ライアン・マッギンレー。NYが生んだ写真の新星だ。

クリエーティブ・ビジネス塾18「NYの新星」(2016.4.18)塾長・大沢達男

「ライアン・マッギンレー。ニューヨークが生んだ写真の新星だ」

1、ガキンチョ
ぼくはライアン・マッギンレー(Ryan McGinley)、38歳(1977年10月生まれ)だ。
自分で言うのもおかしいが、NY(ニューヨーク)の新星、表現の最前線で活躍するフォトグラファーだ。
ぼくの青春は、ミュージックとスケートボードだった。週末にはニュージャージーの田舎からNYに遊びに出掛けた。マンハッタンのミュージシャンとスケードボーダーにあこがれていた。ハーフパイプのミニランプがあるスケボーショップがぼくらのたまり場だった。19歳になったぼくは1996年にマンハッタンのパーソンズ・スクール・オブ・デザインに入学する。そして1998年にはイースト・ヴィレッジに移り住む。
スケボー、パーティー、ミュージック、ドラッグの日々が始まった。それで、ぼくは写真を撮るようになる。集まってくるアーティスト、パフォーマー、ゲイたちをドキュメンタリー手法で撮り始めたさ。仲間に恵まれたよ。ここには新しい人々がいる、新しい時代が始まっている。
ぼくはそれを写真集にした。手持ちのインクジェットプリンターを使い小冊子を作ったんだ。『キッズ・アー・オールライト』(元気なガキンチョ)だよ。必死だった。手作りの小冊子を、アーティスト、美術雑誌・ファッション雑誌の編集者に送った。
2、アメリカン・ドリーム
初めて作った作品集は意外な結果をもたらす。まずニューヨークの有名な雑誌がぼくに仕事をくれるようになる。そして決定的なことが・・・。ホイットニー美術館が注目し、いきなりぼくの個展を企画してくれた。
2003年に開かれた個展のタイトルは『キッズ・アー・オールライト』(このタイトルは、イギリスのロックバンド、ザ・フーが1965年に発表した曲の名前)。ぼくは23歳。ホイットニー美術館の歴史で最年少アーティストの個展というおまけつきだった。
一流の美術館で個展を開くことがどういうことか想像できるかな。近所の駅前で歌っていたストリートミュージシャンが、大手のレーベルのプロデューサーに注目され、いきなり武道館ライブを開くようなものなんだ。ぼくは一夜にして有名に、一流アーティストの仲間入りをする。アメリカン・ドリームの実現だ。
有名になって困った。ダウンタウンで自由に写真を撮れなくなってしまった。
それでNYを離れ、旅に出ることにした。2004年から10年間、夏になると、モデル、スタッフと、キャンピングカーに乗りアメリカ大陸横断旅行に出掛けた。アメリカ映画の歴史には、『ルート66』、『イージーライダー』、『ボニー&クライド』のようなロードムービーがある。ぼくたちも旅を続けた。そして牧歌的で平和な田園風景のアメリカ大陸を背景にヌードのモデルが駆け巡る『ロード・トリップ』という作品群が生まれた。
2008年からはマンハッタンでのスタジオ撮影も再開した。若者たちをスカウトし、スタジオでヌードになってもらった。もちろん、ヌードになってもらうのは大変だ。ぼくを信用してもらえる。お互いの共感が必要さ。だから必然的にモデルは、ぼくと同じ系統の人。アーティスト、俳優、詩人、ダンサー、クリエーティブな人たちのなっているね。
スタジオでは「アニマルズ」。小動物をポートレートの中に入れることも始めた。狙いは写真の中に自然を入れたいから。そして動物はコントロールできない。予測不能、ハプニングの要素を写真に入れたいからだ。
3、マンハッタン
ぼくの写真の特徴は何か?いい質問だ。
まず、ぼくの写真はノージェンダーだ。性的な関心でヌードを撮っていない。ぼくはゲイだ。だから歴史上に存在する、あらゆるヌード写真、裸体画とぼくの写真は根本的に違う。
つぎに、これは逆のことだが、ぼくは過去の写真、絵画、映画から影響を受けている。戦争写真、スポーツ写真、ランドスケープ写真、ヌード写真・・・さまざまな画像がベタベタ貼ってある「インスピレーション・ブック」をモデルに見てもらう。そしてイメージを共有するんだ。さらにリスペクトしているアーティスト、アンディ・ウォーホルリチャード・アベドン、ジョン・バスキア・・・彼らのやり方をぼくはマネしている。
そして、ぼくの写真の最大の教師は、マンハッタンというシティだ。ぼくはニュージャージー州の田舎町から、シティ(都会)に出てきて、遊び、写真を覚え、美術館でデビューし、仕事をした。すべてはマンハッタンのおかげだ。ぼくの作品は、NYの人、街、時代から生まれている(『RYAN MACGINLEY BODY LOUD!』東京オペラシティ文化財団、『美術手帖』2012.12 美術出版社を参考にしました)。