コンテンツ・ビジネス塾「ドラッカーその4」(2010-34) 9/15塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、ウイーン
P.F.ドラッカーは1909年にウィーンに生まれています。ウィーンは現在オーストリアの首都ですが、当時は数百年にわたりヨーロッパに君臨したハプスブルグ家が支配し、オーストリア・ハンガリー帝国の首都で、まぎれもなく西欧社会の中心のひとつでした。
そこでドラッカーは、少年時代をスタートします。親しくしていた祖母は、ピアニスト。でもその先生は作曲家ロベルト・シューマンの妻、あのクララ・シューマンでした。政府高官だった父と大学で医学を学んだ母は、週に数回のホームパーティーを開いていました。常連客のなかに著名な経済学者ヨーゼフ・シュンペーターやフリードリッヒ・フォン・ハイエクがいました。さらに、皇帝より偉い人として、精神分析の父ジーグムント・フロイトをレストランで紹介され、握手をしています。ノーベル賞作家トーマス・マンにもサロンで会っています。経済人類学者カール・ポラニーとは家族ぐるみの付き合いをしています。また20代の中頃には、ケンブリッジ大学で20世紀を代表する経済学者ジョン・メイナード・ケインズの講義を聴いています。「経済学者は商品の動きにばかりに注目している」、「私は人間や社会に関心を持っている」(『知の巨人ドラッカー自伝』ピーター・F・ドラッカー 日経ビジネス文庫 P.91)と自らの道を決めています。そして、ドラッカーの処女作『経済人の終わり』(1939年)が、ウィンストン・チャーチル(その後首相に)に認められ、英米でベストセラーとなり、一流の文筆家としてデビューするようになります。
2、弁証法
「歴史的考察が十分にできていること。論理に飛躍がないこと。将来に対する具体性があること。これが時代を超えて人々に示唆を与え続ける所以であろう」(堺屋太一『断絶の時代』の帯広告より)
第一に、ドラッカーの言葉は、レベルが違います。国際的な家庭環境で育ちました。ドイツ語、英語、フランス語を小さい頃から話しました。4歳から本の虫。10代の後半を過ごしたハンブルグでは図書館に通い、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語の本を手当り次第に読み、本物の「大学教育」受けたと回顧しています(前掲P.60)。インプットとしての読書がなければ、アウトプットとしての文章はありません。ドラッカーのインプットは半端ではありません。
第二に、ドラッカーの経験は、国境を超えて豊富です。ドラッカーはドイツで投資銀行の証券アナリストのあと、すぐに新聞記者に転身し、そのキャリアをスタートさせます。図書館と机の上の人間ではありませんでした。ナチスのドイツから追われるようにして米国にわたりワシントン・ポストの記者をこなし、大学でも教えるようになります。そして世界一の自動車メーカー、ゼネラル・モータース(GM)のコンサルティング作業を始めます。その調査は18ヶ月に及ぶ長期のもの、その結果が本も論文もなかった経営(マネジメント)の体系的な構築につながっていきます。シアーズ、IBM、ソニー・・・。ドラッカーは現実的、具体的、実証的です。
第三に、ドラッカーの文章は、論理的で、無駄がありません。1)手書きで全体像を書く。2)考えをテープに録音する。3)アシスタントに用紙に打ち出してもらう。4)それをもとに初稿を書く。5)初稿、第2稿を捨て、第3稿で完成。これがドラッカーの方法です。ここで注目すべきことがあります。結論は初めの構想とは必ず違ったものになることです。書くことでドラッカーの思考はジャンプしています。
「弁証法的唯物論」を知っていますか。「弁証法的唯物論」を繰り返すマルクス主義者は、その認識論とは裏腹に、書斎で機械的観念的な思弁を繰り返すだけですが、反マルクス主義者ドラッカーは、皮肉にも「弁証法的唯物論」を実践しています。まず「マネジメント」を社会的に歴史的にとらえ、そして「マネジメント」を現実の中での対立として考え、さらに対立を乗り越えて「マネジメント」で何が可能かを提案します。一貫する方法論は、実務から理論を組み立て、理論を実務で検証するものです。ドラッカーは弁証法的唯物論などとひと言も言いませんが、豊富な読書量と実務経験は、ドラッカー流弁証法という新しい認識論を打ち立てています。
3、マネジメント
マネジメントとは厄介な言葉です。「経営」や「管理」でいいのですが、十分な訳ではありません。英語の”management”自体が、フランス語やドイツ語に翻訳しにくいのです。
しかしドラッカーは、「マネジメントを発明した男」と、言われています。マネジメントを体系化したからです。世界的な有名なコンサルティング会社マッキンゼーを「経営コンサルタント」と命名したのはドラッカーです。
ドラッカーは1959年にはじめて来日しています。たちまち、盛田昭夫(ソニー)、立石一真(オムロン)、小林宏治(NEC)と親しくなります。ドラッカーは日本研究をすすめ、明治の福沢諭吉、渋沢栄一を評価し、日本経営を賞賛します。
「あなたの仕事は?」この問いに欧米人は「会計士!」、日本人は「トヨタ自動車!」つまり日本人にとって組織は家族、ここに日本の最大の強さがある、とドラッカーは指摘します(前掲P.180)。
ドラッカーがハーバード大学からの招聘を4度も断った有名な話があります。理由は月に3日を超えてコンサルタントの仕事をしてはいけない、というハーバード大学の規定でした。それに対してドラッカーは、マネジメントには実務経験が欠かせないと、主張しました(前掲P.163)。どうですか。ここにマネジメントの本質があると思えませんか。