『ゴッドファーザー』は、なぜ人を殺す、なぜ娘のメアリーまで殺す。

TED TIMES 2020-28「ゴッドファーザー4」 5/13 編集長 大沢達男

 

ゴッドファーザー』は、なぜ人を殺す、なぜ娘のメアリーまで殺す。

 

9)カバレリア・ルスティカーナ

シチリアの夜の街が映し出されます。そしてパレルモ・マッシモ劇場へ。アンソニーの『カバレリア・ルスティカーナ』(Cavalleria Rusticana=田舎者の騎士道)が始まります。マッシモ劇場は19世紀に建てられた、ヨーロッパで有数のオペラハウスで、建物全体が芸術品です。

ロイヤルボックスにマイケル・コルネオール・ファミリーが座ります。コルネオーレ・ファミリーにとってはアンソニーの新しい門出であるともに、ドンがマイケルから亡き長男ソニーの遺児ビンセントへ受け継がれた歴史的な門出の日でもありました。コルレオーネ・ファミリーには新たな敵がありました。まずバチカン。新しい法王とマイケルも親密な関係を妬むもの。そしてマイケルとヨーロッパの巨大企業との関係を壊そうとするものがいました。オペラ上演は、マイケルにとってお祝いの門出でしたが、マイケルと敵対するものにとってはまたとない、マイケル殺害の機会でした。

緊張のシーンが連続します。『カバレリア・ルスティカーナ』は、三角関係(正確には四角関係)の愛憎劇です。男と男が争い、どちらかが死にます。ドラマの進行に合わせて、マイケル暗殺の刺客たちの動きがモンタージュされます。オペラ:男と男の諍い。現実:ライフルでマイケルを狙う狙撃者。オペラ:歌う主人公のアンソニー、現実:刺されるセキュリテイ。オペラ:葬送。現実:席を立つマイケル。オペラ:十字架のイエス。現実:大司教の死。しかしオペラは何事もなかったかのように終わります。

ブラボーブラボー。マッシモ劇場の正面の階段をコルネオーレ・ファミリー全員が降りてきます。突然、銃弾!マイケルの肩をかすめます。そして銃弾はメアリーの胸に。レッドカーペットに息絶えたメアリーが横たわります。悲嘆のコニー、ルイ、アンソニー、そしてマイケルは大きく口を開けたまま虚空を見つめ、しばらくして・・・しばらくして絶叫!!

叙勲式のあとのパーティでマイケルの妹・コニーが「聖」メアリーと呼んだ、コルネオール家のプリンセス・メアリーは死にます。

母のケイが生まれて初めてシチリアを訪れ、久しぶりに父マイケルと並んで散歩する姿を、プロのフォトグラファーのように(かっこいい)、カメラに収めていたソフィア・コッポラ(メアリー)は死にます。

映画は終わります。マイケルもシチリアの昼下がり、たった一人で息を引き取ります。

           

3、『ゴッドファーザー』への「YES!」と「NO!」。

1)決闘、殺し、テロ

好きなプロットだけを並べました。映画の重大な内容を忘れ、無視しています。映画はマフィアの抗争の映画です。利害が対立すれば、話し合いではなく、力で相手をねじ伏せます。映画は殺人のオンパレードです。この映画の魅力は、社会の裏(ウラ)を描いたからです。ところが私が選んだプロットは、ほとんどが表(オモテ)です。

映画では、一体全体、何人の人が殺されているのでしょうか。「殺し」のシーンだけを並べて、殺し方の研究をするべきです。裏(ウラ)の研究なくして、この映画を語ったことになりせん。

でも、私は逃げます。自分がヤクザだったり、ヴァイオレンス映画の監督でしたら不可欠の研究ですが、できません。面白くない。やめにしました。ですから、語っているのは映画の半分でしかありません。

もう一つ、「殺し」から逃げる理由があります。当時はショッキングだった「殺し」が色あせてしまったからです。

60年代のハリウッドは平和なものでした。西部劇の決闘、『OK牧場の決闘』(1967年)、『ゴーストタウンの決闘』(1958年)、『ガンヒルの決闘』(1959年)が流行っていました。男と男の対決、どちらが勝つか、殺されるはどちらか一人です。そこに、「殺し」が日常的に行われいる裏(ウラ)の社会を暴いた『ゴッドファーザー』は、まさに身震いするほどの衝撃でした。

しかし、『ゴッドファーザーIII』から10年、2001年9月11日で全てが変わってしまいました。ニューヨーク・マンハッタン、世界貿易センターに飛び込む旅客機、燃え上がり崩落する高層ビル、現実が映画を上回りました。映画がどんな残酷、残虐を描こうとも、誰も驚かなくなってしまいました。想像力は現実に負けました。言い訳はともかく、裏(ウラ)と「殺し」には触れません。片手落ちのまま議論を進めます。