禅は、最新の脳科学を超えている

クリエーティブ・ビジネス塾48「禅・D鈴木」(2016.10.30)塾長・大沢達男

「禅は、最新の脳科学を超えている」

1、鈴木大拙
『禅と日本文化』(鈴木大拙著 北川桃雄訳 岩波新書)で禅を学習します。
鈴木大拙(1980~1966)は、日本の禅文化を世界に広めた仏教学者です。著作の多くは英文で書かれれたいて、『禅と日本文化』も英文を日本語に翻訳したものです。しかし不思議、この方がはるかに仏教を理解しやすい。若いうちにこの本をじっくり読んでいなかったことが、悔やまれます。
禅は、8世紀の中国で発達した仏教の一形態です。仏陀ブッダ)の精神を直接見ようとするものです。
禅は、知性によって眠らせている智慧(般若)を、目覚まそうとします(p.2)。
禅は、論理を軽蔑します。自分表現しなければならないときは、無言になります(p.2)。
禅は、身をもって体験すること、知的作用に訴えぬこと。禅のモットーは言葉に頼るなです(p.7)。
2、禅
(美術)見渡せば 花も紅葉もなかりけり、浦のとまやの秋の夕暮れ(藤原定家
わびとは、超絶的な孤絶性。貧困で時流と一緒にいない。時代を超えた最高の価値のものの存在を感じること。さびもまた、孤絶、孤独です。色即是空、空即是色。一即多、多即一。
(武士)汝は日々是れ汝の最期と考え、汝の義務を充(み)たさんがために、日々を捧げる(大導寺友山)
剣道の極意は死を恐れざること(p.47)。武士の学ぶ教えは押しなべてそのきわめには死の一つなり(葉隠p.50)。「清く死ぬ」ということは日本人の心に最も親しい思想の一つである(p.60)。
(剣道)僧は「行脚」。剣士は「武者修行」。あらゆる艱難辛苦をなめ、あらゆる鍛錬をする(p.98)。
刀の果たすべき務め。持主の意志に反するいかなるものをも破壊すること。自己保存本能から起こる一切の衝動を犠牲にすること(p.62)。無心とは死生の2元論を超越すること。無念、無想、無我。
儒教)日本においては、儒教、仏教、神道の三道の協調主義が唱導されている。
(茶道)禅と茶道は物事を単純化しようとする。禅は知性と戦う。知性は実用に役立つが、自分の存在をふかく掘り下げようとするのを妨げる(p.121)。茶の湯の精神は、和・敬・清・寂である(p.124)
○和は、調和(harmony)、和悦(gentleness)。和をもって貴しとなす。茶室のなかに種々雑多な階級の客が、無差別に饗応される。
○敬とは、自己の無価値への反省。有限性の自覚。他人への敬。敬とは心の誠実、単純さ(p.132)。茶の湯とは只湯をわかし茶をたてて呑むばかりなりを知るべし(利休p.131)。
○清とは、清潔であり整頓である。鍛錬の目的は五官の汚れから心を自由にすることである(p.123)
○寂とは、さび。静寂、平和、静穏。死、涅槃、貧困、単純、孤絶。さびはわびになる。
(俳句)古池や 蛙とび込む 水の音(芭蕉)
古池は「時間なき時間」を有する永久の彼岸に横たわっている。「宇宙的無意識」は創造性の原理、神の作業場である。芭蕉はこの「無意識」を自覚し、その経験がこの句を生んだ(p.170~172)。
究極心理は一般的に、概念的ではなく直感手的に把握されるべきだ。これが悟りで、悟りがなければ禅はない。禅と悟りは同意語である(p.151)
偉大な行為はみな、人間が、意識的な自己中心的な努力を捨て去って「無意識」の働きにまかせるときに成就される(p.160)。無意識なるものは不可思議の領域以外の何物でもない(p.162)。悟りは「狂う」こと、すなわち通常の意識のレヴェルたる知的レヴェルを超えることだ(p.163)。
3、ヒッピー
無意識。知性をきらう。言葉に頼らない。概念ではなく、直感に頼る。禅は、知的な作業を否定します。
理性や知性を否定するとは、大脳新皮質、ヒトの脳の働きを否定することです。無意識とは、ウマの脳・大脳旧皮質やワニの脳・大脳古皮質を使うことでです。それが、悟ること、狂うことです。
しかし最新の脳科学は、このことを全く解明していません。『つながる脳科学』(理化学研究所 脳科学総合研究センター 講談社)は、ニューロン神経細胞)が密集する大脳新皮質の研究です(p.95)。
禅は進んでいます。そして禅の影響を受けたヒッピーのムーブメントも進んでいました。セックス、ドラッグ、ロックンロールとは、無意識を拡張し、宇宙的無意識へ到達する運動であったからです。
禅は、とてつもなく前衛的で、人類の未来を見すえています。