉には平家や源氏の落武者がたくさん流れ着いているから・・・と考えるようになりました。
20年ほど前一度、不思議な体験をしています。房総の君津・鹿野山(かのさん)でゴルフをしたことがあります。
仕事があったので前日に一人で、君津市に宿泊することにし、君津の由緒正しそうな飲み屋を探し、夕食を取りました。
「この辺りに、平家か源氏の落人が、流れ着いたという、伝説はありませんかね?」
何かが、私を呼んでいましたが、店主の答えはNo!
でも私はしつこかった、もう一軒、ハシゴして同じ質問をしました。答えは、・・・同じくNo!
私はひとりで恥ずかしがっていました。しかしそのときの、私の直感は正しかった!。私は先祖の霊と異常に接近していました。先祖の霊に呼ばれていました。
そして今年、喜寿を迎え、私と皇族・公家を結びつける衝撃の事実に、出会うことになります。
壬申の乱(じんしんのらん 672年)で天武天皇により都を追われた、天智天皇の子「大友皇子(おおとものみこ)=弘文天皇」は、上総国(千葉県)・君津に逃れてきて築城し、最後は戦死した、というものです。
もちろん皇子は、一人で逃げてきたわけではない。母と妃、左大臣・蘇我赤兄(そがあかえ)ほかの従者、女官たちと一緒。大友皇子は、君津市俵田(たわらだ)の白山神社に祀られている。
驚きました。俵田とは、鹿野山のゴルフ場のとなりでした。
私の直感は確信に変わりました。花相撲のチャンピオン、馬の骨の先祖は、大友皇子の一行に違いない。すきもの、みやび、私の血の中で騒いでいた正体は、これだ。
なぜここに来て、私は急速に先祖の謎に辿り着くことができたのか。
ひとつはインターネットです。地域と歴史のさまざまな情報を、即座に手に入れることができます。インターネットは歴史を近づけてくれます。
そしてもうひとつは、現代アーティスト・杉本博司のおかげです。
杉本は、木の葉の一粒の水滴が、せせらぎを生み、大河になり、海に注ぐ、を直感します。
歴史も同じ、私という一粒から家族、社会、民族の歴史を辿ることが可能である。
私は、この熱い執念・情念を杉本から学びました。
3、大友皇子
いきなり「壬申の乱」といわれても、なんのことかわかりません。馴染みのある飛鳥時代の聖徳太子(574~622)から話を始めます。
聖徳太子は推古天皇の時代に摂政として蘇我馬子とともに政治を行いました。17条の憲法、中央集権国家体制の確立、神道に加えて仏教、儒教を日本社会に取り入れました。
聖徳太子は用明天皇の第二皇子でしたが、皇位を目指さず、摂政として政治に当たりました。日本には古来より八百万の神の神道がありました。聖徳太子は蘇我氏ともに「崇仏派」として「廃仏派」の物部氏と対立し勝利します。
聖徳太子の次に大化改新(645)があります。皇極天皇の時代ですが、聖徳太子にならって、中臣鎌足(藤原)、中大兄(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)が実際には政治を行います。
聖徳太子の時代以来強くなりすぎた蘇我氏を撃退するために「乙巳の変(いっしのへん)」(645)が起き、蘇我入鹿が暗殺されます。
豪族政治は天皇政治に、天皇を中心にした律令国家が建設されます。「日本」、「天皇」という用語が使われるようになります。
そして壬申の乱(672)が起こります。
これは大化改新で中心人物であった中大兄(天智天皇)の息子大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)の皇位継承の争いです。日本書紀は大友皇子の即位を書いていません。明治になり「弘文天皇」(大友皇子)が歴史にその名を連ねています。
そして我が大友皇子が上総国・君津に逃れてくる伝説が生まれます。
これは単なる伝説ではありませんでした。
白山神社(祭神は菊理媛神=くくりひめと弘文天皇=大友皇子)、子守社(弘文天皇の乳母)、末吉神社(飯縄=いづな神社・蘇我赤兄)、拾弍所神社(弘文天皇の母)、十二所神社(弘文天皇の妃と12人の女官)、福王神社(弘文天皇の皇子福王)、筒森神社(弘文天皇と正妃・十市皇女)、内裏神社(弘文天皇の妃・耳面刀自=とめとじ)。
君津には飛鳥時代のさまざまな皇族が祀られている神社があります(『日本の神々ー神社と聖地ー第11巻』 谷川健一 白水社)。わけもなく、神社ができるわけがありません。伝説の一部は事実だったのです。
4、蘇我赤石
大澤の先祖は、大友皇子と言いたいところですが、本人も、その息子福王も死んだとなると、ちょっと無理です。それより大友皇子とともに壬申の乱を戦い、上総の君津まで落ち延びてきた蘇我赤石(そがのあかえ)とその取り巻きを祖先としてあげた方がよさそうです。
蘇我赤石は、弘文天皇の左大臣、朝廷の最高位にまで上りつめた、高級官僚です。蘇我馬子の三代下、蘇我入鹿の従兄弟です。
根拠が薄弱ですが、その証拠を説明します。
第1、祖父大澤甚之助は、「馬の骨」は、職人で、素人相撲を取っていました。農民でありません。職能民、芸能民です。大男ですが、細面、色白、美男子で、神仏に奉仕する人、天皇と直結している人々の中に身を置いていました(『日本中世に何が起きたか』網野善彦説を参照)。
第2、大澤の家では仏壇はありましたが、神棚はありませんでした。蘇我家の血です。父の大澤巳代治から伊勢神宮のお伊勢さま参りの話を聞いたことがありません。大澤は、「崇仏派」です。
第3、私の確信があります。私は「鳶色(とびいろ)の目」をしています。私はCMクリエーターで、時代の軽薄の最先端で生きてきました。だけれど、ジミヘンやジャニスのときも大友家持、デュシャンやウォーホールのときも藤原定家、ソフィア・コッポラやロウ・イエのときも源氏物語、ソーホーやブルックリンのときも伊勢物語・・・私はいつも軽薄の最先端にいながら、右手にロック左手に万葉集、いつもずっしりと重い古代の祖先の血に呼び戻されていました。
私の魂の中で叫んでいたのは、蘇我赤兄の血でした。
思えば不思議です。壬申の乱で大友皇子に味方した軍の中には、母方の先祖犬養五十君(いぬかいいくみ)も加わっていました。大澤も犬養も、私の先祖はともに壬申の乱を大伴皇子の側で戦っていました。
5、上総国・君津伝説
小説『大友の皇子東下り(おおとものみこあずまくだり)』(豊田有恒 講談社文庫)があります。
大友皇子が壬申の乱のときに、武者たちとともに上総に逃れる、という話です。豊田はさまざまな仮説を小説として展開しています。
○大友皇子はどこで没したか。・・・大海人皇子の追っ手に迫られた大友皇子は「(前略)吾は、陸奥へ参る。(中略)野心もない、さらばじゃ」と言い、小説の舞台から消えていきます(p.308)。小説で大友皇子は死んでいません。しかし、大友皇子は山前(やまさき)で自殺した、『日本書紀』の記述を疑義ありとしながら紹介しています。
<こうして大伴皇子は逃げ入る所もなくなった。そこで引返して山前に身をかくし、自ら首をくくって死んだ(『日本書紀 下』(p.256 宇治谷孟 講談社学術文庫)。
そして<大友皇子は、上総の国に逃れ、小櫃(おびつ)と俵田(たわらだ)のあいだに王国を築くが、天武の討伐軍によって壊滅し戦死した>という伝説も紹介しています(豊田 p.309)。
○中臣の金(なかとみのくがね)=中臣連金(なかとみのむらじかね)・・・上総国・君津伝説では大友皇子の逃亡に連れ添ったのは左大臣の蘇我赤兄です。末吉神社に祀られています。ところが豊田の小説では右大臣の中臣の金が同行してことになっています。小説では中臣の金は三浦半島で大友皇子と別れ別れになり上総にほ至っていません。なぜ蘇我赤兄ではなく、中臣の金にしたのか。作家の豊田はその理由を説明していません。
日本書紀に戻ります。<8月25日(中略)右大臣中臣連金を浅井郡の田根で斬った。この日、右大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等及びその子孫と中臣連金の子、蘇我臣果安の子はことごとく流罪にした>(『日本書紀』p.260)。
なぜ、上総国・君津伝説が生まれたか。蘇我赤兄の流罪先が明らかにされていない。つまり君津に流されたからです。大友皇子は無理としても、蘇我赤兄とその子孫は、生きて君津に住みました。そして伝説が生まれました。
○渡来人・・・小説には重要なプロットがあります。5人の百済からの渡来人の活躍です。大伴皇子の身代わりになって、追っ手を欺き、死んで行きます。
蘇我氏は、聖徳太子の時代に勢力を持つようになりますが、渡来人である説もあります。もし蘇我赤兄を登場人物に選ぶと、百済からの渡来人と重なり、小説として変化に乏しくなるから、豊田は中臣の金を選んだのでしょう。しかし実際には蘇我赤兄が、上総国・君津に流れ着いていました。
6、有馬皇子
小説家・豊田有恒が、蘇我赤兄ではなく中臣連金を、史実に逆らい、小説の脇役に選んだのは、蘇我赤兄に悪い噂があったからかもしれません。
しかし、蘇我赤兄を先祖として指名しようとしている、私としては黙っていられない、悪い噂をきっぱりと否定して、おかなければなりません。ややこしくなりますが、お付き合いください。
中大兄皇子が権勢を誇っていた斉明天皇4年に、孝徳天皇の息子有馬皇子が謀反の疑いで、捕らえられ殺害されます。
悪い噂は、蘇我赤兄の罠にはまって、有馬皇子が悲運の死を遂げたと、解説する説です。
<蘇我赤兄は孝徳天皇の息子、有馬皇子を孝徳天皇の死後、謀略にかけ、死に追い込んだ張本人として知られている。(中略)史料が伝えるその人となりは、やはり悪人としかいえない、ずる賢さが漂っている>(『悪役列伝』 歴史くらぶ rekishi-club.com)。
なにをもって、蘇我赤兄を悪人、ずる賢い、とするのかわかりません。そもそも「有間皇子の変」を蘇我赤兄が起こす動機が薄弱です。
<11月3日、留守をまもる役目の蘇我赤兄が、有間皇子に語って、「天皇の治世に三つの失政あります(後略)」。有間皇子は喜んで応答して、「わが生涯で始めて兵を用いるべき時がきたのだ」といった>(『日本書紀』p.203~4)。
日本書紀は、赤兄のアドバイスで有馬皇子が謀反を起こしたことを暗示します。
そして、有馬皇子は捕らえられ中大兄皇子に問われ<天と赤兄が知っているでしょう。私は全く分かりません>(p.204)と、裏づけます。
しかし、このあと日本書紀は、謀反にたいしてさまざまな異説を、紹介していますが、どれも噂話のようなものです。つまり赤兄犯人説も風説に過ぎない、と暗示しているようなものです。
それより問題にすべきは、この事件が起きたタイミングと、有間皇子その人の資質でしょう。
作家の井上靖は『額田王女』(新潮文庫)でそのことを問題にしています。まずタイミング。斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子、鎌足、要人全てが紀の国に旅行に行っているときに事件は起きています。
<有間皇子の変を起こすための紀の国への行幸であると受けとめられても仕方がなかった>(p.142)<この事件の中心に座っているのは中大兄皇子だった>(p.143)。この方が素直です。事実に近いと思われます。蘇我赤兄は左大臣です。ずる賢くありません。
そして、もう一つ有馬皇子、その人の人柄です。
<有馬皇子は性さとく狂者をよそおったところがあった>(『日本書紀』p.200)。井上靖は有馬皇子を狂った人としか扱っていません。<有馬皇子が狂った!>(p.118)、<ある人物(赤兄)が狂った皇子に・・・>(p.133)。
中大兄皇子(後の天智天皇)は有馬皇子に手を焼いていた、蘇我赤兄はその指令に従っただけです。でなければ壬申の乱で天智天皇の子大友皇子のために、大海人皇子(天武天皇)との戦い敗れ、流刑にされた蘇我赤兄の説明がつきません。蘇我赤兄は悪人ではありません。
歴史家は蘇我赤兄に偏見を持っています。そして冷たい。蘇我赤兄の流刑地を不明とし、上総国・君津伝説には触れようともしません。
7、額田王
蘇我赤兄のほかにもう一人大澤の先祖にあげたい人物が、上総国・君津伝説に登場します。大友皇子の妃、十市皇女(といちのひめみこ)です。これは浪漫、夢です。
十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王の間に生まれた、悲劇の皇女です。
第一に、母の額田王は、父の大海人皇子と付き合っていたのに、自分を産んだ後に父の兄、天智天皇と付き合うようになります。母は叔父で時の天皇の愛人になります。
第二に、十市皇女は政略結婚させられます。十市皇女は、天智天皇の息子である大友皇子と結婚します。しかし彼女には好きな人がいました。大海人皇子の息子・高市皇子(たけちのみこ)です。
第三は、最大の悲劇、なんと父(大海人皇子)と夫(大友皇子)が戦った「壬申の乱」です。
十市皇女は、千葉県大多喜町の筒森神社に祀れています。君津の地で難産(死産)の末に亡くなった伝説が残されています。額田王、万葉の天才歌人の血が残っていれば、わずかな望みは空しく、悲しい。
○あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめぬ)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る(巻一・二十)
<お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安でございます。>(『万葉秀歌』上 p.25 斎藤茂吉 岩波新書)
これはすでに天智天皇のものになっていた額田王が、「もと彼」、大海人皇子に対して歌ったものです。
○紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人嬬(ひとづま)ゆえにあれ恋めやも(巻一・二一)
<紫の色の美しく匂うように美しい妹(おまえ)が、若し憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する筈はないのではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである。>(p.27)
大海人皇子から、「もと彼女」、額田王への返歌です。率直、大胆、恐るべきおおらかな愛の表現ではないでしょうか。
額田にはまだまだあります。今度は「いま彼」、天智天皇への歌です。
○君待つと吾が恋ひ居れば吾が屋戸の簾(すだれ)うごかし秋の風吹く(巻四・四八八)
<あなたをお待申して、慕わしく居りますと、私の家の簾を動かして秋の風がおとずれてまいります。>(p.163)
二股愛、背徳、不倫。なんといわれようと、額田の愛に偽りはありません。
私が古代に憧れるのはこの歌心です。額田王との血縁も望むべくのありませんが、私の血にはこの歌心が流れています。
8、日本書紀
さて、蘇我「赤兄」とは、なんでしょう。なぜ、「赤」なのでしょうか。蘇我赤兄は「鳶色の目」をしていた、だから「赤兄」と名付けられたのではないでしょうか。「鳶色の目」をした私の血が騒ぎます。
『日本書紀』には、7世紀の日本が百済、新羅、高句麗、そして中国の唐と頻繁に交流していた記述が、たくさんあります。もちろん、船による文化交流、外交交渉、戦争ですから、現在とは比べ物になりませんが。
言うまでもなく、半島の人、大陸の人が当たり前のように、日本に移り住んでいます。蘇我氏が渡来人である説もあります。「鳶色の目」は、私の先祖を、半島へ大陸へと飛翔させます。
繰り返します。<8月25日(中略)右大臣中臣連金を浅井郡の田根で斬った。この日、右大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等及びその子孫と中臣連金の子、蘇我臣果安の子はことごとく流罪にした>(『日本書紀 下』(p.260 宇治谷孟 講談社学術文庫)。
流罪になった蘇我赤兄は上総国に流れ着き、上総国・君津伝説が生まれました。
壬申の乱672年、今年は2020年。1350年前の蘇我赤兄は、一世代の交代を50年とすれば、私の30世代前の先祖ということになります。赤兄の血が一世代で半分になると、私が受け継いだ赤兄の血は、2の30乗分の1、10億分の1、ということになります。
おおぼらふきを覚悟で言います。私には聞こえてきます。
大友皇子、蘇我赤兄、額田王、古代の人々の、「好きもの」「みやび」が、ますます大きな響きとなって私を呼んでいます。
科学ではありません。直感、情念です。
<民族の歴史の果てにたどり着いたこの地で(中略)、見失ってしまった遠い祖先の地を垣間見るために(中略)、過去への道をたたき、返ってくる響きをたよりに(中略)作品を作る>(『現な像』p.112 杉本博司 新潮社)。
私は、耳を澄まして、コツコツを遠い過去への道をたたき、返ってくる響きを聴き、自分を知ることに、挑戦します。
END