なぜ渋沢栄一は、世界初のマネジメントとされたのでしょうか。

コンテンツ・ビジネス塾「渋沢栄一?」(2011-12) 4/5塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、ドラッカー
「プロフェッショナルとしてマネジメントの必要性を世界で最初に理解したのが渋沢だった」(『マネジメント(上)』P.22 P.F.ドラッカー 上田惇生訳 ダイヤモンド社)。
渋沢とは渋沢栄一(1849~1931)、明治維新と明治・大正・昭和を生き、500〜600以上の会社・組織の設立に参加し、学校と福祉事業を立ち上げた「日本資本主義の父」、「実業界の父」です。
「マネジメントの必要性を世界で最初に理解した」というドラッカーの言葉に驚きます。マネジメントとは、ドラッカー流にいうと、企業、学校、政府・・・「組織の成果に責任を持つ者」のこと、経営と管理です。日本は明治維新以来、欧米を目標に産業化を成し遂げ、企業と組織を発達させてきました。にもかかわらず、後進国の渋沢が世界で初めてマネジメントを理解したというのです。信じられませんが、私たちはマネジメントの第一人者ドラッカーの言葉に従わざるを得ません。
2、渋沢栄一の仕事
1)会社・・・渋沢が手掛けた企業を列挙します。第一国立銀行みずほ銀行)、三井銀行三井住友銀行)、日本銀行東京海上保険会社(東京海上日動火災保険)、日本郵船、日本鉄道(JR東日本東北本線)、王子製紙、ジャパン・ブリュワリー・カンパニー・リミテッド(キリンビール)、大日本麦酒サッポロビールアサヒビール)、日本鋼管JFEスチール)、東洋製鉄(新日本製鉄)、東京石川島造船所(IHI)、東京瓦斯東京ガス)、東京電灯会社(東京電力)、田園都市東京急行電鉄)、東京株式取引所(東京証券取引所)、帝国ホテル、秀英社(大日本印刷)、中外物価新報(日本経済新聞)、日本放送協会NHK)、聖路加国際病院・・・(『渋沢栄一 ?論語篇』 巻末資料より 鹿島茂 文芸春秋)。これでもごく一部。誰しもが思います。なーんだ、日本は渋沢が作ったのだ。
2)福祉事業・・・渋沢の真骨頂は企業経営だけではありません。生涯を通じて社会福祉事業に積極的に取り組んでいます。その代表例として乞食や浮浪者を救済する「東京養育院」に明治の初期から生涯にわたって関わりを持っています。それは博愛の精神からだけではありません。社会の害悪を防止する目的の経済的合理主義のためです。収容者を子供、老衰者、病人に区別しました。子供には、父や母の代わりをする職員を配置しました。そのなかに日本のナイチンゲールと呼ばれた瓜生岩子(うりゅういわこ)もいました。そして日本初のチャリティ・バザーをはじめ貴婦人からの寄付金を集め、福祉事業の運転資金にしました(前掲 鹿島茂 P.36~P.48)。
3)学校・・・さらに渋沢は学校の設立に力を入れています。東京商法講習所(一橋大学)、二松学舎二松学舎大学)、皇典講究所国学院大学)、日本女子大学校(日本女子大学)、早稲田大学国士舘国士舘大学)、理化学研究所・・・(前掲 鹿島茂 巻末資料より)。「民」の力を強くしました。
3、岩崎弥太郎
渋沢栄一岩崎弥太郎三菱グループの創業者)の日本資本主義の理念を巡る死闘が記録されています。渋沢は、資本を集め利益を出資者に還元する、資本と経営の分離を主張します。それに対して岩崎は、才能あるものが資本も経営も独占して行うべきだと主張します(『渋沢栄一 ? 算盤篇 P.448~P.451 鹿島茂 文芸春秋)。
「岩崎は日本最大、世界最大級の企業集団三菱をつくった。渋沢はその90年の生涯において600を超える会社をつくった。この二人が当時の製造業の過半をつくった。彼ら二人ほど大きな存在は他の国にはなかった」(『断絶の時代』P.113 P.F.ドラッカー ダイヤモンド社)。岩崎は資金を、渋沢は人材を説いた。ドラッカーはふたりをロスチャイルドやロックフェラーを凌ぐと絶賛しています。
なぜドラッカーは渋沢を世界初のマネジメントと評価したのでしょうか。
1)新しい事業で顧客を創造した。2)組織で活動する人材を育成した。3)企業だけでなく、福祉事業、学校、研究所、さまざまな組織を運営した。4)渋沢は自らの事業を利己主義ではなく公益主義と言い、自己の利益を第二に置き、まず国家社会の利益を考えてやってきた(前掲 ?論語篇 鹿島茂 P.24)。なるほど、渋沢にはドラッカーが主張するマネジメントのすべてがあります。
ではなぜ、後進国・日本から渋沢が誕生したのでしょうか。次回はその秘密に迫ります。