クリエーティブ・ビジネス塾10「資本論①」(2018.3.5)塾長・大沢達男
枯れてない 再び挑む『資本論』 カトレアのように 派手に生きる
1、科学
カール・マルクス(1818~1883)は、生物学のダーウィン(1809~1882)とほぼ同じ時代を生きました。進化論の成功に大きなコンプレックスを抱いていました。ほかに、小説のドストエフスキー(1821~1881)がいます。ともに厳密な思索で、「経済」と「神」を、問いつづけました。でもそれはあくまでも「思索」にとどまりました。さらに、絵画のマネ(1832~1883)がいます。マルクスとマネも似ています。ともに優れた感受性で、産業社会に異議を唱え、時代を先取りし未来を見ていました。
『資本論』(1867年)は、「近代社会の経済的運動法則を明らかにすることこそ、この著作の究極目的である」(『資本論第一巻』 p.9 今村仁司・三島憲一・鈴木直訳 筑摩書房)、そして結論的に「要するに経済生活は、生物学の領域で見られる発展史と似たようなな現象を示すということである」(p.22)と論じ、『種の起源』(1859年)に負けないような「科学」の書を目指して書かれました。
「科学」とは弁証法です。正、反、合です。テーゼがあってそれに対立するアンチテーゼがあり、それが止揚されてジンテーゼになるというものです。マルクスはヘーゲルの弁証法を唯物弁証法として発展させ、「自然、人間社会及び思考の一般的な発展法則についての科学」(広辞苑)としました。
マルクスは大英博物館に30年間も通って勉強しました。つまりアームチェアに座りあれこれ思索しました。しかし、いまでは弁証法を「科学」と呼ぶ人はいません。資本論の魅力はややこしい哲学書の面白さです。
2、労働価値説
<資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現れる。したがってわれわれの研究は商品の分析からはじまる>(p.55)つまり現代社会の矛盾は、たったひとつ商品の矛盾にある、という美しい論理体系です。
<(商品の)使用価値または財は、抽象的に人間な労働のなかに対象化されている、あるいは受肉しているからこそ価値をもつ(p.61)><ひとつの使用価値の大きさを決めるのは、もっぱら社会的に必要な労働量、またはその使用価値の生産のために社会的に必要とされる労働時間なのである(p.62)>
いわゆる「労働価値説」が展開されます。何ともなじめません。ロボットとAI(人工知能)がされている世の中です。だれでも「?」、ここで立ち止まってしまいます。
しかしこれはマルクス独自の理論展開ではありません。アダム・スミス、デビッド・リカード、古典派経済学はみな「労働価値説」をとります。対して近代経済学は「効用価値説」です。商品の価値は買う人の効用(必要度、満足度)で決まり、商品の価格は需要と供給で決まります。
「労働価値説」はなじめませんが、マルクスの場合は、「労働価値」が「剰余価値」に展開され、資本家による労働力の搾取へと理論が発展する、資本論の根幹部分になっていきます。
3、恐慌
フェティシズム(物神崇拝)という言葉が出てきます。哲学的思弁的です。
<労働生産物は商品になる。すなわち感覚的にして超感覚的な物あるいは社会的な物になる(p.111)><商品世界では人間の手の産物がそれと同じようなふるまいをする。私はこれをフェティシズムと名づける(p.112)>そして商品は貨幣に変容します。<貨幣フェティッシュの謎は、商品フェティッシュの謎が目に見えないようになったものでしかないが、まさにそれこそが人目をくらませ盲目にしてしまうのである(p.142)>。これぞマルクス節。哲学的というより文学的、今後の理論展開に期待するしかありません。
つぎに、マルクスは古典派経済学の先達たちに猛然とかみ付きます。<どの販売も購買であり、どの購買も販売であるという理由で、商品流通が販売と購買の必然的均衡をもたらすとうドグマほどばかげたものはものはない(p.170)>。商品にも商品流通にも矛盾があります。そしてちょっと長くなりますが引用します。
<商品に内在する使用価値と価値の対立、私的労働が同時に直接に社会的労働として表現されなければならないという矛盾、特殊な具体的労働が同時に抽象的な一般的な労働としてのみ通用するという矛盾、物象の人格化と人格の物象化の矛盾ー(中略)これらの形態は恐慌の可能性を、とはいえあくまで可能性にすぎないが、含んでいる(p.171)>。マルクスは『資本論』のイントロで「恐慌」の結末を予告します。
では、今回はこのあたりで。