「9条を一時停止に」と言った、石橋湛山は面白い。

コンテンツ・ビジネス塾「石橋湛山」(2011-33) 8/17塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、反「東条」で反「マッカーサー
終戦の日になったらぜひ思い出し、勉強し直したい思想家がいます。石橋湛山(いしばしたんざん1884~1973)です。常識的に石橋は、悲劇の首相として知られています。1956年12月首相に就任するもわずか2ヶ月で病のために辞任しなければならなかったからです。石橋は自由民主党の政治家でしたが、他の政治家と同列に論ずることはできません。まず戦前は『東洋経済新報』で活躍するジャーナリストとして、戦争を遂行する軍部と政府に反対し、「大東亜共栄圏構想」に対して「小日本主義」で理論的に反論した思想家でした。そして戦後は吉田内閣の大蔵大臣に就任し、GHQ(占領軍)の政策と対立し、占領軍の総司令官「マッカーサーの横面を張った唯一の男」(『日本リベラルと石橋湛山田中秀征 講談社 P.80)であり、経済の実践家でした。
2、小日本主義
小日本主義とは、大東亜共栄圏大日本主義に対立するもので、日本の主権的領土を旧来の主要4島に限定し、経済合理主義と国際協調主義で日本の平和的発展を論じたものです(『石橋湛山』増田弘 中公新書 P.64)。
1)満州放棄・・・まず日清・日露戦争の戦利品である満州を放棄せよと主張しました。青島も旅順も中国に返還するのです。これは驚くべき主張でした。満州は、日本国民にとって「20億の国帑(こくど=国家財産)と10万の英霊が眠る聖域」、でした。さらに石橋は、政府と軍部の対中国干渉政策や一般国民の中国軽視の態度を厳しく批判しました(前掲P.65)。
2)経済的合理主義・・・当時、領土狭小・人口膨張の日本にとって海外移民は人口問題解決の不可欠な手段と考えられていました。これを、石橋は誤謬であり、移民政策は政府の膨張主義にほかならないと論じました。中国全土を機会均等主義のもとに各国に解放し、日中貿易を増進させれば日本の産業も発展する、経済合理主義を主張しました(前掲P.69)。
3)平和的発展・・・さらに石橋は日本のアジアへの支配強化は必ず日米戦争に発展すると警告しました。政府・軍部・ナショナリストは、アジアに一大自給圏を確立する大東亜共栄圏構想を持っていました。しかしそれはアジアに対する日本の自己中心的な考えでしかありませんでした。中国だけはありません。シベリア、満州、朝鮮、樺太なども要らない、植民地全廃を唱えました。このことで無意味な戦争も防げる、と論じたのです(前掲P.71)。
3、僧侶
戦後の石橋は政治家に転身、第1次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢されます。そして今度はGHQ(占領軍)と対決します。1)まず石橋は、「財閥解体」に反対します。財閥の力を利用して復興を急ぐべきだと主張しました。2)そしてインフレ財政政策によってGHQと対立します。3)さらに進駐軍の諸経費の削減を要求します(彼らは広大な住宅地に住み、ゴルフを楽しみ、花や金魚を宅配させ、日本の国家予算の1/3を使っていた)。ここに至り、占領軍は力を発揮し、石橋を公職から追放します。復活までは4年(1951年)、そして再び総理まで上ります(1956年)。
石橋から学べることがあります。石橋はGHQ製にもかかわらず新憲法の平和主義を高く評価しました。しかし第9条に対しては、「世界に完全なる安全保障制度が確立されるまで」との期限をつけてしばらく効力を停止することを提案し(前掲P.177)、さらに再武装についても冷戦の現状から「やむなく再軍備する」のであり、憲法を改正せずに臨時の措置とすべきだとしました(前掲P.184)。
石橋湛山日蓮宗の僧侶の息子して生まれます。幼少から漢文の素読を学び、他人の僧侶に預けられ、日蓮宗の教義を空気のように吸い育てられます。山梨の中学(甲府一高)では、「ボーイズ、ビー、アンビシャス」のクラーク博士の教え子からキリスト教アメリカ民主主義、個人主義を学びます。さらに早大に進学した石橋は、アメリカのプラグマティズムを学びます。
「我れ日本の柱とならん我れ日本の眼目とならん我れ日本の大船とならん」(『開目抄』日蓮)。僧侶の石橋湛山は、理想主義的で現実的な、類を見ないリベラリストでした。憲法は改めない、しかし9条はしばらく停止。これは国際協調のために日本の進むべき道のひとつではないでしょうか。