『原爆の子』は奇跡の書です。

コンテンツ・ビジネス塾「原爆の子」(2010-29) 8/6塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、奇跡の書
『原爆の子』(長田新編 岩波文庫)は、奇跡の書、広島に投下された原子爆弾の被害を体験した少年少女たちの手記です。ここには意見や主張ではなく、動かしがたい事実があります。
1)原爆はピカッと目がくらむような光を放った後、ドーンという大音響とともに爆風と灼熱により、広島市を一瞬にして焦土にしました。広島市の全人口35万、そのうちの14万人が亡くなりました(広島市の公表データ。『原爆の子』では、市民43万、死者24万7千人)。
2)人間は爆風で飛ばされ黒こげ、生きている者の衣服は熱と風で飛ばされ、さらに皮膚がはがされたあかむけ状態、その体にはウジ虫がわき、やがて息絶えていきました。
3)外傷のない者も放射線により、ある日突然頭髪が抜け、下痢をおこし、皮膚に暗紫色の斑点があらわれ、血を吐いて死んでいきました。
4)放射線を受けた遺伝子は突然変異を起こします。それは被爆者だけではなく、被爆者2世、被爆者3世にわたり肉体的変化をもたらすものです。
『原爆の子』を読むのはつらい。何度も涙で読書を中断させられ、空を仰ぎ見なくてはなりません。
2、長田新(おさだあらた 1887~1961)
なぜ『原爆の子』(最新刊ロシア語版を含む13言語で出版)は、奇跡の書なのでしょうか。
1)手記が書かれたのは被爆から6年後、当時4歳から中学生の体験が語られています。自分の身に起こったことを客観視でき、しかも体験が風化していない、絶妙のタイミングで書かれています。
2)当時はGHQによる、検閲と言論統制がありました。それをくぐり抜けています。原爆投下は重大な戦争犯罪です。しかし平和教育という趣旨のもとに、米国批判には配慮されています。
3)そして、これがいちばん大きいのですが、この歴史的な偉業の仕掛人長田新であったことです。まず長田は奇跡的に生還した被爆者でした。つぎに広島大学学長(広島文理科大学)であり、日本教育学会会長でした。さらに長田は平和憲法教育基本法に共感していました。そして長田は、スイスの教育学者ペスタロッチー研究の世界的権威でした。昭和16年にはスイス国政府からペスタロッチー賞を受賞されています。平和の国「スイス」それは、マッカーサーによって指し示された、日本が目指すべきお手本の国でした。
集められた手記は1175編、その中から105編が選ばれました。何があったのか、何が起こったのか、原爆被害の事実を伝える、原爆体験の手記が編集され出版されました。それは被爆者、日本教育界のオーソリティー、永久平和のスイスからの表彰者、長田新だけがなし得た奇跡でした。
3、予言の書
『原爆の子』では私たちの周辺から姿を消した、なつかしい日本人に出会えます。私たちは終戦以後の歴史で大きなものを失うようになる、そのことを予言しています。
1)敬語・・・「ぼくは5歳のとき、原子ばくだんにあいました。原子ばくだんのとき、おとうさんは、やくしょにいっておられました。そのとき、どくをすわれたものですから、いなかにこられたときは、もう、からだに、はんてんをいっぱいこさえて、死なれました」(『原爆の子』上 P138)
2)母親・・・「自分の身がどんなになっていても、『母性愛』故に我が家に駆け戻り、とうてい人間業ではできないほどの事をして、母は、はかなくもこの世を去ったのである」(下 P.198)
3)父親・・・「俊ちゃん、お母さんもお兄さんも死んだんだよ。いまからお父さんが、お前といっしょに生活していくんだよ。わかったか」(上 P.209)
4)献身・・・「『兵隊さん』『兵隊さん、お水』と繰り返している。その兵隊さん自身は、頭や手に繃帯を巻いておられるのだ。これほど自己を顧みない献身的な美しい行為があろうか」(下 P.194)
『原爆の子』は、広島が失ったものだけでなく、皮肉にも、戦後の私たちが失ったものをも教えてくれます。「敬語」を使えず、「母親」と「父親」と「献身」を知らない私たちは、「孝」と「慈」と「仁」と「忠」を失いました。65年前の8月6日を勇敢に生きのびた戦前教育の『原爆の子』は、「ノーモア・ヒロシマ」だけでなく、戦後の教育に「ノー」、現在の私たちに「ノー」を、突きつけています。