荒木経惟への手紙

クリエーティブ・ビジネス塾34「荒木経惟」(2017.8.21)塾長・大沢達男

荒木経惟への手紙」

荒木さん、いや荒木先輩、ごぶさたしています。
電通の後輩、大沢達男です。多分数年の後輩です(第1宣伝技術局=現在のクリエーティブ局)。
と言っても、覚えていらっしゃらないでしょう。
電通時代の荒木さん最後のロケで、デザイナーの西川茂樹(西川は10年ほど前亡くなりました)と、ご一緒させていただいた、コピーライターの大沢です。
仕事のクライアントはある電器メーカー、商品はカラーテレビです。
全国津々浦々のお茶の間で、カラーテレビの楽しみは広がっている。その現地取材ということでCMクルーについて、グラフィックのスタッフも同行しました。
ぼくは1968年入社ですが、はじめての国内ロケでした。荒木さんが電通を退社されたのは1972年ですから、71年か72年のことです。
羽田からYS-11で高知に向かいました。
ぼくは飛行機の中から荒木さんの迫力に圧倒されていました。
荒木さんはペンタックスのハーフサイズ、36枚撮りフィルムで72枚撮れるカメラで、いつも写真を撮っていました。
飛行機の中から青い湖を見つけると「おー!いいぞ、<青い精液>だ!」と言って、バッシャ!。
70年代です。なにかを表現し、時代を動かすことは、当時の常識でいた。
ぼくたちは会社に入る直前まで、仲間たちとガリ版刷りの小冊子を作り、新宿駅頭で売っていました。
電通に入ってからも、まだ同人誌のようなもの作って、会社で売っていました。荒木さんにも買ってもらいました。
荒木さんも、ぼくとはレベルが違うけれど、「芸術」をしていました。ギンザのキッチンラーメンの壁一面に写真を展示したり、『水着のヤングレディたち』、『便所』などの写真集を出しました。いまでは伝説の『センチメンタルな旅』もそんななかの1冊でした。写真部の誰からか1000円で買いました。
荒木さん、高知に着いても、あなたは話すように写真を撮りつづけていました。
旅館では部屋に来た女中さんにカメラを向けました。ふすまの前に立たせて、「お!?いいよ!」、「もっとうなじを見せて!ソォーそれそれ!」。
売春婦の所にも行きました。荒木さんが個室で何を撮ったかは知りません。
ストリップにも行きました。荒木さんはジャケットの中にカメラを隠しました。
「撮っているのを、コワーいお兄ーさんに見つかるとまずいからさぁ」。
電車に乗ると、窓にカメラを置きます。「電車が止まったらシャッターを押す。自分の意志は関わっていない。これがイーんだよ!」芸術論を展開しながら、写真を撮りつづけました。
時代はアンディ・ウォーホル大島渚横尾忠則武満徹そして、草月会館のアートイベントでした。
荒木さん、エネルギッシュあなたを生んだのは、間違いなく70年代という時代でした。

荒木さん、あれから半世紀近くになります。
「写狂老人A」(荒木経惟 東京オペラシティ アートギャラリー 2017.7.8~9.3)と「センチメンタルな旅 1971-2017-」(荒木経惟 東京写真美術館 2017.7.25~9.24)を拝見しました。
荒木さん、あなたは70年代そのまま、「芸術」を続けていますね。
「大光画(だいこうが)」の「人妻エロス」。いいですね。谷崎潤一郎です。
エロスに年齢制限はありません。みなさんとても美しい。みんな、いまでも燃えるようなセックスをして失神したいのです。エロスの奥は深い。エッチに卒業はない。きょうも、ゼロからエロを学ぶべきです。
「八百屋おじさん」。これぞ荒木です。電通の先輩のコピーライターが言いました。荒木さんの撮った写真のコンタクトを見ながら、「アラキはなんでも汚く撮る。みんなキタナくしてしまう」(つまり、使えない)と、
ため息をついていたのを思い出します。八百屋のおじさんは、ホント、汚い。アジアが写っています。
「遊園の女」。荒木さんがちゃんと写真を撮れるとは知りませんでした。これはファッション・フォトグラファーのヘルムート・ニュートンに負けていません。外国で評価されるのがわかります(続く)。