コンテンツ・ビジネス塾「朝吹真理子」(2011-10) 3/22塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、文学は可能か。
かつて、フランスの哲学者であったJ.P.サルトル(1905~1980)は、「餓えた子を前にして文学は可能か」という問いを立て、芸術至上主義の文学を粉砕しました。アンガージュマン(現実参加)していない文学、つまり現実にある問題の解決に寄与しない芸術なぞ、ゴミくずでしかないと言い放ったのです。現在の日本はM9という人類史上でも最大級の災害に襲われ危機に瀕しています。「災害を前にして文学は可能か」。サルトルと同じ問いを発してみます。
文学とは、先頃芥川賞を受賞した朝吹真理子の「きことわ」です。朝吹真理子は、フランスワーズ・サガンの小説の翻訳で有名な朝吹登水子を大叔母に、翻訳家の朝吹三吉を祖父に、詩人でフランス文学者の朝吹亮二を父に持つ、才能の中の才能、サラブレッドのように毛並みのいい新人小説家。1984年生まれで、現在慶応大学博士課程在学中です。
2、どんな小説か。
1)少女ふたり。
「きことわ」は、神奈川県の葉山、海辺の別荘でのあるお嬢さま貴子(きこ)と管理人の少女永遠子(とわこ)のふたりの少女の物語です。25年前別荘で過ごした「昔」と、別荘を明け渡すことになった「今」を、行ったり来たりするだけで、波瀾万丈はなにも起こりません。
それは例えば空前のヒット作となった村上春樹の「1Q84」とくらべてみれば明らかです。まず恋愛小説ではありません。アクションもありません。ミステリーもありません。そもそも見せ場とか、クライマックスシーンとか、そんなものはありません。
2)たわむれ。
25年前の8歳の貴子と15歳の永遠子、少女ふたりのたわむれ、そしていまは33歳と40歳の少女のような心を持った淑女のたわむれ、小説は何気ない少女のたわむれを描いています。その映像は魅了します。ハイビジョンカメラで撮ったドキュメンタリータッチではありません。かといってマーク2やミッチェルのフィルムカメラで撮ったドラマチックな映像でもありません。それは画家のパブロ・ピカソや詩人のアポリネールに愛されたマリー・ローランサンが描いた少女のようです。垣根越しにふと覗き見してしまったかのような少女たちの姿です。
3)リアリズム。
少女ふたりのたわむれ、しかもパステル画となればメルヘンチックでファンタジックな映像を想像させます。しかし作者のデッサン力は私たちの予測を見事なまでに裏切ります。
そのデッサンたるや、洋画の巨匠小磯良平のように確かなものです。作者は少女たちの腕の動き、髪の筋ごと、心の傾斜、光の跳ね返り、雲の量を残酷なまでの克明なデッサン力で、いささかの感傷に流されることなく、描いていきます。
3、才能とは何か。
少女たちのたわむれを覗かせてくれる。それを残酷なまでのデッサン力で見せる。そしてもうひとつ魅力が小説にはあります。「昔」と「今」を行ったり来たりするうちに、100年、1000年の時間をたやすく越え、「きことわ」の夏の日を永遠にしてしまうことです。
「後ろ髪を引かれる事柄について書かれた小説は数多くあれど、後ろ髪を引くそのものを主にした小説は、私の知る限り、ほとんどない」(山田詠実の芥川賞選評 『文芸春秋』3月号)。この指摘は鋭い。「きことわ」は、ある夏の日のことを書いたけれど、少女の個人的な甘い感傷を書いたものではない。それゆえ夏の日は、普遍となり永遠となります。
「朝吹真理子さんは、日本のいにしえからの美意識を、体内に持った女流である」(高樹のぶ子の芥川賞選評 前掲書)。小説「きことわ」を書き写してみて、思います。私には1行すらも、朝吹真理子のようには書けない。人は笑うでしょうが、才能が書く文章とはそういうものです。
「災害を前にして文学は可能か」。答えは「ウィ」(イエス)です。災害がM9の悲劇なら、朝吹は文学におけるM9の希望です。朝吹の仕事は、閉塞の国に希望の光を、射し続けるでしょう。