父母は、震災、戦災を生き延びました。感謝以外にありません。

THE TED TIMES 2023-10「東京大空襲」 3/10 編集長 大沢達男

 

父母は、震災、戦災を生き延びました。感謝以外にありません。

 

1、母

地震だ、地震だ。火事だ、火事だ。被服廠だ。被服廠へ逃げろ。ていうんでね。みんな大八車に家財道具を積んで、被服廠へ逃げたんだよ」

「ところが、風向きが悪かったね。炎は被服廠へ。みんな焼かれちゃったよ」

「ところで、お母さんはどっちに逃げたの?」

「ワタシ? 私は父親が病弱くて、船橋の別荘にいたたんだよ。そこに付き添いで。・・・だけど揺れたよ・・・」

母は運が良かった。しかし母は妹を関東大震災で失っています。

次は戦災の時の、東京大空襲の時の母の話です。

「B29は、空高くやってくるんだよ。高射砲なんて届きやしないよ。たんなる花火だよ。飛行機だってとてもB29のところへは行けない。

遥かに低いところを飛ぶ、ブーンブーンのカトンボだよ」

焼夷弾は怖かったよ。東京中に油を撒いて、火をつけるようなもんだ。下町はみんな焼けちゃったよ」

「で、お母さんは、大空襲のとき、どこにいて助かったの?」

「お前だよ。1歳半の乳飲み子がワタシの背中にいたよ。諏訪に疎開していたんだよ」

「中央線は怖かったよ。B29は富士山を目指して日本にくる、そして中央線を東京に向かうんだよ。だから年がら年中、空襲警報。おまえと死なば諸共だったよ」

母は運が強かった。しかし母は東京大空襲で、弟夫妻を失っています。

 

2、姉

私より12歳年上の姉は、東京大空襲3月9日のあの夜。川に飛び込み助かっています。隅田川と平行に流れていた大横川です。

姉は、昨年90歳で亡くなっています。

しかし生前、3月9日の夜のことを、一切話しませんでした。聞いたことがありません。

よほど怖いことがあったのでしょうか。思い出すだけでも嫌だったのでしょうか。

姉の生還には秘密があります。川に飛び込んだとき祖母が一緒でした。

13歳の少女が一人で修羅場で生き延びることができるわけがありません。そして13歳の少女の知恵であの夜のことに話さなくなるわけがありません。

ここからは小説的な私の想像力の世界です。

祖母は姉に言ったに違いありません。

「昌子ちゃん(姉の名です)!あの夜にあったことは、だれにも話してはいけないよ。約束してくれるね」

そして姉の昌子は、3月9日の夜のことは話さなくなったのです。

口を破らなくなったのです。

 

3、祖母

祖母の「大澤しづ」は変わった人でした。庄屋の娘で千葉県君津の人です。

花相撲の横綱、6尺に近い大男の美男子に惚れ込み、二人で木更津から船で東京に夜逃げしてきた人です。

大男の美男子の素性は不明、足袋職人、名字もわからない、祖母の姓を名乗った「大澤甚之助」です。

ここからは網野善彦の新しい日本史の見方の力を借ります。

網野はこれまでの、日本史は武士や農民に偏りすぎている、芸人・職人に光をあてることに日本の真実は見えてくる、というものです。

私は大澤甚之助の霊に絶えず呼ばれていました。そして結論にたどり着くことができした。

672年壬申の乱で、敗れた大友皇子一行(のちの弘文天皇です)が、千葉に逃げ延びてきました。

一行には左大臣蘇我赤兄額田王の娘である十市皇女がいました。その遺跡と史跡が君津郡にありました。

私を絶えず呼んでいたのは、大友皇子一行の霊でした。大男の美男子・大澤甚之助は、蘇我赤兄の末裔だったのです。

以前皆さまと訪れた秦野の「大友皇子の墓」のことを思い出します。墓前に座った私はありがたさに満たされ動けなくなってしまったのですから。

***

東京大空襲では、私の家族は米国に爆撃され。祖父の先祖を辿ってみたら皇統を争いで天武天皇に負けたという事実の遭遇してました。

今度は負けないぞと私は思いません。

政治の専門家の皆さんの前で大変申し訳ありませんが、

藤原定家のように「紅旗征戎我が事にあらず」、

戦争や政治にかかわらず、風流に生きたい、が私の願いです。

写真集をお持ちしました。

昭和18年秋、玄関先で母に抱かれている私、昭和19年春、武者人形の前の私、そして「大澤用水」を背にした裸に私がいます。

そして成人してからの私です。兄弟でただ一人ウエーブのかかった髪、そして鳶色の瞳、蘇我赤兄の子孫である大澤達男がいます。