ウタマロといえば、蔦屋です。

コンテンツ・ビジネス塾「蔦屋」(2010-46) 12/7塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、歌麿
世界的に有名な「ウタマロ」とは、江戸時代の浮世絵師喜多川歌麿(1753~1806)のことです。西洋人の男たちにとって「ウタマロ」は、浮世絵春画であり、さらにはフウゾク(風俗)を意味する言葉になります。歌麿の仕事は春画だけではありませんが、歌麿の絵を出版した蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は吉原出身、色街・吉原で出版業を営んでいました。ですからウタマロ→春画→風俗という連想は、あながち間違っているとはいえません。
現在、六本木ミッドタウンのサントリー美術館で、『歌麿写楽仕掛人 その名は蔦屋重三郎』(11/3~12/19,2010)が開かれています。そこでの作品を軸に歌麿と蔦屋の秘密に迫まります。
1)美人大首絵(おおくびえ)・・・歌麿を代表する表現。まずそれまで流行の群像の美人全身図をあきらめました。顔のアップ。そしてその顔は理想美になるようにデフォルメされています。眉毛と目の間隔が極端に空き、唇は少女より小さく、顔はすべて斜めから描かれています。さらに女たちは恋をして、美しく萌えています。『婦人相学十躰 浮気之相』(前掲美術展の展示カタログp.166 )の女は風呂上がりなのでしょうか、髪をアップにしクシで留め、浴衣から左おっぱいをチラリとみせて、流し目で振り返っています。タイトル通り女は浮気そう、ぼくにもきみにも心を開いてくれそうです。
2)美人風俗画・・・大首絵の手法に到達する以前の歌麿は、吉原の遊女を全身図で描いています。
『青楼十二時 続 子ノ刻〜亥ノ刻』(せいろうじゅうにどき)は、遊女の一日を2時間ごとに12図に分けて描いたものです。たとえば子ノ刻(午前零時)では、遊女は晴れ着から普段着に着替えています。たとえば亥ノ刻(午後10時)では、お座敷でのシーン。遊女が酒に満たされた杯を客に向かって差し出しています(前掲書p.75)。ぼくもきみも居ながらにして吉原遊びを満腹できます。 
3)浮世絵春画
歌麿は、吉原や江戸の街の布団の中の、男女間で行われていたことも、絵にしました。こちらは今回の美術展では展示されていません。歌麿春画に於ける「ペニスのデッサン」はルーブルにあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「手」に負けていないと、フランスの詩人は評価しました(『江戸春画の性愛学Ł』福田和彦 p.116 ベスト新書)。そして世界中のぼくときみが歌麿のファンになるようになります。
2、蔦屋重三郎
蔦屋重三郎(蔦重=つたじゅう)は本屋で、企画・製作・販売までを手掛けるプロデューサーでした。
蔦重は、まず狂歌、洒落本を製作しました。狂歌とはギャグや笑いの短歌。洒落本とは男女の遊びをテーマにした小説です。さらに、蔦重は黄表紙を製作します。黄表紙とは、絵付きの洒落と風刺の物語。蔦重はそこに政治批判を持ち込みヒット作を生み出します。さらに蔦重は、歌麿とともに大首絵を製作し、浮世絵の新ジャンルを開拓し、不滅の名作をプロデュースすることになります。
蔦重の活躍は当時の江戸を象徴するものでした。1)政治・経済・文化の中心は、京都大阪から江戸へ移りかけていたときでした(『蔦屋重三郎』松本寛 p.3 日本経済新聞社)。蔦重は江戸のスターでした。2)歌舞伎と吉原は、儒教を道徳律とする当時としては社会の必要悪、蔑視された特殊世界でした(前掲書p.36)。吉原育ちで吉原を舞台に活躍する蔦重はカウンターカルチャーのチャンピオンでした。3)出版の版元には、アカデミックな書物問屋とポップな地本問屋がありました(前掲書p.21)。もちろん蔦重はポップカルチャーのカリスマでした。
3、TSUTAYA
平成の日本にも、ズバリ「蔦屋」を名乗る男がいます。CCC(カルチャー・コンビニエンス・クラブ)が経営する「TSUTAYA」の増田宗昭です。
「私の祖父は裸一貫で土木建築業で身を起こし(中略)その屋号が『蔦屋』だった」。そして増田は「蔦屋書店」を開店します。しかし江戸時代の蔦屋重三郎の存在を知ることになります。そこで増田は、「江戸の出版人、蔦屋重三郎の名にあやかりました」と、美しく開き直ることにします(『情報楽園会社』増田宗昭 p.17~18 復刊ドットコム)。TSUTAYAは「カッコいい」をいのちにしています。平成のTSUTAYAからは、どんな歌麿が生まれてくるのでしょうか。