THE TED TIMES 2024-16「オッペンハイマー」 4/19 編集長 大沢達男
映画『オッペンハイマー』が、日本人の私たちに提起した、3つの問題。
1、非公開
映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督 ユニバーサル映画) は、日本では公開される予定がなかった、映画です。
アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞、撮影賞など主要7部門で受賞を果たした話題作であった、にも拘らずです。
米国での公開は昨年(2023年)7月21日、日本での公開は今年(2024年)の3月29日、なんと8ヶ月遅れ、まあ公開されたからよかったようなものの・・・。
なぜ当時、日本公開の予定がなかったのか。昨年の8月にニューヨークで『オッペンハイマー』を観た評論家の東浩紀が、その理由を書いています。
1)「『広島・長崎を描いていない』『被爆者の視点がない』といった批判があり、それに配給会社が忖度した・・・」(「問題作『オッペンハイマー』を観て来た」 p.173 東浩紀 『文藝春秋』 2023.10)。
2)「SNSでの『バーベンハイマー騒動』がとても悪い印象を与えていた」(p.175)。
「バーベンハイマー」とは、同時公開のコメディ映画『バービー』と組み合わせた造語です。バービーとキノコ雲を組み合わせたファンアートが拡散し、日本人の反感を買っていました。
3)そして東浩紀は、SNSでの炎上を恐れ『オッペンハイマー』の未公開とするようなら、日本は世界から取り残される、と警告をしています。
結局、『オッペンハイマー』は、東宝東和ではなく「ビターズエンド」の配給で、日本でも上映されるようになりました。
私は、台湾に観に行こう、と計画を立てようとしていたぐらいですから、よかった!よかった!です。
2、原子力発電
3時間しかもアイマックスの超大作ですが、映画の構造は簡単です。
1)優れた物理学者であったオッペンハイマーが原子爆弾開発「マンハッタン計画」のリーダーとなる。
2)1945年7月の「トリニティ実験」で、机上の理論でしかなかった原子爆弾の爆発実験に成功する。同時に2発の原爆が生産され、トルーマン大統領に決断により、1945年8月に広島・長崎に投下される。
3)戦争が終わりオッペンハイマーは原爆開発を後悔するようになる。そして水爆開発への参加を拒否し、やがて共産主義の共鳴者の疑いをかけられ、追放される。
映画は完璧な出来栄えです。
私がとくに好きなのは音楽の使い方、効果音の使い方です。
原爆爆発実験のシーンの恐怖感も十分に味わえます。
ただひとつ気になることがあります。
私たち日本人は軍事利用として原子爆弾ではなく、平和利用と原子力発電の可能性を教育されてきました。
ですから、オッペンハイマーがなぜ、そちらに向けて思考を転換しなかったのか、映画を観ていたときから疑問になっていました。
調べてみれば、1942年にエンリコ・フェルミが実験炉で核分裂に成功しています。
そしてフェルミの弟子であるベヴィット・L・ヒルも「マンハッタン計画」に参加し映画に登場しています。
オッペンハイマーが原子力発電をどう考えていたか一言欲しかったところです。
・・・エッ?キミは原発賛成なの?・・・
当たり前です。原発容認です。
原発反対は正義です。しかしそれは生活破壊の正義です。
余談ですが、似たような話があります。
1970年代に東京都知事美濃部亮吉が、高速道路は環境破壊をする、とその建設に反対しました。
結果は首都高2号線と3号線のいびつな状態が、いまでも続き渋滞と公害の元となり、成田空港へのアクセスにも大きな影響を与え、日本は世界から大きく遅れました。
もう一人、リニア新幹線反対、環境を守れの静岡県知事川勝平太がいます。
環境破壊は正義ですが、生活破壊の正義です。リニアは資源がない日本の科学技術が誇る世界への目玉商品です。これでまた日本は世界から遅れます。
さてこれからが本論です。正直言いまして私は『オッペンハイマー』という素晴らしい映画を観ていて、吐き気を感じていました。
映画の中で、トルーマン大統領をオッペンハイマーが訪れ、「自分は原爆開発を後悔している」と告白するシーンがあります。
すると大統領はオッペンハイマーが帰ったあと「二度とあの泣き虫野郎をここに入れるな」と怒るシーンがあります。
このトルーマン大統領こそが、米国の人権、自由、平等のリベラリズムの正体です。
「日本人は原爆投下を大量虐殺だと思っているけれど、アメリカの国民の大半はそう考えていない」(p.176)。
東浩紀は「バーベンハイマー事件」の真相を見破りました。
英国のリベラリズムは、インドと中国で大量虐殺を、米国のリベラリズムは、インディアンと黒人の大量虐殺をしてきました。
そして米国のリベラリズムは、広島・長崎への原爆投下(そして東京大空襲)をし日本人の大量虐殺を、やったということです。
映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン)と原作『オッペンハイマー』(カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン ハヤカワ・ノンフィクション文庫)は、人類と平和を問題にしていて、日本への原爆投下は科学の問題ではなく軍事と政治の問題である、と逃げています。
なぜ日本なのかの問題は全く問われていません。
映画にはありませんが原作に、「長崎被曝の翌日に日本政府はただ一つ、天皇制護持を条件として降伏受諾の申し入れをした」(『オッペンハイマー 中』 p.269 ハヤカワ・ノンフクション文庫)、という記述があります。
嘘っパチです。事実は逆です。
戦後マッカーサーは、「私は戦争のすべての責任を背負うべき唯一の人間だ」と自らの首を差し出した天皇に、「日本で最高の紳士だ」と感激しています。
日本は「ポツダム宣言」を受諾し終戦したのであって、天皇制護持(「天皇制」はマルクス主義の用語)を条件に降伏したのではありません。
21世紀の今に、なぜこんな嘘の記述が通用するのでしょうか。なぜピューリッツァー賞を受賞するのでしょうか。
米国人と『オッペンハイマー』の作者たちは、彼らが虐殺したインディアンの酋長(Chief)のように、天皇を考えていた(いる)に違いありません(それはそれで光栄ですが・・・)。
米国の人権、自由、平等のリベラリズムが、日本へ原爆を投下しました。そして日本人は、米国リベラリズムによる日本国憲法と戦後政策を、いまだにありがたがっています。
「理性主義のリベラルの本質は、自らが説く絶対なるものは理性に照らして明らかである」と考え、「そもそも敵の存在を認めることができない。彼らにとっては、間違ったことを教えられ、間違った判断をしている者たちがいるにすぎない」とするところにあります(『産業人の未来』 p.188~91 ドラッカー ダイアモンド社)。
人権、自由、平等のリベラリズムの観点からは、万世一系の天皇と「天照大神」を祀る神社に手を合わせる日本人は間違っている、ということになります。
映画を見ていて気持ち悪くなったのは、この「リベラリズム帝国主義」に気がついたからです。