THE TED TIMES 2024-12「青春ジャック」 3/22 編集長 大沢達男
『青春ジャック 止められるか、俺たちを 2』、 久しぶりに映画を楽しみました。
1、映画検定
数年前に「映画検定」なんて、映画の教養を試すテストが流行りましたが、あんな感じです。
映画『青春ジャック』を観ていて、元気のいい昭和の映画を思い出しました。
そこで問題です。
問題:以下の映画の監督名を答えてください。
1、『日本春歌考』(昭和42年)
2、『ザ・オナニー』(昭和45~55年)
3、『水のないプール』(昭和57年)
4、『洗濯屋ケンちゃん』(昭和57年)
5、『コミック雑誌なんかいらない』(昭和61年)
解答(順不同):大島渚、滝田洋二郎、藤井智憲、代々木忠、若松孝二
藤井智憲と代々木忠はちょっと難しすぎますね。
でも二人の作品についても、映画『青春ジャック』の中で語られています。つまり昭和の常識なんです。
2、井上淳一
映画『青春ジャック』は若松孝二(1936~2012)と若松プロに入社した井上淳一(1965~)の物語です。
若松プロダクションの設立は1965年(昭和40年)ですが、昭和のあの頃は大島渚の時代でした。
『日本の夜と霧』(昭和35年)、『忍者武芸帖』(昭和42年)、『日本春歌考』(昭和42年)、『絞首刑』(昭和43年)を立て続けにヒットを放っていた大島渚は時代のスーパースターでした。
若松孝二がその名を知られるようになったのは、『処女ゲバゲバ』(昭和44年)、『ゆけゆけ二度目の処女』(昭和44年)で、「オモテ」の大島渚、「ウラ」の若松孝二、若松はピンクや裏ビデオに近い存在でした。
独特のフィルムメイキングの才能をもつ若松作品が上映されていた「新宿文化」周辺の新宿3丁目には独特の雰囲気あり、「インテリ・ヤクザ」が集まっていました。
無名の北野武もいたはずです。
事実、『その男、凶暴につき』(1989年)や『3-4X 10月』(1990年)のころの、北野武は当時の若松孝二の存在によく似ています。
井上淳一は『水のないプール』(1982年)を観て、若松以外に映画監督は考えられないと、若松プロを志願しています。
映画『青春ジャック』のなかで、井上が撮影現場で邪魔者扱いされるシーンがいいです。
照明の前でカチンコを持って立っていると照明さんから怒鳴られます。「ライト前ッ!」。さらに動くとそこにも照明が、「何度言われるとわかるんだ」、また怒鳴られます。そしてやっと見つけた空きスペース。若松監督「バカッ!そこは俺の場所だ!」
笑い話ではありません。現場を知らないと実際に起こります。
つぎは、井上が脚本を書けなくて苦労するシーンがいいです。
若松「お前、こんなのしか書けねのか。(中略)早く書かねえと、撮影できねえぞ。(中略)パクりゃいいんだ。あれとかどうだ、あれ。ホラ、ボクシングの」
井上「ロッキーですか」
若松「そうだよ。ロッキーだよ。絶対勝てねえと思われていたヤツが勝つ。映画の基本だよ」
「パクる」は下品な表現ですが、クリエーティブは模倣です。傑作には元ネタがある・・・それが面白いんです。
そして名古屋にある「シネマスコーレ(映画の学校)」についての「アオ」い映画館経営理論を展開するところもいい。
「東京にどんどんウチみたな単館がたくさんできているじゃないですか(中略)独立系の映画が増えていくと思うんですよ。(中略)中国映画も今面白くて、東京じゃ岩波とかでドンドン上映している・・・」
『青春ジャック』は脚本・監督井上淳一ですが、脚本はうまいものです。
若松孝二(1936~2012)を演じているのは、井浦新(1974~)です。全く畑違い、生まれも、体型も違う若松孝二をうまく演じています。
観客の笑いを取っていましたから、大したものです。
3、映画監督
若松「本当に映画監督になりたいんなら、何か見つけないと。腹立っているものでもいい。誰かを殺してやりたいでもいい」
私は映画監督ではありませんが、お言葉に甘えて言わせていただきます。
私は、映画『福田村事件』に、腹が立っています。
『福田村事件』は、荒井晴彦企画、佐伯俊道・井上淳一・荒井晴彦脚本、森達也監督、しかも主演は井浦新、『青春ジャック』の兄弟のような映画です。
日本アカデミー賞で、優秀作品書、優秀監督賞、優秀脚本賞を受賞、2023年日本映画界を代表するとされている映画です(余談ですが、田中麗奈、井浦新を抱える芸能事務所「テンカラット」は注目に値します)。
何に腹を立ているのか。
映画のリベラリズムの主張に対してです。
まず、流言飛語に惑わされ四国の人を殺害した福田村(現・野田市)の人を馬鹿にし、「朝鮮人」、「センジン」を連発することで、韓国の人が嫌がる映画を作っています。
それでも映画は最後には、社会主義者も弾圧されたと人権、自由、平等のリベラリズムの主張で締め括り、それを正義だと信じ込んでいます。
リベラリズムとは、朝日と毎日の論調です。
2024年の元旦の社説で、ウクライナとガザでの紛争をテーマに取り上げた両紙はなんとその結論で、朝日は「理不尽の芽を見逃すな」そして「暴力への関心を持て」、毎日は「多様性の尊重」そして「他者のとの共生」を説きました。
なにか紛争解決の糸口になっているでしょうか。平和への提案になっているでしょうか。
リベラリズムを主張する日本の新聞と日本の知識人は世界から完全に取り残されています。
リベラリズムの英国はインドと中国で何をしましたか。リベラリズムの米国はインディアンと黒人に何をしましたか。
そしていま、リベラリズムの国々はウクライナで「リベラリズム帝国主義」として追い詰められているのではありませんか。
さらに将来の日本は、米国独立宣言と同じ文章のあるリベラリズムの憲法のために、滅びようとしています。
じゃ、どうなるんだ? 日本は?世界は? 私にわかるはずはありません。
それをやるのが芸術家です。
ただ私にもわかることがあります。もはやリベラリズムはインテリ・ヤクザの勲章にはなりません。かっこ悪い。
『青春ジャック』そして『福田村事件』の映画人の時代は終わりです。
「(リベラリストは)理論においては過激、行動では遅疑逡巡、反対するときは強硬、権力を握れば無力、机上においては正しく、政治においては無能である」
(ピーター・F・ドラッカー 上田惇生訳 『産業人の未来』 p.191 ダイアモンド社)。