コンテンツ・ビジネス塾「石原慎太郎」(2009-35) 10/6 塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)あすの仕事につながるヒントがあります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、なぜ、東京は負けたのか。
1)南米大陸での初の五輪。この強いメッセージに負けた。2)環境五輪は伝わらなかった。3)東京五輪への国民支持率が55.5%と低かった。そして、4)いいプレゼンテーションをしても勝てない、「IOCの力学」について勉強しなければならない、と石原慎太郎都知事は、分析を付け加えました。
なぜ、リオが勝てたのか。1)リオは前回、候補都市から落選し、早くからロゲ会長を訪問し指導を仰いだ。2)カルロス・ヌズマン招致委員会会長は、人情とユーモアでIOC委員の人気を集めた。
3)ルラ大統領は、オバマ大統領、鳩山首相と違い、数年前から招致活動の先頭にいた。
106人のIOC委員の投票結果を見ると、「IOCの力学」が想像できます。リオの票は、投票回数とともに26→46→66と増え、対してマドリードの票は、28→29→32と変わりません。これは何を意味するか。マドリードの票は前IOC会長のサマランチ(スペイン)への義理。リオの票は、現IOC会長ジャック・ロゲ(ベルギー)への忠誠です。
2、石原慎太郎。
敗れはしましたがIOC総会で石原慎太郎は、日本人離れしたスピーチをしました。英語、アイコンタクト、ボディランゲージで、国境を超えた、新しい日本人のお手本になりました。かっこよかっただけではありません。「帰りの飛行機で、乗客にご苦労さんと握手を求められ、泣きましたよ」。日本人の同胞の絆を感じる慎太郎は、情の人でもありました。
1)慎太郎は、石原裕次郎の兄です。裕次郎とは「昭和の太陽」です。昭和を代表する映画俳優(昭和9年~昭和62年)です。今年(2009年)7月に国立競技場で23回忌の法要が行われ、120人の僧侶の読経に11万人の会葬者が集まりました。
2)慎太郎は、小説『太陽の季節』で、24歳のときに芥川賞を受賞します。ヘアスタイルの「慎太郎刈り」、ライフスタイル「太陽族」は、戦後社会の新しい社会風俗となります。
3)慎太郎は、さまざまなジャンルでミリオンセラーのヒット作を生み出しています。『太陽の季節』(昭和31年)、『青春とは何か』(昭和40年)、『スパルタ教育』(昭和44年)、『「NO」と言える日本』(昭和64年、盛田昭夫との共著)、『弟』(平成8年)。これらは違うジャンルだけでなく、時期を隔てて出版されています。時代を先取りする天才です(『石原慎太郎の季節』福田和也 飛鳥新社)。
4)慎太郎は、昭和43年に参議院議員選挙全国区で300万票を獲得し当選しています。(当時の)民社党全体の得票数258万票、共産党全体を215万票を上回る驚異的な数字でした。
5)慎太郎は、ヨットマンです。香港ーマニラ間国際ヨットレース、ハワイーロサンゼルス間太平洋横断レースなどのレースに参加しています。
6)慎太郎は、現在でも文学賞の最高峰・芥川賞の選考委員です。選考委員会ではいつも衝撃的な発言を繰り返す、現役の小説家です。
3、父。
慎太郎は19歳のときに、父を51歳で失っています。父が死んで10年後、慎太郎が30歳になったばかりの頃のことです。外車のスポーツカー(トライアンフTR-3)で銀座に飲みに出掛け、自宅の逗子まで帰るときに、追い抜いても追い抜いても、ついてくるタクシーがありました。道路工事の渋滞で横に並んだとき、運転手が話しかけてきました。
「いやあ、あんたは運転がうまいねえ。私もこの商売は長いが、今まであんたみたいに運転のうまい人はみたことがないなあ」。そのとき、慎太郎は気がついた、と回想しています。
「ああ、あれは親父だったんだな。親父がみかねて、あんな格好してやってきたんだ」
下らぬ事に夢中になっている自分に、目を覚ましたのです。慎太郎は、10年前の父の冷たくなった頬の感触を覚えていて、父と自分とのつながりは絶対にこれで終わったわけではない、と確信していました(『法華経を生きる』石原慎太郎 幻冬社)。慎太郎は、亡き父を敬う、信仰の人でした。
オリンピックの夢は実現しませんでしたが私たちは、石原慎太郎というリーダー、論理と情、行動と信仰の人を知ったことを、今回の収穫にします。