不良と天才はこちらのおいで、日本映画大学だよ。

コンテンツ・ビジネス塾「日本映画大学」(2011-31) 8/2塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、今村昌平
「俳優というのはね、不良だよ。典型的なのは、三船敏郎!」
「三船という不良は、黒澤明監督に発見され、俳優として大成したんだよ」
「最近では、ナガブチ・ゴウというのが、いるね。あれは不良だと思う、いいね」
「監督?・・・監督はね・・・・・・不良で天才だよ」
日本映画学校の映画教室でこう話したのは、当時の校長で、現役の映画監督の今村昌平でした。
聞いていたのは、新百合ケ丘(川崎市麻生区)周辺の映画好きの住民でした。
今村の断定的で強い語り口に、普通で善良な市民たちは、震え上がりました。
(俳優は不良だって?、おまけに監督は不良で天才?、学校で不良や天才を教えるの?)
今村はやがて病に倒れ亡くなります。しかし日本映画学校は発展、2011年4月に日本で唯一の映画単科大学日本映画大学を設立するようになります。
2、日本映画大学
今村昌平(1926~2006)は、不良で天才です。東京の開業医の息子として生まれ、東京のエリートとしては最良のコース東京高等師範付属中学(筑波大付属中高)に学びます。そして徴兵を逃れるために(ここが不良!)桐生工業専門学校(群馬大工学部)に進学、戦争が終わると早大文学部に転学、卒業します。難関中の難関、松竹大船撮影所の合格し、『東京物語』で小津安二郎の助監督につきます。しかし松竹を退社日活へ(ここも不良)。『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)のシナリオを書きます。そして『楢山節考』と『うなぎ』で、カンヌ映画祭の最高賞を2度も獲得します。
日本映画学校の前身「横浜放送映画専門学院」を作ったのは1975年。映画会社の撮影所が、監督も撮影も照明も、新人を採用しなくなったからです。このまま放っておけば、日本映画界には人材がいなくなる、この危機感からでした。実技中心の撮影所のような学校が生まれました。それが1985年の「日本映画学校」(新百合ケ丘)に改組されます。そしてさらに今回の「日本映画大学」(白山)に発展します。
映像の業界に人材を送り込む、この狙いは成果を上げています。監督には『着信アリ』の三池崇史、『踊る大走査線THE MOVIE ?』の本広克行、『日輪の遺産』の佐々部清、脚本には鄭義信、カメラマンには山本英夫、タレントにはウッチャンナンチャンがいます。
日本映画大学は映画学部映画学科だけ、脚本演出、撮影照明、録音、編集、ドキュメンタリー、理論A(視覚表象文化)、理論B(歴史的社会的な視点からの映画)、7つのコースがあります。
誰が映画大学を志望するのか?日本映画学校には、大学中退者、卒業者、社会人である程度の地位に就いたことがある人がいる。佐藤忠男学長は、専門的な技術を伝えるだけなく広い視野と教養を得るための場を目指す、と言います。
3、三池崇史
小学生がいっぱいの劇場で『忍たま乱太郎』(にんたまらんたろう 原作『落第忍者乱太郎朝日新聞出版)を見ました。この映画は日本映画学校(横浜時代)出身・三池監督の最新作です。
まず分かりやすい。それは衣装と美術がいいからです。トヨタ子ども店長の加藤清志郎が主役の乱太郎です。仲間の中でも眼鏡(戦国時代にメガネだって、ウソー!)の乱太郎は、すぐに分かります。それに子ども向けですから、三池監督お得意の残虐シーンがない。『殺し屋1』のときは、気持ち悪くて、ほんと参ったもんね。そしてカメラワーク、撮影そして編集。職人的な映画技術がいい。
「人間とはかくも汚濁にまみれているものか、人間とはかくもピュアなるものか、何とうさんくさいものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものか。この人間観察のためにこの学校はある」(今村昌平日本映画大学ガイドブック」)。
三池監督は、昨年、脚本家天願大介との日本映画学校出身のゴールデンコンビで、『13人の刺客』を残しました。たしかによくできた映画職人の仕事です。なら、『乱太郎』の方が上ではないか。今村昌平はこれらの映画を認めるとは思えない。学校は不良や天才を育てられるのでしょうか。