ゲンスブールとサン・ジェルマン・デ・プレを忘れちゃいけない。

コンテンツ・ビジネス塾「ゲンスブール」(2011-24) 6/14塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、アメリカが世界をダメにした
フランス映画の巨匠ジャン・リュック・ゴダールに『映画史』という4時間半にわたる超大作があります。2000年日本公開の20世紀最後の映画です。映画の歴史を学べるのか?そんなことはありません。音は、言葉、祈り、雷鳴、砲弾のピーヒャラドンドン。映像はデモ、踊り、絵画、スローガンのハチャメチャ。ドラマツルギーも、起承転結も、涙のハッピーエンドもありません。カオスの中から浮かび上がってくるメッセージは、1)テレビが映画をダメにした、2)アメリカがフランスをダメにした、3)国家が私をダメにした。『映画史』は、反TV、反米、反権力の反映画です。
コーラやビールを飲みながらハンバーガーを食べるアメリカ人をフランス人はバカにしていました。水を飲みながら食事するのは犬とアメリカ人だけだ、と。またGパンを嫌いました。ココ・シャネルは秘書がパンツルックで仕事をすることすら拒否しました。さらに、パリは英語を使うことも嫌いました。しかし時代は変わりました。20世紀最後の映画から10年。シャンゼリゼでも、コーラ、Gパン、「ハロー!」はあたりまえになりました。ゴダールの憂いは的中しました。
2、サン・ジェルマン・デ・プレ
セルジュ・ゲンスブールの自叙伝的映画『ゲンスブールと女たち』は、私たちの目を覚まします。
1)ゲンスブールは、『夢見るシャンソン人形』(1965年フランス・ギャル)と『Je t’aime . moi non plus. 』(1969年ジェーン・バーキン、セルジュ・ゲンスブール)の世界的なヒットをとばしました。さらにゲンスブールは、ブリジット・バルドージェーン・バーキン、バンブーと結婚を繰り返し、愛に生きました。そしてゲンスブールは、自らの出生(ユダヤ人、醜男)に悩みながらも、絵画、作詞、作曲、映画、クリエイティブな表現のために生きました。
2)ゲンスブールを生んだのはパリのサン・ジェルマン・デ・プレという街です。そこにはカフェとカーブ(穴倉酒場)があり、名士、有名人、ファッションデザイナー、モデル、カメラマン、ジャーナリスト、学生、ミュージシャンが集まっていました。代表が、実存主義の哲学、文学のジャン・ポール・サルトルでした。「人生は生きるに値しない」。実存主義は、虚無(ニヒリズム)の問いから出発します。人間は何かの目的(本質)を持って生まれてきたのではない。道ばたの石ころのように何の意味もなく投げ捨てられたもの(実存)である。人生に意味などはない。人生の意味を決めるのは自分だ。
3)ゲンスブールは、サン・ジェルマン・デ・プレのプリンス、ボリス・ヴィアンに触発されました。ボリスは発売禁止の小説『墓に唾をかけろ』でスキャンダラスな注目を集めていました。「(カーブ=穴倉酒場の)奥の方には楽団。3メートル四方のフロアで、柔らかい団子状態の20組のカップルが痙攣(ケイレン)的な動きのダンスに熱中している。虚無と嘔吐。誰かが言う。これぞ<実存主義>」(『サン・ジェルマン・デ・プレ入門』P.62 ボリス・ヴィアン 浜本正文訳 文遊社)。
カフェでは、サルトルボーボワールが小説を書いていただけではありません。カミユ(小説)、メルロ・ポンティ(哲学)、グレコシャンソン)、カンディンスキー(絵画)、ピカソ(絵画)もいました。サン・ジェルマン・デ・プレは、世界に向けて情報を発信していました。
3、アメリカがボクをダメにした
『欲望』(アントニオーニ)、『太陽がいっぱい』(ルネ=クレマン)、『勝手にしやがれ』(ゴダール)。ゲンスブールが見た映画を、日本のボクたちも見ていました。それらは『パイレーツオブカリビヤン』などの21世紀のアメリカ映画とは180度違います。6O年代のフランス映画には、青春があり、人生は何かへの問いがあり、人生をいますぐ変えるインパクトがありました。「人生における重要なものって何・・・?」「まずメイク・ラブ、ドリンク、スモーク、書くこと、そしてメイク・・・6番目が死を待つこと・・」(立川直樹ゲンスブールのインタビューから。『ゲンスブールと女たち』映画カタログ)。
ゲンスブールの人生が奔放のように、映画も快楽的です。しかし映画はフランス映画です。監督はゲンスブールの分身をたびたび映画に登場させ、生の葛藤を弁証法に描きます。映画は観客席のボクに問いかけ、ボクを試し、ボクの力を引き出そうとします。アメリカでダメになった「私」は、ゲンスブールの映画で青臭いけど全体性の「ボク」を取り戻そうとしていました。