「社会保障」から「共生保障」へー地域で「いき」に生きるー

TED TIMES 2020-64「社会保障」 11/30 編集長大沢達男

 

社会保障」から「共生保障」へー地域で「いき」に生きるー

 

1、社会保障 1)イデオロギー 2)英国 3)フリードマン

2、アベノミクス 1)浜田宏一 2)岩田規久男 3)本田悦朗 4)黒田東彦 5)今井尚哉 6)竹中平蔵

3、古典派経済学 1)白川方明 2)大恐慌 3)機会の平等・結果の平等

4、共生保障 1)新・三本の矢 2)SDGs 3)ユヴァル・ノア・ハラリ 

5、「いき」に生きる 1)隣組 2)世のため人のため 3)地域で「いき」に生きる

 

1、社会保障

1)イデオロギー

社会保障がしっかりしている社会は、いい社会だ。社会保障は理想的な国家建設の重要な施策だ、社会保障は「善」だ、と私たちは暗黙に考えます。

しかし知らないとは恐ろしい。

ちょっと勉強しただけで、社会保障とは、「善」でも「正義」でもなく、極めてイデオロギッシュな主張だとわかります。

 

2)英国

社会保障(Social Security Schemes)とは、労働者を失業から守り、貧困者を救い所得を保障することや、医療や介護の社会的なサービスです。

社会福祉と同じような意味で使われます。

産業革命以降に、救貧法、疾病保険、労災保険、年金保険・・・ヨーロッパの国々で、さまざまな制度が考え出されますが、現在につながる「社会保障」は、英国から始まりました。

1942年のべヴァレッジ報告書の「ゆりかごから墓場まで」の社会保障計画の提唱からです。

そして社会保障は世界の常識になり、私たちは教科書で教わるようになります。

 

3)フリードマン

この「社会保障」を真正面から否定する、ノーベル経済学賞受賞の経済学者がいます。

○「福祉体制のもたらした主要な悪は、それがわれわれの社会の構造にもたらした悪影響だ。それは家族の絆を弱め、自分で働き、自分で貯蓄し、自分でいろいろと新しい工夫をしようとする人びとにさせる誘因を減少させてきた」(『選択の自由』 p.203 M&R・フリードマン 西山千明訳 日本経済新聞社)。

○「福祉制度が、巨大な弊害を発生させている理由は、それが被援助家庭に害を与えこれを崩壊させていっているだけでなく、民間の慈善活動という湖にも毒を流し込んで汚染させていっているからだ」(p.196)。

○「権力の行使こそが福祉国家の核心であり、それが達成しようと目指しているよい目的でさえも、この悪い手段がやがて腐敗させていく。これこそが福祉国家がわれわれの自由をこれほど深刻に脅かしている理由でもあるのだ」(p.190)。

社会保障福祉国家の完全否定です。

社会保障」は正義どころか「邪悪」です。

頭のおかしな変なおっさんの主張ではありません。

ミルトン・フリードマン(1912~2006)は、アダム・スミスハイエクとつながる、古典派経済学の巨匠です。

そしてやがてフリードマンの主張は世界に大きな影響を与えるようになります。

まず、社会保障の英国、サッチャー政権。そして米国でも、レーガン政権。さらに日本の小泉、安倍の自民党政権にも、影響を与えるようになります。

つまり現在の経済学の世界では、社会保障「否定」が本流で、社会保障「肯定」が支流になっています。

<安倍政権の社会保障はどうであったか>という問い自体が、イデオロギッシュであることを頭に入れて、安倍政権の社会保障政策を、政権を支えた4人のテクノクラートから、考えてみます。

 

2、アベノミクス

アベノミクスの基本構想を作ったのは、四つの田んぼ、浜田、岩田、本田、黒田です。

 

1)浜田宏一はまだこういち1936~)・・・2012年12月から2020年9月まで内閣官房参与、つまり安倍内閣ご意見番です。

浜田自身はリフレ(リフレーション)派と自らを規定しています。

アベノミクスの基本にある考え方は、リフレ(リフレーション)と呼ばれるものです(『アベノミクスとTPPが創る日本』p.3 浜田宏一 講談社)。

リフレーションとは、米国を大恐慌から救った政策で、デフレーションから脱出し本格的なインフレーションに達していない状態のことです。

政策の基本は、インフレターゲットの設定と、マネタリーベース(現金の通貨量+民間の金融機関が中央銀行預けた預金)を増やすことです。

浜田の先生は、イエール大学のジェームズ・トービン(1918~2002)です。トービンはジョン・メイナード・ケインズの支持者で、フリードマン(論敵)らのマネタリストと財政・金融政策の論争をしています。

 

2)岩田規久男(1942~)・・・上智大学教授。2013年から日銀副総裁。リフレ派。

『リフレは正しい』(岩田規久男 PHP)は、アベノミクスの解説書ですが、2012.11.15の安倍自民党総裁の「日銀に2~3%のインフレを目指して大胆な金融政策をとってもらいたい」という発言から、書き始められ、13年3月に出版されています。

まだ野田政権のときです。

2012年12月末の選挙で安倍総裁はアベノミクスを掲げ勝ち、政権を奪還しています。

つまり岩田は、アベノミクスを構築した中心的な人物、として考えられます。

○なぜ日本だけデフレが長引き、円高になってしまったか。○なぜ日銀はダメなのか。なぜ誤った政策を取るのか。○デフレを脱却するには金融政策しかない。

だからアベノミクスをやる、明快です。

 

3)本田悦朗(1955~)・・・大蔵省出身。2012年の第二次安倍内閣内閣官房参与浜田宏一ともに国際金融を担当。

マネタリーベースを上げ、円高克服、デフレ脱却。 本田は『アベノミクスの真実』(本田悦朗 幻冬舎)を2013年4月に出しています。

黒田東彦日銀新総裁が誕生した1ヶ月後です。

このタイミングでアベノミクスについて語れることは政策策定の中心にいたことの証明です。

日銀批判が強烈です。とりわけ2000年8月速水優日銀総裁によるゼロ金利政策解除に対して、存命中だったポール・サミュエルソン教授が日銀総裁を批判した、というエピソードが印象に残ります。

安倍総理が日本を「みずほの国の資本主義」でやっていくというのを、本田は評価します(P.216)。

そして豊富な国際経験から本田は、<天皇を中心にした文明が今でも国民の中に息づき、国民を慮(おもんばか)る天皇を国民が敬愛する、このような国は、世界でも日本だけです>(p.219~0)と、皇室伝統を賛美します。

 

4)黒田東彦(くろだはるひこ1944~)・・・2013年3月から現在までの日銀総裁です。

黒田は「ミスター円」・榊原英資の後任として、1999年~2003年、大蔵省財務官を務めています。

○2%インフレの物価目標を設定した。○量的金融緩和政策をとった。日銀は2013年から19年までに380兆円のマネタリーベースをを拡大した。○人口減はデフレの原因ではない、10数年にわたるデフレの原因は日銀にある、と断定した。

以上の黒田の姿勢を、浜田宏一は高く評価しています。

 

5)今井尚哉(いまいたかや 1958~)・・・通商産業省出身。2012年内閣総理大臣秘書官、2019年内閣総理大臣補佐官を務めました。

アベノミクスの実現に、経済産業省グループを率いて安倍政権に協力した、産業政策、エネルギーの専門家です。安倍内閣の「1億総活躍社会」、「GDP600兆円、出生率1.8%達成」のスローガンの考案者として知られています。

今井は政界のサレブレッドです。

叔父の今井善衛が安倍晋三の叔父・岸信介と商工官僚同士で、通商産業省事務次官を務め、叔父の今井敬は新日鉄の社長で経団連会長、日本原子力協会理事長です。

福島第一原子力発電所事故のあと、民主党政権幹部に関西電力大飯発電所の再稼働を説得したことで、名をあげました。

 

6)竹中平蔵(たけなかへいぞう1951~)・・・小泉内閣で2001年より、経済財政政策担当大臣、金融担当大臣、郵政民営化担当大臣、総務大臣を歴任しました。

竹中は、自分が内閣にあったころの日銀を、愚策の連続として激しく非難し、アベノミクス黒田東彦日銀総裁を評価しています。

「異次元の金融緩和」、つまり物価目標2%を掲げマネタリーベースを増やし、株価上昇と失業率低下をさせたからです(『平成の教訓』 p.314 竹中平蔵 PHP新書)。

消費税増税規制緩和の遅れは、政府サイドの問題で日銀のせいではない、黒田を擁護します。

『平成の教訓』(改革と愚策の30年)で、1989年(平成元年)に世界の企業の時価総額トップ10に7社、2018年(平成30年)に0社、30年間にわたる日本の凋落の例をあげ、竹中は三つの興味深い指摘をしています。

○平成の政策が、ケインジアン一辺倒で、景気が悪くなると、公共事業の拡大、総需要拡大政策をとったことです(p.45 p.159)。

他の選択もありました。デマンド(需要側)ではなくサプライサイド( 供給側)を強くする政策、つまり不良債権処理、規制緩和、成長戦略などの構造改革です(p.255~6)。

もう一つは金融政策、ちょっとややこしいのですが、「マンデル=フレミング効果」(モデル、法則)です。財政より金融、金融緩和、金融引き締めをしなかったことです(p.275)。

○民営化で気をひく竹中のアイディアがあります。

有楽町駅前の交通会館は東京都が半分の株を持っているから、開発が遅れたまま、東京都は株を手放すべき。

東京メトロの株は、国が半分、都が半分、早く私鉄にすべき。

東京都水道局の事業の民営化へ。すぐれた技術を世界に売り、世界企業に変身させる。

いずれも、だれもが知っている問題、なるほどの解決策。竹中の実力、人気がわかります。

構造改革とは対立しますが、日本の社会の特徴に関しての重要な指摘もしています。

2019年(平成31年)国内時価総額スト20社に国営、公社を前身とする古い企業が7社入っている、日本の国の特徴である(p.145)。

そして日銀総裁が、国会に出席するときのお供の数の多さ(p.286)。

さらに失政で個人の責任を追及できない風土。「同調圧力」、「罪を憎んで人を憎まず」、みんなで決めた、みんなに責任がある。誰かに責任があるわけではない。だから失政を検証できない(p.290~)。

日本経済、日本社会、日本文化についての、極めて重要な指摘です。

 

3、古典派経済学

1)白川方明

アベノミクスの浜田が批判し、小泉改革の竹中が批判した日銀は、何をしてきたのでしょうか。

2008年から2013年まで日銀総裁であった白川方明(しらかわまさあき 1949~)は、1972年日本銀行入行後、シカゴ大学ミルトン・フリードマンの授業を受けています。

○日本経済の問題(デフレ)は、人口動態である。課題は、人口減少と高齢化の中でどう成長させるか。

○デフレ対策として、先進国最大にマネタリーベースの金融緩和をしても、成長しないことが問題である。

インフレ誘導政策を中央銀行が取るべきではない。

○金融緩和の効果がでないのは、政府が財政再建をしないからである。

さすが、フリードマンに学んだ白川です。レッセフェール(自由放任)、すべては市場に任せる、政府は余計なことをしない。

これぞ古典派経済学、マネタリストの主張です。

 

2)大恐慌

アダム・スミスハイエクフリードマンと続く古典派経済学で、フリードマンはデフレの「予防薬」を発見しました。

ケインズ政策はデフレの「治療薬」でしかありません。

新型コロナ感染症の例を見ればわかります。「治療薬」より「予防薬」であるワクチンがどれほど望まれているかです。恐慌の「治療」より「予防」です。

1929年の大恐慌は、資本主義の欠陥で資本主義が必ず陥る病と考えられていました。

だから恐慌の「治療」を発見したケインズ、公共事業によって有効需要を喚起した政策は、経済学のヒーローになりました。

しかしフリードマンは恐慌から50年後になって、恐慌は資本主義の病ではなく、金融政策で誤りを犯した連邦制度準備会議(中央銀行)が原因、であったと指摘します。

○<合衆国銀行が営業を停止した1930年12月11日が決定的な日になった。「合衆国銀行」は、普通の商業銀行だった、しかし名前から国立銀行のように誤解された。倒産は深刻な打撃になった。「合衆国銀行」を救う手立てはあった、でも救われなかったのは経営者がユダヤ人であったから、反ユダヤ主義者によって見捨てられた><合衆国銀行の閉鎖は、深刻で、取り付け騒ぎが増え、12月だけで352の銀行が倒産した>(『選択の自由』 p.130~2の要約 M&R・フリードマン 西山千明訳 日本経済新聞社

○<金融恐慌はかなりの程度まで連邦準備制度がとった政策によって引き起こされた。そして疑いもなく金融恐慌は、それがなかった場合よりはるかに経済恐慌を悪化させた>(p.137)

○<連邦準備制度の現実の行動は、いまや政府部門こそが経済的不安定を生み出す主要な源であるという現実を、事実をもって証明し続けている>(p.143)

大恐慌は、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」、ニューヨーク株式市場が崩壊したときに始まったとされています。

しかし直後、ニューヨーク連邦準備銀行は、公債の買い操作で民間銀行の預金準備を増大させ、企業に対する衝撃を緩和します。

ところが連邦準備制度理事会は、ニューヨーク連邦準備銀行を懲罰、リーダーシップを確立し、冒頭の愚策を開始します。

大恐慌は、連邦準備制度理事会中央銀行)の無策、愚策によって引き起こされたが、フリードマンの主張、新発見です。

 

3)機会の平等・結果の平等

ここで最初の問題、社会保障は善でも正義でもない、最初の問題に立ち返ります。古典派経済学(フリードマン)がなぜ、社会保障に否定的なのでしょうか。

○平等とは、「機会の平等」であって、「結果の平等」ではない。スタートラインに並んでヨーイ!ドン!でスタート。ゴールで差ができるのは当たり前です。

みんな並んで、手をつないで、ゴールするのが、「結果の平等」、愚策です。

<「結果の平等」は自由と衝突する。「結果の平等」は、政府を巨大化させる、政府による自由の制限を生み出す>(『選択の自由』p.205~6の要約)。

<「結果の平等」を強調する社会は、平等も自由も達成できない>(p.237)。

○政府は自由な経済活動に余分な手出しをするべきではありません。

アダム・スミスは政府の役割について答えている。1)暴力、侵略に対して防衛する。2)不正や強制を許さない法の執行をする。3)公共事業、公共施設を樹立し維持する。>(p.46~7)

大きな政府はムダです。

<福祉プログラム(健康・教育・厚生省)の予算は全軍事費の1.5倍、巨大な帝国を管理している。全米の100人に一人が働いている>(p.151要約)

<誰かのカネを誰かに使うことは、全ての人を腐敗させる。使う人は神に近い権力を持ったと考える。もらう人は幼児に似た依存心を持つようになる。道徳的構造を究極的には腐らせる>(p.189の要約)

古典派経済学から学ぶことが、もう一つあります。

<人はそれぞれ自由に経済活動をするが、その結果はどうなるかはわからない、予測することはできない、科学的に解明することはできない>(『隷属への道』ハイエク 春秋社)。

経済の動きは分からない、不可知論が根底にあることです。社会の運動法則を明かにしたという『資本論』のカール・マルクスとは違います。数学的に経済活動を解明するケインズ経済学とも違う見識があります。

 

アベノミクスには、さまざまな経済思想による政策が盛り込まれています。

2013年6月の安倍内閣アベノミクスは以下の通りです。

第一の矢。「大胆な金融政策」。・・・デフレ対策として2%のインフレ目標量的緩和円高の是正。(リフレ政策)

第二の矢。「機動的な財政政策」。・・・公共投資。(ケインズ政策

第三の矢。「民間投資を喚起する成長戦略」。・・・全員参加、若者、女性、健康長寿社会の成長産業。(サプライサイド政策=減税、規制緩和、小さな政府)

リフレ、ケインズ、サプライサイド、古典派経済学。小さな政府主張するフリードマンの影響も見逃すことはできません。

一方、白川方明の日銀は、金融緩和のマネタリストフリードマンの教え通り、インフレ目標をたてることをしませんでした。

浜田、岩田の、はたまた竹中の、日銀批判が正しいのか、それとも日銀が正しいのか。

まだわかりません。現在進行形です。

 

4、共生保障

1)新・三本の矢

2013年のアベノミクスに「社会保障」の文字はありません。安倍政権での社会保障は、2015年の「新・三本の矢」で、初めて示されます。

新・第一の矢。希望を生み出す強い経済。・・・GDP600兆円。従来の三本の矢を強化。

新・第二の矢。夢をつむぐ子育て支援。・・・出生率1.8へ。待機児童解消、幼児教育無償化の拡大。

新・第三の矢。安心につながる社会保障。・・・介護離職者数ゼロへ。介護基盤整備、介護休業を取れる職場。生涯現役社会。

これはテクノクラートの構想ではなく、政策より施策、官僚的、今井尚哉的な発想です。

さらに安倍政権は2016年に「ニッポン1億総活躍プラン」を提示します。その中で新しい社会保障の姿が提示されます。

「地域共生社会の実現」です。

住民が役割を持ち、支え合い、自分らしく活躍できる地域コミュニティを作ることです。

厚生労働省はさらにそれをブレイクダウンし、「地域包括ケアシステム」を掲げます。

団塊の世代が2025年に75歳以上になる。要介護になっても住み慣れた地域で最後まで生活できるようにしたい。

住まい、医療、介護、予防、生活支援が一体的に提供できるようにする。

なぜそんなことを構想する必要があるのでしょうか。

爆発的に増える後期高齢者・要介護者のための、金がない、人がいない、施設がない、からです。

「地域共生社会の実現」は、自助、互助、共助、公助でなされます。

支える者も支えられる、支えられる者も支える、助け合いです。金を使うだけでなく、金を生む仕事を作る、地域社会を作ります。

社会保障」ではなく、「共生保障」です。

「共生保障」とは、『共生保障(<支え合い>の戦略)』(宮本太郎 岩波新書)で、提案されている新しい言葉です。

<共生社会は、生活保障の再編が目指す社会像>で、<共生保障は、生活保障を地域の現実に対応させ、刷新していく方向を示すための言葉>で、<つながりをつなぎ直し、支え合いを支え直す>のが、共生保障です。

○経済的自由主義は、自助が中心、「支える側」の活躍条件の拡大とトリクルダウン(富める者が富めば、貧しい者も豊かになる)でした。

保守主義は、家族や地域共同体における「支える側」と「支えられ側」の靭帯強化、互助と自助でした。

○リベラル派は、「支えられる側」の権利擁護、公助に重点がありました。

○共生保障は、「支え合い」を支える、自助、互助、共助、公助の連携です(p.211)。

素晴らしい。宮本は、アダム・スミスも、マルクスも、ケインズも、フリードマンも、超えています。

しかし残念。人間はなぜ助け合うのかを宮本は、「鳥のダニ取り」の社会生物学の例をあげて、説明します。

はじめ、利己的な鳥が繁栄し、利他的な鳥は姿を消す、でも最後にはお互いさま鳥が繁栄する。人の社会も同じである(『共生保障』p.194~6)。

読んでいて、すっかりシラけました。この人は、人間の想像力を知らない、素朴な科学主義、あまりにも19世紀的だ、と思ってしまいました(宮本さん、あそこはみっともないから、書き直してほうがいい)。

なぜ、「世のため、人のため」の私たちの常識では、いけないのでしょうか。

「利他の心」ではいけないのでしょうか(『生き方』稲盛和夫 サンマーク出版)。

「向こう三軒両隣」を基本にした地域作りではいけないのでしょうか(『命を守る東京都立川市自治会』(佐藤良子 廣済堂新書)。

結論を先取りして言えば、共生保障は、一神教ではない「多神教」、単一言語・単一民族の「日本」というキーワードで、説明されるべきです。

 

2)SDGs

共生保障に似た取り組みが現在、世界で行われています。

SDRs(エスディージーズ=Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)です。

2015年9月国連サミットで採択された2030年までの開発目標です。17の目標と169のターゲットがあります。

レインボーカラーの丸いバッチを付けている人を見たことがあると思います。あれです。

数ある目標とターゲットは、3つの領域にわけることができます。環境問題(温暖化、エネルギー、生物の多様性)、経済問題(格差、福祉、失業率)、社会問題(貧困、教育、紛争)です。

どの問題も、ひとりの力、ひとつの地域、ひとつの国では解決できない問題です。支え合う、助け合う、共生が必要になります。

最近の私たちはプラスティック製のレジ袋の代わりに、紙製の袋を使うようになりました。大きな前進です。

私はチョコレートが好きですが、カカオ生産には、児童労働で支えられています。チョコレートを食べることは児童虐待の犯罪に加担することなります。

解決する方法があります。「フェアトレード認証」のついたチョコを買うことです(『SDGs超入門』 p.130 バウンド著 技術評論社)。

アジアからの発言もあります。タイのプミポン・アドゥンヤデート国王(プミポン国王)は1997年のアジア通貨危機のとき国民に向かって「足るを知る経済」を提唱しています。

「国民はあまりに野心的で強欲」と感じていた国王が過度に富を求める国民を諫(いさ)めました(p.148)。

仏教の教えにならった「節度」が必要という考え方です。

SDGsにアジアの故プミポン国王が登場するのが今の時代です。

そして、よく考えてみると温暖化も格差も紛争も、すべて西欧の白人が引き起こした問題である、ことに気がつきます。

西欧人は、ヨーロッパ大陸北米大陸で、60~80%の森林を伐採し、自然を破壊しました。

西欧人は、奴隷を使い、奴隷貿易で、豊かさを獲得しました。

西欧人は、「わたくしのほかに神があってはならない」の一神教の教えで異教徒を虐殺し、征服し、紛争を起こしています。

 

3)ヌヴェル・ノア・ハラリ

西欧人、キリスト教、近代思想の神話を、『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳 河出書房新社)は、粉々に打ち砕き、世界のベストセラーになりました。

○まず、アメリカ合衆国批判。

1492年(コロンブスの米大陸「発見」)以前に、アメリカ大陸に「馬」は存在しませんでした。白人によって持ち込まれたものです。

白人がやってきて、北米大陸は大型哺乳類47属のうち34属を失っています。

もちろんネイティブ・アメリカンは白人により絶滅状態になります。

○そして、大英帝国批判。

1769年にジェームス・クックにより「発見」されたオーストラリアの島々は、イギリス領になります。

征服者はまずこの大陸の生態系を昔の面影がないほど変えます。動物種24種うち23種を絶滅させます。

そればかりか、タスマニア人は皆殺し、以後の100年でオーストラリアの先住民の人口は9割減少します。

○さらに奴隷制度批判。

16~19世紀に1000万人のアフリカ人が奴隷としてアメリカ大陸に連れてこられました。

奴隷貿易企業はヨーロッパの証券取引所に上場され、「砂糖」を使い、「コーヒー」を飲み、「タバコ」を吸う、白人の中産階級の投資の対象にされていました。

○加えて、一神教批判。

まず一神教は、多神教を無知で子供じみた偶像崇拝だと馬鹿にします。

次に一神教は異端者、異教徒を迫害します。

キリスト教徒は1500年の間に同じキリスト教徒を何百万人も殺害しています。さらに一神教は動植物を対等のメンバーとして扱っていません。

○さらに、白人至上主義批判。

「万人は平等に造られており、奪うことができない特定の権利を造物主によって与えれており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれれる」(アメリカ合衆国独立宣言)。

しかし万人の中に、黒人、有色人種は含まれていませんでした。なぜなら、1930年代まで西欧の超一流の学者たちは、白色人種が科学的に優れている信じていました。

さらには1960年代までアメリカ政治では白人至上主義が主流のイデオロギーでした。

○痛快は、自由主義批判。

まず自由主義は人間至上主義の新宗派である。

次に自由主義は、人間性、自由、人権を神聖視している。

そして平等は、一神教の信念の焼き直しに過ぎないと断じます(以上は、『サピエンス全史』上下 からの要約)。

1776年の独立宣言、さらにいえば1776年のアダム・スミスの『国富論』でさえ、すべては白人キリスト教徒のドグマでしかないことになります。

SDGsがつきつけている問題も、ハラリが提起した問題も、共生です。

 

5、「いき」に生きる

1)隣組

隣組』の歌(作詞 岡本一平 作曲 飯田信夫)

 

とんとん とんからりと 隣組

格子(こうし)を開ければ 顔なじみ

回して頂戴 回覧板

知らせられたり 知らせたり

 

とんとん とんからりと 隣組

あれこれ面倒 味噌醤油

ご飯の炊き方 垣根越し

教えられたり 教えたり

 

とんとん とんからりと 隣組

地震や雷 火事どろぼう

互いに役立つ 用心棒

助けられたり 助けたり

 

とんとん とんからりと 隣組

何軒あろと 一所帯

こころはひとつ 屋根の月

纏(まと)められたり 纏めたり

 

「知らせられたり知らせたり」、「教えられたり教えたり」、「助けられたり助けたり」、「纏められたり纏めたり」。

共生社会とは、「隣組」に支えらる地域社会のことではないでしょうか。

この詩を書いたのは岡本一平(1886~1948)、朝日新聞の記者で、岡本太郎の父にあたる人です。

日本の社会には、江戸時代の五人組や十人組のような隣組という相互扶助組織が、伝統的にありました。

それが昭和15年、内務省訓令により戦争協力の末端組織として、整備されます。

隣組』の歌もラジオ番組「国民歌謡」として昭和16年6月に放送されます。

終戦後1947年、占領軍の指令により、隣組は廃止されます。

しかし、「隣組」とは「向こう三軒両隣」で、日本の歴史と伝統がありました。

隣組は、町内会、管理組合、自治会と名前を変え生まれ変わり、回覧板も、インターネットの現在になっても、使われています。

なにより、『隣組』の歌には、日本人の助け合いの心がありました。

隣組』の歌は、NHKテレビの『お笑い三人組』、フジテレビの『ドリフの大爆笑』のテーマソングに長く使われ、いくつもCMソングにも使われました。

 

2)共生社会

だからといって、私たちは「隣組」を正面切って、賛美するわけににはいきません。

戦争賛美者、戦争協力者になってしまい、平和と民主主義者やマルクス主義者に批判されます。

隣組は、「国策」への協力に向かって相互に監視・強制をおこなわせるしくみであって、政府の統制の受けいれ地盤となったのである>(『昭和史』 p.164遠山茂樹 今井清一 藤原彰 岩波新書)

困ったものです。隣組について調べようとすると、かならずこの『昭和史』の記述に出会います。

昭和34年(1959)に出版されたこの『昭和史』(新版、初版は昭和30年)は、マルクス主義全盛期において日本のベストセラーになり、日本の学生・知識人に徹底的な影響を与えました。

<(19)32年5月にコミンテルン(筆者注・国際共産主義運動の指導組織)で(中略)「32年テーゼ」が決定され(中略)戦争反対の闘争と軍部を先頭とする天皇制に対する闘争の重要性を強調(後略)>(p.95)された。

天皇制」という用語は、コミンテルンの「32年テーゼ」から、マルクス主義者によって流布され、一般的にあたりまえのように使われるようになります。

さらにマルクス主義者によって、「天皇制ファッシズム」という、見当違いの用語が使われるようになります。

今の日本には、「天皇制ファッシズム」が戦争を起こし、「隣組」は戦争協力に国民を動員するための組織であった、という常識が空気のようにあります。

さらにこの空気を濃密にした、マルクス主義者・羽仁五郎がいました。遠山茂樹らの東大での担当教授です。

羽仁五郎は、我がもの顔でGHQに出入りしていた占領軍の協力者、です。

なぜなら教え子のマルクス主義者E.H.ノーマン(1909~1957)がGHQに勤務していたからです。

○<天皇制がもっとも非合理的な権力です。天皇制が日本国民の統合の象徴だというのは表面であって、論理的に言えば、天皇制は日本における非合理的な権力の象徴です。したがって、警察官はいつなんどきでも天皇の警察官となり得るのです>(『都市の論理』 p.242 羽仁五郎 勁草書房)

○<地域社会とかコンミュニティとかという概念は、全然、学問的ではない>(p.3)(注:羽仁は「コミュニティ」ではなく「コンミュニティ」を使う)<天皇制を背後にかざして国家が自治体を圧迫している(中略)限り、(中略)地域社会とかコンミュニティとかいうものは言葉にとどまって、けっして現実の構造をもつことができず>(p.39)

○<ファミリアとは、ひとりの男子に属する奴隷の全体を言うのである>(p.86)、<家族の成立というのは、最初の階級対立である>(p.88) ここは、『家族・国家・私有財産の起源』(F・エンゲルス 戸原四郎訳 岩波文庫)の引用です。

羽仁五郎は、神社の氏子、学校の校区、隣組など、日本のコミュニティを構成している考えられるエレメントを、せせら笑います。

『都市の論理』は、1968年に出版され、全共闘世代のベストセラーになった本です。団塊の世代は、断腸の思いで、自らの自己変革をしない限り、『昭和史』や『都市の論理』から、抜け出すことができません。

なぜなら、マルクス主義史観を排し「天皇制ファッシズム」を否定した日本近代史の山崎隆が登場するのは1976年、占領軍の言論統制を暴露し「平和と民主主義」の神話を破壊した『閉ざされた言語空間』(江藤淳 文春文庫)の初出は『諸君!』1982年2月、文庫は1994年1月です。つまり団塊の世代が自己変革をできる年齢を遥かに超えています。

ここでは三島由紀夫という爆弾を投下して、結論を急ぎます。

日本の文化防衛論を唱えて亡くなった三島由紀は、日本の地域社会をどう考えていたのでしょうか。

三島は、日本の文化共同体の象徴を、証明するものとして、「みやび」論を展開します。

「御歌所の伝承は、詩が帝王によって主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかわりなく、民衆詩を『みやび』を以て統括するといふ、万葉集以来の文化的同体の存在の証明であり、独創は周辺に追ひやられ、月並は核心に輝いている。民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の文化伝統をただ『見る』だけではなく、創ることによって参加し、且つその文化的連続性から『見返』されるといふ栄光を与えらる。」(『文化防衛論』 三島由紀夫全集 第33巻 p.398 新潮社)

「みやびの源流が天皇で」、「日本の民衆文化は概ね『みやびのまねび』に発し」、つまり『万葉集』です。古今、新古今の勅撰和歌集です。そして「時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、『幽玄』『花』『わび』『さび』などを成立」させてきたのです(p.399)。つまり『源氏物語』などの文学、能・歌舞伎・祭りの歌舞音曲、茶道の陶器、絵画、日本の美術です。さらには剣道、柔道、空手、相撲のみやびも付け加えていいでしょう。それが日本文化です。

つまり、日本の文化とは天皇であり、日本語の中心には天皇がある。これは善悪、正邪、好悪の問題ではなく、事実です。

富士山と広大にひろがる裾野に、私たちは日本の国を見て、富士山信仰を持ちます。

日本の社会それ自体が、すくなくとも文化共同体として、地域社会・コミュニティです。

アベノミクスでの本田悦朗の発言が思い出されます。<天皇を中心にした文明が今でも国民の中に息づき、国民を慮(おもんばか)る天皇を国民が敬愛する、このような国は、世界でも日本だけです>(p.219~0)。

竹中平蔵も日本の社会の「ネガティブな」特徴を指摘しています。

2019年(平成31年)国内時価総額スト20社に国営、公社を前身とする古い企業が7社入っている、日本の国の特徴である(p.145)。

そして日銀総裁が、国会に出席するときのお供の数の多さ(p.286)。

さらに失政で個人の責任を追及できない風土。「同調圧力」、「罪を憎んで人を憎まず」、みんなで決めた、みんなに責任がある。誰かに責任があるわけではない。だから失政を検証できない(p.290~)。

いずれも、日本人が天皇のいる共同体に住んでいる、ことの証です。

天皇隣組、単一言語、単一民族、地域社会、コミュニティ、だから共生社会、共生保障が可能です。

社会保障は正義か邪悪か。いまにしてみればこの問い自体が、極めて西欧的な問いでした。

日本という地域社会・コミュニティは、もともと共生社会でした。助け合い、世のため人のためは、あたりまえです。

近江商人の「三方よし」の精神は、店よし、客よし、世間よし。社会貢献を当然のこととし、西欧流の「企業の社会的責任」論を先取りしていました。

 

3)「いき」に生きる

<「上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」(軍人勅諭)>(『昭和史』p.128)。

隣組は、相互に監視・強制をおこなわせるしくみ>(同 p.164)

マルクス主義者の指摘にも一理あります。

地域社会で、ちょっと権力を手にしたら、権力を振り回す。ルールに厳しく口うるさく、同調を強制する。

80年前の大東亜戦争の話ではありません。何も変わっていません。令和のいまでも見られる、地域社会(たとえばマンション管理組合)での風景です。

私たちは、皇室伝統と地域社会の過去の教訓を生かし、共生社会を作る必要があります。

「助け合い、支え合い」と正面切って言うと、なんとなく人道的・博愛的・道徳的に響き、アメリカ合衆国の独立宣言の二枚舌のようで嫌です。

そこで地域社会と個人、コミュティとプライバシーの新しい関係を提案します。

○地域で「いき」に生きる。

第1、地域で「おしゃれに」。色っぽく、かっこよく、礼儀正しく付き合う。「遊びをせんとやうまれけん」、芸人の心です。

第2、地域で「人肌脱ぐ」。いざとなれば他人のために力を貸す。「武士は食わねど高楊枝」、武士の心です。

第3、地域で「ドライ」。同調圧力村八分はかっこ悪い。「野暮は揉まれて粋になる」、神仏の心です。

(『「いき」の構造』 九鬼周造 岩波文庫を参考にしました)。

地域社会・コミュニティで、「いき」な助け合い、「いき」な支え合いをしようでは、ありませんか。

それを、「共生保障」と呼ぶのなら、それもいいです。

 

(End)