THE TED TIMES 2024-53「白石和彌」 12/31 編集長 大沢達男
白石和彌の「十一人の賊軍」、ひとつのセリフが、彼の未来を変えるかもしれません。
1、国家への反乱
映画「十一人の賊軍」の後半のワンシーンです。
「初めてお国に逆らいます」。
11人の賊軍・決死隊のひとりの「爺っつぁん」は、脈絡もなく、(わざわざ)この台詞をはき、新発田藩と新政府軍の戦闘に参加していきます。
この台詞こそが、原案の笠原和夫のシノプシスにあった、ものでしょう。
<犯罪人が国家に反乱した映画>
映画を見終わったあとも、ただこの「お国に逆らう」台詞だけが、頭を駆け巡りました。
そして結論。
<白石和彌はやってしまった。一線を越えてしまった。>
なぜか。
新政府軍の愛唱歌・「宮さん宮さん(トコトンヤレ節)」(大村益次郎作曲 品川弥二郎作詞)の歌詞を見れば明らかになります。
♬ 宮さん宮さん 御馬(おんま)の前で ヒラヒラするもの何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗(ミハタ)じゃ しらないか
トコトンヤレ トンヤレナ ♬
ご存知だと思います。このメロディはプッチーニの歌劇「蝶々夫人」にも使われています。
ところが、これは2番です。1番は
♬ 一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の 帝王(みかど)に手向かいする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土 ♬
「一天万乗」とは、世界の軍備を持つ者、天皇です。
つまり、お国に逆らうととは、天皇に刀を向けることになります。
新発田藩の戦略のために、死罪に当たる罪人でありながら決死隊に加わり、なぜ「お国に逆らう」などというセリフを喋らせるのでしょうか。
戊辰戦争の話はややこしくなりますが、最終的に新発田藩は旧幕府派の奥州越列藩同盟軍に加わらず、新政府軍派になります。
ですから余計に、この台詞はおかしい・・・。
演出とはいえ、犯罪人に「天皇に刀を向ける」など言わせることは、軽すぎます。
天皇を侮辱したなどと、右翼的な発言をしているのではありません。
優れたヤクザ映画を撮ってきた白石和彌が、ヤクザ映画の仁義の道を踏み外してしまった、と言いたいのです。
2、白石和彌
1)映画『孤狼の血』(2018)。
6年前の『孤狼の血』は、エロとテロで人間の本能を刺激する映画です。
映画の冒頭は、凄惨なリンチ殺人のシーンから始まります。
中盤にはペニスにナイフを立てるシーンがあります。
ヤクザはペニスに真珠やシリコンからできた玉(タマ)を入れています。
性交のとき女性を悦ばせ女性を支配するためにです。
映画では復讐のために、全裸のヤクザのぺニスから、タマを抜き取ります。
さらにエンディングでは敵対する組長の首を切り捨て、便器に投げ込む、グロテスクなシーンがあります。
しかし、手前勝手、わがまま、自己中で、暴力を振るっているのではありません。
エロ、テロには理由がありまます。
映画は、組のため、組織のために、お国のために、戦う男達を描いています。
主人公の刑事、大上(おおがみ=役所広司)は、民を救うという崇高な目的をもっていました。
「警察じゃけえ、何をしてもええんじゃ」。
放火暴力、収賄贈賄、職務違反、何でもありの暴力刑事ですが、殉ずるものがありました。
松坂桃李が演ずる大学出の新米刑事もそうです。
県警本部の監察官の指示で動いていました。国家権力の組織に殉じていました。
悲劇の若い組長の江口洋介も、憎たらしい年寄り組長の石橋連司も、右翼団体を兼ねる組長のピエール瀧も、組織のためにあるいは国のために、命を投げ出しています。
「殉ずる」とは仕事のために命を投げ出すことです。
人間が生きるとは、「忘己利他」、「滅私奉公」、自分を捨て他人の役に立つことです。
「七生報国」、何度も生まれ変わり、国の役に立つことです。
今の日本はどうでしょうか。
白石和彌は、自分探しで個性的に働き好きなことをして生きる、そんな日本の風潮にいちゃもんをつけています。
白石和彌は、エロとテロのエンターテイメントで、日本の伝統を破壊した「平和と民主主義」と戦っています。
6年前のこの素晴らしい白石和彌はどこに行ったのでしょうか。
2) 「孤狼の血 LEVEL 2」(2021)
3年前の『孤狼の血 LEVEL 2』(白石和彌監督 東映)は、完全無欠の映画でした。
まず役者がいい。日岡秀一巡査の松坂桃李、上林組長の鈴木亮平がいい。
なぜ日本のハンサムはヤクザを演じるといいのでしょう?。
まあ、考えてみますと、鶴田浩二、池部良、高倉健、歴代のヤクザ映画の主人公はみんな美男子でした。
つぎに撮影、編集、効果、音楽すべていい。
ヴァイオレンス、アクション、サスペンスを描き切っています。
そして脚本もいい。
博徒としてのアウトローを貫くヤクザとシノギのためにビジネスに走る近代化ヤクザの対立があり、現場の巡査と官僚体制の県警の対立があります。
前近代と近代の対立が映画のテーマです。
白石和彌監督は前作『孤狼の血』に続いて傑作を生み出しました。
映画の舞台は1991年(平成3年)です。
暴力団対策法が施行されるのは1992年ですから、ヤクザにとっては最後の年です。
映画では上林組長が両目に攻撃を加える猟奇的なキャラクターとして描かれています。明らかに山口組3代目田岡一雄をイメージしたものです。田岡は誰もやらない「目への攻撃」の喧嘩で無敵を誇りました。
その田岡は1981年に、田岡の庇護を受けた美空ひばりも1989年に、亡くなっています。
1992年の暴力団対策法により、口止め料、みかじめ料、寄付金、債権の取り立て、地上げ、示談・・・シノギの全ては違法行為になり、ヤクザと暴力団は成立しなくなります。
そしてウィンドウズ95の登場、インターネットの時代になり、暴力団も新しい時代に入ります。
1991年を舞台にしたヤクザ映画『孤狼の血 LEVEL 2』は、いわば義理と人情、前近代を称賛するナツメロ映画です。
3年前の真っ当な白石和彌はどこに行ったのでしょうか。
3、三島由紀夫
ヤクザ映画は、三島由紀夫が書いた『映画芸術』(1969年3月)の評論によって、その存在を「映画芸術」として公認されるようになります。
映画「総長賭博」と映画「飛車角と吉良常」に出演した鶴田浩二を論じた評論です。
それまでヤクザ映画はションベン臭い映画館で上映されるもので、水商売のホステス・ボーイやチンピラ・ヤクザの娯楽でしかありませんでした。
ヤクザ映画では、映画監督をはじめスタッフは、アーティストとして認められていませんでした。
三島の力は偉大でした。
この評論からコペルニクス的転回が始まり、ヤクザ映画を観ることはインテリ知識人、そして学生の常識なりました。
ですから『孤狼の血』の白石和彌を評価する私たちは、三島由紀夫の影響から一歩も外に出ていません。
三島は、
天皇は国体であり、
天皇は神聖であり、
天皇は祭祀を司る、
という憲法の改正案を構想していました。
三島は、憂国であり、殉国でした。
白石和彌は明らかに道を踏み外しています。
白石和彌の未来に、「お国に逆らう」が言霊になって、暗雲となって現れています。
End