空を飛ぶ、理1(東大工学部)伝説。

コンテンツ・ビジネス塾「飛行機」(2010-48) 12/21塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、理1(ちいち)
むかし、高度成長の日本には、少年たちの間に「理1(りいち)」神話がありました。「できる少年」は、「理1」を目指さなければなりませんでした。「理1」とは、東京大学の理科1類、工学部のことです。しかしほとんどの少年の夢は挫折します。あるものは受験科目の少ない私立大学へ、あるものは答えがひとつしかない科学の世界をあきらめ、自分だけの答えのある芸術の世界に志望を変えます。しかしそれらは栄光の転身ではなく、敗北でした。「理1」を貫いたものだけが勝者でした。
『空と宇宙展 飛べ!100年の夢』(国立科学博物館日本経済新聞社'10.10.26~'11.2.6)が開かれています。日本人が有人動力飛行を実現して100周年、小惑星探査機「はやぶさ」が60億キロの宇宙の旅を終え無事帰還の2010年を記念したものです。はからずもこのイベントは、「理1」を貫いた少年たちの夢の実現の発表の場になっていました。
人類初の有人動力飛行は1903年アメリカのライト兄弟によって成し遂げられました。しかし100年前の日本での成功は違います。外国製の飛行機を日本人が操縦し飛行に成功したというだけものです。しかしこのささやかな成功を起点にして、1918年に東京帝国大学付属研究所として航空研究所が、さらに同大学に航空学科が新設されます。
2、西岡喬
1)零戦・・・日本の航空技術が世界の頂点に立つのは、借り物飛行機での日本初の有人動力飛行からわずか30年後、1940年にデビューする零戦(ゼロ式艦上戦闘機)によってです。零戦は太平洋戦争の前半にその圧倒的な高性能で大活躍をしています。伝説の零戦エースパイロット・坂井三郎は、ソロモン航空戦でなんと米軍機を34機も撃墜しています。坂井のウデもあるでしょうが、零戦の高性能あればこそです。この零戦を設計したのが、東京帝国大学工学部航空学科出身の三菱重工業堀越二郎です。
2)YS-11・・・敗戦後、日本は7年間航空機の自主開発を、占領軍により禁止されます。1964年戦後初の旅客機として登場するのがYS-11です。設計には、零戦堀越二郎のほかに同じ東大工学部航空学科の出身の土井武夫木村秀政らが加わります。さらにYS-11には東大工学部「理1」のDNAが生きています。東大工学部から新三菱重工業に入社して2年目の西岡喬(現在・三菱重工業相談役)がYS-11の強度実験に参加し、夢の実現に貢献していることです。西岡には「理1」伝説のエピソードがあります。西岡は就職先を日本航空に決めていたのですが、東京駅で降りたついでに、新三菱重工業に勤務していた恩師で先輩の堀越二郎を訪問したところ、その場で無理やり新三菱重工業への就職にサインさせられた、というものです(日経『私の履歴書西岡喬 11/6)。3)MRJ・・・こうして宇宙への夢は西岡にバトンタッチされることになります。西岡は、6人乗りと8人乗りの小型民間機「MU2」を開発し、三菱重工の単独民間機事業として世界で750機を販売する成功を収めます。さらに小型ジェット機「MU300」も開発しますが、景気後退により三菱重工は小型機から撤退。事業は米航空機メーカーに移管されます。ところが「MU300」は米社のドル箱になり現在までに900機を売り現役で活躍しています。そして現在西岡の夢は、最新鋭の国産小型ジェット旅客機「MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)」へと広がっています。
3、少年の夢
西岡は、母校の名誉のために「君、受けてくれないか」の先生からの頼みで、「理1」に合格し、航空機の道を歩むことになります。そして西岡はいまだに「理1」を生きています。趣味は、天体観測。「獅子座流星群」の写真を撮ること。夢は、「ファインマン物理学」全5巻を読了すること(前掲11/29)。
さらに西岡の「理1」の夢は後輩に受け継がれています。「理1」、東大工学部航空学科(航空宇宙学科)の後輩には、土井隆雄野口聡一山崎直子大西卓哉の4人の宇宙飛行士がいます。
人は青空にあこがれる。人は飛ぶことを夢見る。なぜ人はこんなにも空が恋しいのだろうか。それは、人が昔、鳥だったから。そう考え、それを歌にした歌手がいました。『この空を飛べたら』の中島みゆきです。そう!「理1」の戦いで敗れ去りしものたちは、想像力の翼で負けまいとしているのです。