F.L.ライトに会えるから、銀座のサッポロ・ビアホールに行こう。

コンテンツ・ビジネス塾「F.L.ライト」(2011-30) 7/25塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、関東大震災
1923年9月1日、帝国ホテルは設計から11年の歳月を経てついに完成、開業祝賀パーティーの日を迎えていました。しかし無情。突如として起こった関東大震災により、宴は中止を余儀なくされます。そして伝説が残ります。耐震設計の勝利、焼け野原に唯一無傷で残った帝国ホテル。
一時使用不能になった客室はわずか7室、地震の翌日からは、さまざまな組織が間借りをします。各国大使館、新聞社、通信社そして企業が、帝国ホテルを舞台に執務を始めました(『フランク・ロイド・ライトと日本』下 日経6/26)。
しかしこの伝説は修正されます。たしかに帝国ホテルは無事であった。しかし無傷の建物も多く、それは残された写真でも検証できる。そして耐震設計だけの帝国ホテルとして評価してしまうと、逆にその価値を貶めてしまう(谷川正巳『フランク・ロイド・ライト回顧展』P.54 毎日新聞社)。
帝国ホテルは大谷石の建物でした。日比谷通りからエントランスまではまるで庭園。中に入ると、壁面にはさまざまな装飾があり、薄暗く微妙な光が入り込んでいて、劇場のような別世界。ロビーにはここを住居にしていたオペラ歌手の藤原義江が座っていました。帝国ホテルは1968年に解体されます。そしてそれは現在、歴史的建造物として、一部が愛知県犬山市博物館明治村に移築され保存されています。
ライトから学ぶべきは何か。「有機的建築」。「大地から植物が芽吹き、葉を伸ばし、花を咲かせる。そんな生命のリズムを内に秘めた建築」(『フランク・ロイド・ライトと日本』中 日経6/19)です。
2、有機的建築
フランク・ロイド・ライトFrank Lloyd Wright 1867~1959)は、多作の建築家です。生涯に約800の設計を手掛け、そのうち400を実現させ作品として残しています。米国以外では32件の設計をし、12を実現しています。12のうち9が日本、3がカナダ。カナダは米国の地続き、つまりライトにとっての外国は日本、日本はライトの第二のふるさとでした。
ライトと言ったら、「プレーリースタイル」の住宅です。プレーリーとは草原。「真の建築は大地に由来する」と考えたライトは、大地に抱かれ、自然と合一した、住宅を設計しました。プレーリースタイルの第2の特徴は、住宅内部の空間設計にありました。従来のドアは全廃され、スライド式のドアは壁面と同じにまで大きくなりました。住まいは部屋の集合体ではなく、互いに浸透すべき空間として設計されました。自然と一体化している、内部にも生命が流動している。これが「有機的建築」でした。そして「有機的建築」は、帝国ホテルでさらに花開いていきます。
まず皇居のお堀と調和する建物であること。そして空間は、劇場のようにドラマティックに装飾されました。大谷石、レンガ、さらに壁面を飾る大量のテラコッタ(素焼き)。バルコニーの天井、軒下には透かし入りのメタル。床は引っ掻き傷のあるスクラッチタイル。窓枠も家具も彫刻も、あらゆるもののデザインが、ロイドの手から泉のようにほとばしり出ました(前掲 中 日経6/19)
3、銀座のライト
ライトは日本美術愛好家でした。船による7回にわたる来日で2万枚もの浮世絵を買い集めています。それはメトロポリタン美術館ボストン美術館のコレクションの一部になっています。プレーリースタイルの代表作「K・C・デローズ邸」の透視図には、浮世絵画家歌川広重の「名江戸百景」の影響が明らかに見て取れます(前掲 上 日経6/12)。
そして、現在の東京にもライトは生きています。ひとつは「電通八星苑」(1917年設計 旧林愛作邸)。駒沢にある(株)電通のリクレーション施設です。ドアのない空間はまさしくライトのものでした。そして門には大谷石が、エントランスのたたずまいもプレーリースタイルを偲ばせます。
もうひとつは銀座のサッポロビヤホール。これはライトの影響を受けた菅原栄蔵の作品。赤茶と深緑でタイル張りされた壁と柱は大地と緑、さらに壁面のガラスモザイクは美術。収穫をテーマにしたデザインです。そしてホール全体の雰囲気は、帝国ホテルのプロムナードそのもの。しばしライトの世界で時間を過ごせます。生きている空間、時を超えて残る建築に、乾杯!