ニコン神話の復活

コンテンツ・ビジネス塾「ニコン」(2007-24)6/19塾長・大沢達男
1)1週間分の日経、ビジネスアイとFTが、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)あすの仕事につながるヒントがあります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

ニコン神話
デジタル一眼レフカメラ市場で、ニコンがキャノンを抜いて、約50%のトップシェアを維持しています。理由は2つあります。まずは木村拓哉さんが出演している中級機D80の売れ行きが好調なこと、つぎは初級機D40が女性や高校生に爆発的に売れているからです。
ニコンと言えばプロや上級のカメラファンのブランドでした。それがここにきて急速に顧客層を広げているのです。ニコンを手にした若者たちはきっと、いいカメラを買ったね、とメカ好きの恋人や両親にほめられているはずです。
ニコン神話の原点は、1950年からの「朝鮮戦争」にあります。当時カメラと言えば、「ライカ」と「コンタックス」、ドイツのカメラでした。それが従軍カメラマンの戦場リポートにより逆転するのです。
「『ライフ』のカメラマンが朝鮮戦争で使用した日本製のカメラとレンズは、従来彼らが使用していたドイツ製より優秀であることが立証された(中略)。そのカメラの名はNikonである」
50年12月のニューヨーク・タイムズがこう報じ、「ニコン」は世界のブランドになったのです(日経 6/10 「私の履歴書ニコン相談役 吉田庄一郎)。
このニコン神話はさらに、戦場での「ニコン伝説」に裏付けられています。ニコンのレンズは、世界最強の戦艦「大和」の戦闘能力の中枢にあったのです。最大射程距離42kmの主砲は、ニコンの距離計(測距儀)で、命中するように設計されていたのです。当時のニコンは、「日本光学工業」という名の国策会社、軍用の望遠鏡、高射指揮装置などを作っていたのです(「絶対ニコン主義」マニュアルカメラ編集部 )。
ニコンのモノづくり
軍需産業日本光学工業が平和産業のニコンとなってカメラを作り始めたのは戦後です(正式に社名がニコンになったのは1988年)。テーマは、ドイツの追撃。1948年「ニコンカメラ」発売、1950年ニューヨーク・タイムズの評判、1959年一眼レフカメラNikon F」発売。そして60年代に日本のカメラは、カメラ王国のドイツに生産台数・輸出台数で追いつき、追い越すようになります。戦後わずか20年で日本カメラは世界ナンバーワンになり、ニコンは世界のブランドに育っていくのです。
なぜニコンは強いのか。ニコンの技術開発で活躍し、ニコンの社長を務めた吉田庄一郎氏(現相談役)のエピソードが、その謎を解き明かしてくれます。
吉田氏が入社したのは、1956年。新人の吉田氏はいきなり天体望遠鏡の設計図を描けと命令されます。そして実際に受注し、4年がかりの初仕事の36インチ反射型天体望遠鏡を完成させています(前掲日経 6/11~6/12)。しかし、と吉田氏は反省します。欧米に追いつき、追い越せでやってきたのはいいけれど、日本の技術は砂上の楼閣、モノづくりの基礎となる機械は外国に依存している。「マザーマシン」、つまり機械をつくる機械をつくらなければだめだ、と考えたのです。そしてそれを、実際に吉田氏はやってのけるのです。1ミリ当たりに1000~1500本の溝を平行に刻んでいく、「ルーリング・エンジン」(超精密刻線機)がそれです。入社10年にも満たない64年に、吉田氏は「幻のマシン」を完成させています(前掲日経6/14)。20代の若手社員のエピソードはうらやましい限りです。
○デジタルの未来。
先日東京の大手町で開かれた「デジタル一眼レフカメラ口座」(ビジネスアイ主催・協力キャノン)に参加しました。20人ほどの参加者全員に、デジタル一眼レフカメラが貸与され、ロケもモデル撮影もある本格的なカメラ教室でした(ちなみにキャノンは一眼レフでニコンに負けていますが、コンパクトデジカメでは約20%でトップシェア)。改めてデジタルカメラの機能に感動しました。フィルム感度は自由、色補正・白黒写真もOK、人物や花の撮影モード、動きの速いものもうまくとれる、気に入らないカットは消去できる・・・つまり、デジタル一眼レフカメラ吉野家と同じ、早い、うまい、安い。
しかし、カメラがよくなったから、いい写真が撮れるわけではありません。
最後に天才アラーキーから学んだことを。彼女のいいところを見つけてほめる。人を遠くから望遠で撮るのは卑怯。グイッと、一歩踏み込んで撮るのです。