「風狂」に生きるが、「一休」と「スティーブ・ジョブズ」を結んでいます。

THE TED TIMES 2022-38「一休宗純」 10/24編集長 大沢達男

 

風狂」に生きるが、「一休」と「スティーブ・ジョブズ」を結んでいます。

 

1、一休さん

「屏風絵の虎が夜に屏風を抜け出して暴れるので退治してほしい」。

足利義満の問題に対して、一休は「では捕まえます。虎を屏風から出してください」と、切り返しました。

桔梗屋の店の前の橋を一休が渡ろうとすると、「このはしわたるべからず」と、書いてありました。

しかし一休は「この端(はし)渡るべからず」と解釈し、橋のど真ん中を堂々と歩いて渡りました。

私たちがよく知っている「一休さん」は、室町時代時代の禅僧・一休宗純をモデルにして、江戸時代の元禄期に作られた説話です。

しかし、一休さんとそのモデル一休宗純とは、ほんど別人物です。

2、一休宗純

一休宗純(1394~1481)は、後小松天皇の子として生まれた臨済宗大徳寺派の僧で詩人です。

幼名「千菊丸」、長じて「周建」、17歳で「宗純」となります。

一休と呼ばれるのは「うろじ(迷いの多い煩悩)よりむろじ(悟り、仏の世界)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」を歌ったことからです。

一休は、頓知で有名な一休さんでは想像もつかない、恐るべき修行時代を送っています。

「私事をはさむと、偶然ながら私は、この物語にも関係のある足利家代々の菩提寺等持院で童行(有髪の修行者)、喝食(かつじき=食事の順序を大声で唱える幼少の修行者)、沙弥(雑用をする修行者)を送ったが、周建が生きた中世から五百年後のことだったにしても、禅林が徒弟を育成した庫裡天国は、おそらく中世のそれを残していて、どのような人間図絵があったか、いまも記憶している。男色は十五、十六歳からはしかのように襲った」(『一休』水上勉 p.43 中公文庫)。

私とは、水上勉のことです。一休の叙述のなかに、自らの体験談をはさんだものです。

そして水上は室町時代の一休の描写に戻ります。

「喝食、童行にも華美な衣装をつけさせ、前髪をたれさせ、白粉をぬらせ、寵愛用の少年にしたてた」(前掲 p.57)。

そして少年、周建(一休)は、さらなる禅僧の腐敗堕落を、目撃します。

五山十刹制です。

住職の任免、位階昇進、寺領の経営、官銭の取次をする政僧が登場します。

そして幕府は財政が乏しくなると、五山も十刹も増やして、金さえあれば官寺住職の名義が与えられるようにします。

僧侶は金まみれの出世主義になります。

仏教には十戒があります(前掲書 p.55~6)。

殺さない、盗まない、性交しない、嘘をつかない、酒を飲まない、などです。

一休宗純は、性と酒と肉食を楽しんだ、破戒僧でした。

反抗でした。当時のアンシャン・レジーム(古い体制)に異議を申し立てていたのです。

一休の淫楽は、87歳で亡くなる、直前まで続きました。

喜寿(77歳)で30歳代の盲女に出会い、米寿の手前87歳で亡くなるまで、性をエンジョイします。

「盲女森侍者、情欲甚だ厚し、将に、食を断って命をおとさんとす」(p.361)。

「この高齢での淫楽交情は尋常ではない。尋常ではないが、しかしそうだったのだろう」(前掲p.364~5)。

水上勉は、一休宗純の「風狂」(狂気、風雅に徹すること、破戒を悟りとして肯定する)に両手を挙げ、降参しています。

3、スティーブ・ジョブズ

ジョブズに影響を与えた禅僧、乙川弘文は「一休」のようで「良寛」のようであった、といわれています。

そこでまず一休を尋ねてみたのですが、なるほど、その私生活はジョブズに一脈通ずるところがあります。

「世の中は 喰うてかせいで 寝て起きて 地獄に行っても 鬼に負けるな」(一休 p.308)

風雅(ふうが=風流で上品。低俗でなく雅やか)で、風狂(ふうきょう=狂気、風雅に徹する)で、瘋癲(ふうてん=定職を持たず、ブラブラと暮らす)として生きる。

これが一休から学べることです。