THE TED TIMES 2022-08「石原慎太郎」 3/7 編集長 大沢達男
さようなら、石原慎太郎さん。
1、ライバル
石原慎太郎が芥川賞をもらったのは1956年、私が13歳の時でした。
その3年前、10歳で父を失っていました。
私は中学になってから不良になりました。
勉強をすることを拒否し、授業を妨害する、いけない中学生になりました。
ある日、放課後の夕陽が差し込む校庭を歩いていて、途方もない虚しさに襲われた瞬間を、今でもはっきり覚えています。中学2年の秋です。
一生懸命勉強して、いい成績取って、いい学校に行って、いい会社に就職して、何の意味がある。ガンバって何になる。
今考えると、それは父の死の影響でした。
心理学でいういところの「対象喪失」、父が亡くなったことで、生きる目的を失ってしまったのです。
10歳で父を失い13歳で虚無に取りつかれた私にとって、19歳で父を失い既成の価値概念にNOと言う石原は、私の兄貴分で、私のライバルになりました。
私は不良でしたが、肉体的にも精神的にも、育ち遅れで幼稚でした。表現し行動する不良ではありませんでした。
大学に入ってから、はじめて『太陽に季節』を読むような、体たらくでした。
当時流行の「アンガジュマン」(現実参加)という言葉がありました。
飢えた子の前で文学は可能か。小説だ、文学だ、思想だ、といったところで、現実へのなんの力にも、ならない。
芸術家も現実に参加すべきだ。行動を起こすべきだ。
ジャン・ポール・サルトル、ノーマン・メイラー、大江健三郎・・・主張は立派でも、所詮、文学者たちのおしゃべりでした。
そんななかでただ一人石原慎太郎だけは、実際に行動で見せつけます。
1968年、参議院議員に空前の得票数で当選。
小説を書く、慎太郎刈りでトップファッションを作る、弟・裕次郎を映画スターにする、映画監督をやってみる、安保条約に反対する、ラリーに出る、ヨットレースをやる、そしてとうとう国会議員になってしまったのです。
石原はオールマイティ、比べてライバルの私は育ち遅れ幼稚で、なにもできませんでした。
ヨットには乗れず、できたのは葉山の海で泳ぐことぐらいでした。
2、安藤昇
石原慎太郎は181センチ、私は173センチ。それがすべてです。
ライバル・石原はすべての点で私を上回っていました。
まず小説。『太陽の季節』、いやその前の『灰色の教室』もいいです。
しかし実のところ言って、石原の小説をあまり読んでいません。
大江、三島、太宰、谷崎に比べても、石原を読んでいません。
なんとなく石原の小説の尻込みしています。
コピーライターの先輩と、石原慎太郎の文章について、話したことがあります。
先輩も一橋大学の出身、学生時代は大学新聞の記者(ライター)でした。
「慎太郎って、文章下手だろう?」
「そうですね、なんかゴツゴツしていて、ドモっているような文章ですね」
私は信頼できる先輩と同じ意見になり、ちょっぴり石原を見下していました。
石原の作品で私が好きなのは、『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』(幻冬社)です。
「成人してから脂の乗り切った俺はいつもハジキか女を抱いて寝るような生き様だった」(p.141)。
「女のことを『色』とも言うが、女こそ人生の彩なのだ」(p.142)
死の直前になって、絶対に欠かせぬものとして渋谷の暴力団組長の話を書く、石原慎太郎とは何者でしょうか。なんと、魅力的ではありませんか。
石原がクルマに熱中していた頃のエピソードがあります。
銀座から逗子まで、次々先を行くクルマを追い越し、ぶっ飛んで帰っていたある夜、隣に並んだタクシーの運転手に話しかけられます。
「あなたほど、運転の上手い人を、見たことがない」。
石原はゾッとします。
そしてその運転手は死んだオヤジに違いないと、直感します。
自動車レースへの誘いも断り、石原の自動車熱は一気に冷え込み、クルマに関心が持てなくなります。
その後も暴走を続けていたら、どうなっていたか、この直感は素晴らしいものです。
文芸評論家の福田和也はブック・ガイド『作家の値打ち』(飛鳥新社)のなかで、『わが人生の時の時』になんと96点をつけています。
でもあれはドキュメンタリーのような作品です。小説なのでしょうか。
ところで、石原慎太郎の小説での代表作はなんでしょうか。『太陽の季節』でしょうか。よくわかりません。
つぎに評論。
『スパルタ教育』(石原慎太郎 光文社)、『「NO」と言える日本』(盛田昭夫 石原慎太郎 光文社)のかずかずのベストセラーは、到底、私の及ぶところではありません。
いやそれどころか、作家全体を見渡しても、石原にかなう人はいません。
そしてスポーツでの石原はどうか。
湘南高校でサッカー、大学で柔道、そしてヨット、スクーバ・ダイビング、運痴ではありません。
大相撲の大鵬vs柏戸戦に、「八百長だ!」とイチャモンをつけたが、つい昨日のようです。
スポーツに自信があるからの発言でした。いったい、作家、芸術家、政治家で、スポーツの石原に勝てる人はいるのでしょうか。
さらにルックスではどうか。言うまでもありません。国民的映画スターの弟にも勝っています。
石原に弱点は見つかりません。
3、ファンキー・ジャンプ
「そうだ。ロックだ!」。
石原はロックがわからない。石原がウッドストックを語ったのを聞いたことがない。
歌は弟よりうまいと言うが、音楽的なセンスはないのではないか。
と思いましたが・・・。
三島由紀夫が絶賛したジャズ小説『ファンキー・ジャンプ』の存在を知りました。
あわてて読みました。1959年の作品です。
そして完璧に私は、石原にノックアウトされました。
まず第1。『ファンキー・ジャンプ』には、当時のジャズの最前線が描かれています。
それも今だからわかることです。私は、先日2022年2月に、セロニアス・モンクの研究をしたばかりだからです。
1957年ファイブ・スポットで、セロニアス・モンクはジョン・コルトレーンと会い、ビバップの活動を本格化させます。
そこには、ジャック・ケロワック、ノーマン・メイラー、レオナード・バーンスタインらが集まっていました。
石原は同時のモダン・ジャズの最先端ビバップを描いていました。
「しかし、俺が”チェロキー”でやったテロニアス・モンクスタイル(原文のママ)のフレイジングを、他の奴らはわからず、ドラムの竹井でさえも、オフ・ビートがとれなかったのを、沙知子は面白いと言ってくれた」(中略)「あれは俺が俺の感じで創り出した初めてのビ・バップだったんだ」(『現代の文学 26 石原慎太郎』 p.12 講談社)
これはいわゆるセロニアス・モンクの「ヘンなリズム構造」のことを言っています。音楽的に高度な話です。しかもこのことを石原が1959年に書いていることは信じられません。
第2に、『ファンキー・ジャンプ』は、日本のジャズ史の貴重な一断面を描いています。
小説のモデルは守安祥太郎(1924~55)。31歳自殺した慶應大学出身のジャズ・ピアニストです。チャーリー・パーカーの演奏を採譜して周囲を驚かせた天才です。
「ニューヨークから帰ってのこの半年、敏夫(注:小説の主人公のジャズ・ピアニスト)の健康は目に見えて非道い。アート・ブレイキーの招待でバートランドの演奏で彼の勝ち得た名声は、その実、彼をどう救いもしなかった」(p.5)。
「あなたはもういい加減にパウウェルのスタイルを抜けなきゃダメよ とあ奴は言った」(p.16)
いまだから、チャーリー・パーカーも、バッド・パウウェルも、わかります。もちろん小説が書かれた60年前にはむりでした。もちろん守安祥太郎も知りませんでした。
それにしても慶應大学は不思議な学校です。同時代に笈田敏夫(1925~2003)を、さらに後年には佐藤允彦(1941~)を出しているのですから。
第3に、『ファンキー・ジャンプ』は、日本初のジャンキーノベルです(と思います)。
「マキー 君はまたヘロ(筆者注:ヘロイン)をやっているな その上酔ってるたあどう言うことなんだ」(p.23)
「その向こうの夕焼けをごらん あれは坩堝(るつぼ)だよ あの中で赤い鉄を煮るんだ 今に俺はあの中でピアノを弾く」(p.32)
小説ではヘロインでトリップした状態での描写で、句読点を一切使わない、前衛的な表記法を採用しています。
それがなかなかいい。
石原はヘロインを実際に使っていたのではないでしょうか。当時のニューヨークではヘロインは当たり前だったのですから。
というわけで、石原のウィークポイントは音楽ではないか、私のパンチは見事、空振りに終わります。
4、自主憲法制定
石原が亡くなったのは、令和4年2月1日です。
なぜ国政に参加したのか、なぜ政治家になったのか。
一言に集約すれば、「自主憲法制定」のためでした。「憲法改正」ではありません。
なぜなら現憲法を維持すれば、「我々自身を破滅の隷属に導きかねぬ」、からです。
私たちは「自主憲法制定」の石原の意思を受け継がなくてはなりません。でなければ、兄貴分、ライバルの対して仁義が立ちません。
産経新聞が紹介したエピソードを3つだけ紹介します。
その1。尖閣諸島購入構想をあと、国有化の流れになった後、精気を失い、都政をやる気を失ったかのように見えた。
その2。2016年五輪招致に敗れた後、帰りの飛行機で、悔し涙を流していた。
その3。福島原発事故で放水作業で現地に赴いた東京消防庁ハイパーレスキュー隊に「ああ、もう言葉にできません。本当にありがとうございました」と、人目をはばからず涙を流した。
そして、石原家ご用達のJR逗子駅前の「球屋洋菓子店」が紹介されていました。今度、湘南に行ったらショートケーキを食べて、偲びましょう。
なぜ「自主憲法」なのか。
石原、大東亜戦争終結の日の「ニューヨーク・タイムズ」を証拠として挙げています。
日本を模した巨大なナマズような生き物が転がっている。ヘルメットをかぶったGIが怪物の歯を抜いている。文章が添えられている。
「この怪物は倒れはしたが、まだ命はある。われわれは一生かかっても、アメリカや世界のために、この化け物の牙と骨を完全に抜き去らなくてはいけない。これは戦争に勝つよりもむずかしい作業かもしれないが、アメリカは世界のためにやるのだ」。
(『永遠なれ、日本』 p.110 中曽根康弘 石原慎太郎 PHP)。
黄色人種に対する偏見から、戦後の統治は行われています。
人種偏見は、『菊と刀』(ルース・ベネディクト)によって基礎づけられています。
日本という化け物を地上から消すために、日本国憲法、東京裁判、太平洋戦争史(占領軍の造語)を、GHQは日本に与えました。
そしてどうなったか。戦後75年、日本は破滅に向かって歩みを進めています。
30世紀の初頭には、少子化で日本国民はわずか数百人、日本という国は世界地図から姿を消します。
平和と民主主義の日本国憲法により、日本人は民族としての誇りを失い、レミングの群のように海に向かって進み、集団自殺します。
だから自主憲法が必要なのです。
それにしても『永遠なれ、日本』での、中曽根と石原の対話は素晴らしい。
中曽根康弘という政治家の魅力が余すところなく、伝えられています。
たいへんにわかりやすい話です。
まず、中曽根は、結婚式の仲人を小学校の先生にお願いしています。
東大出、海軍将校の中曽根が、モーニングもお持ちでない貧乏な先生にですよ。
なぜか。小学生の中曽根の頭を、「西郷隆盛のように偉い人になるよ」と、なでてくれたからです。
これだけで、涙、涙の物語です。
そして母の愛。息子は母の死目に間に合いませんでした。
母は息子が大学の試験の時には、近所の神社に数カ所にお参りに行っていました。母危篤のとき、息子は試験中、ですから危篤を知らせることができませんでした。
中曽根康弘は、夜の星なかのひとつから、母親が私を見ていると、述懐します。号泣です。
中曽根康弘が生涯でもっとも感銘を受けたものは、ふるさとの秋の夕暮れ。
赤城、榛名、妙義の上毛三山その後ろの谷川岳と浅間山、浅間山の肩に落ちる夕日でした。
国家とは、ふるさとの自然、恩師、家族だと言います。
素晴らしいではないですか。語る中曽根はもちろん、それを語らせた石原も素晴らしい。
『永遠なれ、日本』を読んでいて、石原はオレの兄貴分でライバルだ、とほざいていた私が恥ずかしくなります。
5、ゴルフ
石原慎太郎は編集者の幻冬社・見城徹と定期的にゴルフを楽しんでいました(「石原慎太郎という病い」(『月刊 Hanada』 見城徹)。
石原は70代でも85~90で回っていたそうですから、これも私の完敗です。
ちなみに見城も、石原に20勝80敗ぐらい。
しかしこれからはわからない。石原は亡くなりました。
私は80歳でエイジシュートを達成する「ホラ吹きエイジシューター」です。あと2年あります。
石原が、エイジシュートを達成した、とは聞いていません。
できれば「スリー・ハンドレッド」でプレーしたい、外相、総理経験者、一部上場企業社長、駐日大使のみプレー可能という、条件はちょっと厳しい。
どなたか社長さん、私を誘っていただけませんか。
せめて一度だけ、せめてゴルフだけでも、ライバル石原に勝ちたい。
合掌。
石原慎太郎さん、生意気な口をきいて申し訳ありません。
天国から、エイジシュートをするプレーを見ていてください。
私は高校時代の仲間とやっているゴルフ会のハンディキャップ26を使うかもしれません(笑)。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。
令和4年3月7日
大沢達男