THE TED TIMES 2022-26「市毛昌子」 7/28 編集長 大沢達男
「みやびの人、市毛昌子を追悼する。」
(市毛昌子:昭和6年12月3日、東京・本所に生まれる。父は巳代治、母は静子。昭和20年3月の東京大空襲では隅田川の支流に飛び込み奇跡の生存。疎開先の長野県岡谷東高校卒業後、帰京し東京都公務員になる。市毛義次と結婚、長男泰、長女美佳が誕生。大東書道院で書家・市毛昌華として活躍。令和4年7月28日死去)
1、雅(みやび)
風流、上品、都会的であることを雅(みやび)と言います。雅とは「宮ぶ」、宮廷風であることです。
姉、市毛昌子は、「昌子」を「雅子」と書きたいほど、みやび(雅)の人でした。
生涯、お洒落に生きました。それは奇跡でした。
昌子は22歳の時に父を失っています。
6人兄弟の長女で、そのとき、一番下の妹はまだ小学校2年生でした。
父の死の瞬間から、母と5人の兄弟の生活が、昌子の肩にかかってきました。
・・・でも彼女は生活苦の人にはなりませんでした。あくまでも、みやびの人でした。
まず昭和6年生まれの人と思えぬほどに、着る物、ファッションに気を使っていました。
大型客船に乗って旅をした時の写真が残されています。
決して、シャネル、ディオール、サンローランで着飾っているのではない、生まれながらにセンスがいい、みやびなのです。
そして生涯、書道に親しみ、中国の書と日本の書を学びました。
決して文章家ではありませんが、書くことは彼女の生活の中にありました。
亡くなる、1週間前まで、日記をつけていました。
書や文章が中心ある生活を風流と言います。昌子はみやびの人でした。
なぜ市毛昌子はみやびの人だったのでしょうか。これからその謎に迫ります。
2、大澤甚之助
昌子は、大沢巳代治と静子の両親に、生まれています。
父の巳代治は東京錦糸町・精工舎の時計職人、母の静子は乾物屋の娘です。
下町バリバリ。ともにみやびの人とは程遠い。
巳代治の両親は、甚之助としづ。
甚之助としづは、結婚が許されず、千葉の君津(多分、木更津から)から船で東京に逃げてという、とんでもない人たちです
庄屋の娘のしづが、勧進相撲のチャンピオンの甚之助を見染め、道ならぬ恋の落ちてしまったのです。
今で言うなら、ロックミュージシャンの追っかけが、ボーカルと結婚したようなものです。
甚之助は苗字もわからぬ馬の骨、足袋職人。大澤の「姓」はしづのものでした。
みやびとは程遠い人に思えます。
一方、母の静子の両親は、しっかりしています。
父は犬飼平五郎、母はきんと言います。犬飼は尾張の人、きんは信濃の人でした。
犬飼の姓の7割は尾張、愛知県の人、犬飼平五郎は犬飼家の本流でした。
江戸時代のベストセラー『南総里見八犬伝』の主人公の一人は犬飼現八(いぬかいげんぱち)です。
昌子のみやびはこの家系からと思いましたが、家系図の源には百姓しかありませんでした(静子の妹・君江の証言)。
3、壬申の乱
20年ほど前、私(市毛昌子の弟・大沢達男)は不思議な体験をします。
千葉県君津市の鹿野山(かのうざん)でゴルフをするために、祖父・大澤甚之助の故郷・君津市を初めて訪れ、宿泊しました。
だれかが私を呼んでいました。
ホテルを飛び出し、なるべく由緒がありそうな食事どころで、夕食をとりました。
「このあたりに、平家か源氏か、都の方から、落ち延びてきた人の伝説がありませんかね?」
もちろん、答えはノー!でした。それでもなおその晩、私はだれかに呼ばれていました。
もう一件、飲み屋に行きました。そして同じ質問をしました。やはり答えはノー!でした。
・・・それから数年、インターネットが発展しグーグルで、なんでも調べられる時代になります。
そして君津市のあの晩、私がだれかに呼ばれているの直感は、歴史的事実により、証明されるようになります。
私の先祖が、私を呼んでいたのです。
672年壬申の乱(じんしんのらん)。
天武天皇と天智天皇の息子・大友皇子(おおとものおうじ)の皇位争いの壬申の乱で、破れた大友皇子の一行が、千葉県の君津に逃げてきました。
私がゴルフをした鹿野山の北のふもと、君津市俵田(たわらだ)の白山神社に、大友皇子が祀られていました。
逃げてきた一行は、大友皇子、妃の十市皇女(額田王の娘)、その女官たち、そして左大臣(いまでいえば首相)の蘇我赤兄(そがのあかえ)もいました。
蘇我赤兄は、聖徳太子に仕えた蘇我馬子の子孫であり、渡来人と深い関係にありました。
白山神社の近辺には、末吉神社、十二所神社があり、ゆかりの人たちが祀られています。
歴史学者・網野善彦(あみのよしひこ)が、画期的に新しい日本の歴史の見方を提案しました。
いままで、武士や農民の影に隠れていた職人・芸人にスポットを当てたのです。
彼らこそが、皇室の周りにいて、日本文化の根幹をになってきた人々である。
私は直感しました。
どこの馬の骨かわからぬ足袋職人、だけれど相撲の強い美男子、大澤甚之助は、大友皇子一行の末裔だったのです。
そして君津市で過ごしたあの晩、私をしきりに呼んでいたのは、大澤甚之助とその先祖だったのです。
姉昌子のみやびの源には、大友皇子(明治3年に弘文天皇と追号されます)とその取り巻きの血があった、それが私の結論です。
生活苦をものともせずにみやびに生きた姉は、鄙(ひな)びの人(田舎者)には追いつけぬ洒落たセンスの持ち主で、書くことが日常の中にあった風流人でした。
誤解をして欲しくありません。大澤の先祖には皇室があったと、主張しているのではありません。
数学の得意の人にはすでにおわかりでしょうが、壬申の乱から令和の私どもまでは、1300年以上昔、何10世代もあります。
もし血の繋がりあったとしても、2に数十乗分の1、つまり何億分の1といういうことになります。
市毛昌子は、皇族とその取り巻きの人の、何億分の1の血が蘇った、奇跡の人だったのです。
私も、姉の昌子に便乗して、血のつながりの奇跡を、信じています。
たくさんの政治家のポートレートを撮ってきた電通のベテラン・カメラマンは、鳶色(とびいろ)瞳を持つ色白の私(当時は30代)を見て、
「大沢の先祖は、農民ではないな。かといって武家でもない。まあ公家だ。公家の顔だ」
(お公家さま!!野暮言うな、こちとらの父親は時計職人で、将棋と都々逸(どどいつ)が得意な下町の芸人でえ!!)
・・・学問がないのは恐ろしいことです。「職」と「芸」こそが、公家や皇室に繋がるものでした。
私の過去を「予言」したベテラン・カメラマンの見立ては鋭かったのです。
『日本書紀』は、大友皇子の最後は滋賀だと書いていますが、そのとき命を絶ったのは影武者でした。
真の大友皇子は逃れて、愛知県の岡崎で、神奈川県の伊勢原で、そして千葉・君津市で亡くなった、という伝説を生み出しました。
先祖は明らかに私を呼んでいます。
先日、神奈川県伊勢原にある「大友皇子の陵」を偶然に訪れたとき、膝まづいた私は、体内の血が音を立てて逆流し始める感覚にとらわれ、涙を流し、ただありがたく・・・動けなくなってしまったのですから。
昌子姉さん。
これまで話してきた古代のロマンを、あなたと話したかった。
その機会を、今か今かと、待ってきました。
それはいまやかなわぬ夢、それが悲しい、切ない、虚しい。
みやびの人、昌子お姉様のご冥福をお祈りします。
令和4年8月3日 告別式の日
大沢達男
*壬申の乱に関する記述は、ほぼ定説に従っています。
大澤と犬飼の祖父母の名は、戸籍に当たることなく、私のうろ覚えで書いています。
用字などで間違えがあるかもしれません。お許しください。
*大沢達男は昭和18年8月5日生まれで、昌子姉とは12歳違いの弟です。
都立青山高校、横浜市立大学卒。電通のCMクリエーターを経て、現在はフォークロック・グループ「団塊の世代」の作詞家と、ソプラノ歌手大島(片野坂)栄子の専属フォトグラファーをやっています。
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