クリエーティブ・ビジネス塾40「小田原城」(2014.9.30)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、サムライ
サムライ・ジャパンとはサッカー日本代表のニックネームです。武士道とは、忠誠、犠牲、信義です。「武士道というは死ぬことと見つけたり(葉隠)」。切腹です。サムライを好きになれますか。
日本文芸の中心にある男性らしさは益荒男(ますらお)、強く勇ましくおおらかな人です。大和心は、日本人のやさしくやわらいだ心です。風流です。美し飾ること、雅(みやび)、もののあわれです。洗練され上品に、恋愛や人情に通じていることです。サムライより大和心の益荒男に惹かれます。
2、小田原城
はじめて武将を話題にします。小田原城の北条家です。戦国時代の始まりから終わりまで、5代100年にわたり、城主として関東を支配しました。小田原城は難攻不落の城でした。1560年代に上杉謙信、武田信玄が攻めても、びくともしませんでした。さらに1590年代に豊臣秀吉が、史上最大の25万の軍勢で押し寄せますが、1ヶ月平気でした。しかし北条氏は敗れ戦国時代は終わります。
いまある小田原城は江戸時代の大久保氏のお城を再現したもので、北条氏の小田原城ではありません。難攻不落の北条氏の小田原城は周囲9キロに及ぶ城塞都市でした。
1)デザイン・・・小田原駅から北西、相洋中・高等学校の上から、今ある小田原城の方を見下ろしてみるといい。小田原城の南は天然の要塞、相模湾に守られている。そして城は半円を描くように9キロにわたり陸を囲む。境界線は、ヨーロッパの中世の城塞都市のような城壁ではなく、総構(そうがまえ)と呼ばれる堀切(ほりきり)で囲まれていました。堀切は深い溝、今では草木が生い茂っているが、当時は関東ローム層がむき出しになった、厳しい斜面の粘土状の土、馬はおろか兵士たちも上ることができなかった、難攻不落でした。小田原城は都市としてもグッド・デザインでした。いわば巨大な二枚貝、海に口を開け養分を吸収し、敵の攻撃に貝殻を閉じ、はね返していました。
2)仁義の人・・・5代とは北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の5人でした。彼らはみな仁義の人でした。人に優しく、正しいことをしました。「民は子供である。国主は親のような気持ちにならなければならない。北条早雲 1487年生まれ」。「侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはない。北条氏綱 1918年生まれ」(小田原城天守閣のリーフレットより)。
半径9キロの城塞の街を北条氏は「仁義」で統治しました。街にはいまでも北条氏の仁義のDNAは生きています。やはり小田原駅から北西、小田原高校の上の小峰公園に慰霊塔があります。
「太平洋戦争終結以来、10余年、今や我が国の復興も漸く進み世界平和に寄与すべき国際的な地歩を築くと共に、本市また発展の一途を辿り、市民の福祉は日に月に増進されつつある。この時、殉国の英霊に対する敬慕の情はいよいよ昂まり、その総意として英霊のご冥福を祈念し、その功績を後世に伝える恒久的慰霊顕彰施設の建設を希うに至った(中略)願わくは諸霊永えに鎮まりご遺族の上にご加護を垂れ給わんことを、ここに建設の経緯を記し、後世に残すことにした。昭和30年10月29日 小田原市長鈴木十朗」。純粋!。北条氏の志は小田原市民に受け継がれました。
3)緑・・・小田原高校の敷地には県の天然記念物の「樹叢(じゅそう)」があります。シラカシ、クスノキ、ヤブツバキ、の照葉樹が、また、ケヤキ、クロマツ、スギ、広葉落葉樹、針葉樹が。市内最大級のヤマモモ、ツバキもあります。小田原城は緑豊かな城塞都市でした。見かける樹木の太さがまるで違います。緑も自然の要塞になり、食糧になり、北条氏に味方しました。
3、桜
風流を旨として生きながら、間抜けな人生を送ってきたものです。小田原を箱根や、伊豆の出掛けるときの通過点としか考えてきませんでした。小田原で歩く、泳ぐ、遊ぶ、考えても見ませんでした。小田原厚木道路で一直線、小田急のロマンスカーでわずか60分・・・にもかかわらず。
小田原は自然と食と人の魅力に溢れています。ホンモノの風流人は知っていました。電力王で茶人の松永安左衛門、作詩の北原白秋、小説の谷崎潤一郎。みな、ここで仕事をしているではありませんか。来たる春には、城山公園の桜に出掛けます。そして夏には明治天皇がいらした御幸の浜海岸で水浴びをします。明くる年は、サムライではなく、風流の小田原を楽しみます。