「野鴨の中の白鳥。原節子」 

TED TIMES 2021-10「原節子」 3/3 編集長 大沢達男

 

「野鴨の中の白鳥。原節子」                                                             

 

 

1、ポリティカル・コレクトネス. 1)映画製作 2)山田五十鈴 3)女優

2、黒澤明小津安二郎. 1)『わが青春に悔なし』 2)黒澤明 3)小津安二郎

3、GHQ   1)『菊と刀』 2)『閉ざされた言語空間』 3)レニ・リーフェンシュタール

4、原節子  1)ファンク監督 2)『麦秋』 3)キャンティ

 

 

原節子の真実』(石井妙子 新潮文庫)は、力作です。石井さんは1969年生まれだといいますから、原節子とは同時代の人ではありません。よく調べたものだと思います。

文章もいいです。ところがこの本を貸してくれた友人に、

「石井さんは戦後民主主義イデオロギーで書いている。映画を理屈で論じてはダメだ」、

ちょっと辛口の感想を言ったら、お前の意見を書けと強要されました。

そんなわけで、2021年2月は原節子ばかりになりました。おかげで、原節子の直感通りのイメージが強化されただけでなく、いままで苦手だった小津安二郎監督が見えてきました。まあ、いいか。

私は1943年生まれ、1920年生まれの原節子とは23歳違い、しかも10歳近く年上の二人の姉に囲まれた育ちました。

石井さんは原節子と49歳違い。ちょっと近いだけ私の方が、原節子がよく見えるかもしれません。

もう一つあります。私はCMのクリエーターでした。東宝の砧の撮影所でも、日活の調布の撮影所でもよく仕事をしました。撮影現場の雰囲気は私の方が、よく知っているかもしれません。

文を書くものとして石井さん(以下、敬称略)の足元にも及ばない私が、とやかく言えるものではないと十分に承知しながら、つたない感想を書きます。

              ***

ところが、この文章をほぼ書き終えたときに、『原節子』(千葉伸夫 大和書房)を読み、驚きました。石井妙子はこの本を骨子にしていました。<よく調べて書いた>は、8割引です。

しかし石井版『原節子の真実』への疑問は、千葉版『原節子』を読むことにより、確認され、さらに強化されました。

やはり石井はリベラル・イデオロギー過剰です。「デュープ=共産主義者でもないの真似をした主張をする」に近いものがあります。

石井版は千葉版の引用に満ちていますが、この文章では、千葉版からの引用には、ページ数の前に「千葉」と記すことで、区別しました。

 

1、ポリティカル・コレクトネス

原節子を題材に、石井は映画ではなく、人権、女性蔑視などのポリティカル・コレクトネスを語っています。

<・・・女優は会社幹部、監督、男優と関係しないものはなく、性病にかかったり望まぬ妊娠をしたりする・・・>(p.56)。

<節子は撮影所に行くと、いつも顔を伏せて歩いた。(中略)山田五十鈴がスタッフと酒を飲み、夜どおしダンスホールに繰り出し、”ベル”と呼ばれて可愛がられていたのとは対照的だった>(p.59)

1)映画製作

映画を作るのは、集団で(精神的)乱交をしている、ようなものです。なぜなら、みんなが裸で付き合い、本音の付き合いをしているからです。

監督・プロデューサーは本気で口説くつもりでヒロインの女性に出演交渉をします。

キャメラマンは彼女の本当の魅力、エロを見つけて撮ります。衣装部、美術部、照明部、録音部・・・撮影に携わる、数十名のスタッフ、全てが彼女に恋をします。

もしだれかが不誠実だったら、フィルムに写ってしまうからです。

映画製作は「心」を売買する仕事です。それを外部から見て、不道徳だと教訓をたれるのは、見当違いです。

2)山田五十鈴

山田五十鈴が、悪のように聞こえるので、異議を申し上げます。

彼女を好んで起用したのは、溝口健二監督です。溝口はヴェネチア国際映画祭で3年連続(1952~4)、賞に輝いた国際的な評価の高い監督です。

なかでもフランスのヌーヴヴェル・ヴァーグの巨匠、ジャン・リュック・ゴダールが「好きな監督は?」と問われて、「1にミゾグチ、2にミゾグチ、3にミゾグチ」と答えたのが有名です。

山田五十鈴は溝口の傑作、『浪速哀歌』、『祇園姉妹』に出演しています。

いずれもオンナを金で手篭めにするような、エロオヤジの話です。でも好きな映画です。

溝口は従来の映画では考えられない長いカットで映画を組み立てました。そのためにキャメラワーク、セット&照明、そして俳優に厳しい演技力が要求されました。

溝口は映画を発明しています。強調して言えば、山田五十鈴などどうでもいい。溝口の映画が好きです。

対して、原節子の場合は逆です。原節子の最高傑作「紀子(のりこ)3連作」を撮った小津安二郎監督なんてどうでもいいい(もちろん強く言ってですが)、原節子を見つめていたいだけの映画です。

3)女優

しかし映画は、女優のためのもの、ではありません。

原節子の真実』は、<最後まで自分が満足できる出演作に恵まれなかった。彼女自身がそうありたいと願った意思強く、運命を切り開いていく力強いヒロインは日本映画のなかに登場しない。日本社会が、そのような女性を求めておらず、また実社会にも存在しなかったからであるだろう(p.355)>、と結論づけていますが、これは原節子の問題ではなく、石井妙子の主張です。

映画の中の女優は単なる素材でしかありません。映画はあくまでも監督のものです。原節子といえども、映画に出演者の一人にしか過ぎません。

<「チンピラ女優の分際で、一番風呂に入ったのか」伊丹(筆者注:万作 『新しい土』の日本側監督)の怒りはなかなか収まらなかったという。このエピソードには、当時の日本の映画の監督の女優観が如実に表れている>(p.87)

ハッハッハ!馬鹿げています。これは女性蔑視でも人権蹂躙でもなんでもありません。

映画撮影は監督を総司令官とする戦争です。部下であるスタッフ、キャストは命令一下に動かなければなりません。

それにカメラと照明には、フィルムを感光させる微妙なメカニズムが絡んでします。

いつでも事故が起こります。最悪は写っていない、撮影されていない。一日のすべてのスタッフの苦労と金が無駄になります。

ですから、軍隊と同じです。勝手な行動はゆるされません。監督が箸を動かさなければ、メシは食えない。監督が「お疲れさま!」を言うまでは、現場を離れられない。先に風呂に入る、なんてとんでもありません。

もし・・・石井妙子が映画撮影での人権を問題にしたいなら、なぜ、原節子の兄・会田吉キャメラマンの列車にはねられた事故死を問題にしないのでしょうか。

<「汽車がホームに入ってくるカットを、線路の真ん中にキャメラを据えて正面から撮る」p.302>と、命令したのは監督の熊谷久虎です。熊谷は事故を装って会田を消そうとした。節子との関係を目撃された熊谷は会田が邪魔だった。<「原節子に惚れてたンだよ。(中略)熊谷久虎。知ってるだろう、(中略)あの右翼野郎と出来てるってきいてね。それで、あきらめたのさ」(藤本真澄 p.369)>、という証言もある。

想像力を働かせれば、会田キャメラマンの死は、事故でなく殺人になります。原節子が義兄を告発し力強いヒロインになれるチャンスでした。

それどころが、石井妙子の『原節子の真実』における熊谷久虎原節子の関係の描写は、全編を通じてねちこっく思わせぶりで、下品です。

蛇足ですが、アメリカで、ドイツで、フランスで、それぞれの国のスタッフと撮影をしたことがあります。日本の映画界のスタッフは、ちょっと軍隊調が強い。まあそれが日本映画のよさでもあるのでしょう。

 

2、黒澤明小津安二郎

原節子の代表作は、小津安二郎監督の『晩春』(1949)、『麦秋』(1951)、『東京物語』(1953)の、「紀子3部作」です。いずれも原節子が紀子( のりこ)という名の主人公で登場してくるからです。

とくに『東京物語』は、キネマ旬報の「日本映画オールタイムベスト」でナンバーワンに選ばれています。しかしそれでも、石井妙子はおかしい。小津安二郎を否定します。黒澤明の肩を持ちます。

1)『わが青春に悔なし』と『青い山脈

<『わが青春に悔なし』(1946)が公開された直後の昭和21年11月3日には、日本国憲法が公布される。それもあってか、新憲法の精神を体現した作品であるかのようなの印象を本作は観客に与えた。節子はこの作品によって、より鮮明に戦後民主主義を体現する象徴的存在と見なされるようになる。(p.232~3)>。驚きます。原節子は、戦後民主主義の象徴、笑うほかはありません。

『わが青春に悔なし』は、どんな映画でしょうか。見てみましょう。

○主人公幸枝(原節子)の父である大学教授は、言論の自由を主張をかどに時の政府により、大学を追われます。父の教え子にふたりの若者がいました。平穏無事で堅実、退屈な男と思われかねない糸川、もうひとりは、いつもギラギラ主義主張を説き、目も眩むような生き方をする魅力的な野毛。

○日本は戦争の時代へ。幸枝は東京でふたりの若者と再会します。糸川はすでに結婚しこどもがいました。野毛は、経済研究所を主宰し、国際問題の権威として活躍していました。幸枝は野毛を選び、結婚します。昭和16年12月8日、日本と米英との戦争が始まり、野毛が逮捕されます。罪状は戦争妨害の大陰謀。野毛はスパイ。投獄そして獄死。幸枝は野毛の実家に行き老父母の農業を手伝います。待っていたのは村八分。「スパイの家」と落書きされ、田植えが済んだばかりの苗代が荒らされます。

終戦。自由が蘇り、幸枝の父は大学の教壇に復帰します。幸枝は野毛の実家で、農村文化の輝ける指導者として、女性生活の向上に戦いを始めていました。

この映画のシナリオは直されています。犯人はGHQのCIE(民間情報教育局)のデビット・コンデ(1906~81)です。

当時の東宝には労組が映画製作に口を出す「シナリオ審査委員会」がありました。労組はコンデの指示により結成された、コンデの意のままの御用組合です。組合により『わが青春に悔なし』は物語の後半を変更させられています。

そして、「私は農村文化運動の輝ける指導者」、ハッハッハ!、お笑いです。原節子にこんなセリフをはかせ、映画のエンディングは、トラックの荷台に乗った農民たちの群れに幸枝(原節子)が飛び乗り、未来に向かって走って行くのですから。なーに、これ?プロパガンダ映画?

もうひとつ、原節子主演の「お笑い」映画があります。『青い山脈』(今井正監督 1949)です。

原節子が演ずる女子校教師が、学校の民主化のために立ち上がります。

「家のため国家のためということで、個人の人格を束縛して、無理矢理にひとつのカタにはめ込もうとする。日本人のいままでの暮らしの中で一番間違っていたことです。」、と原節子が演じる教師が演説します。

GHQを代弁したようなこの言葉には真実も何もない、だから原節子は美しくもなんでもない。

原作者・石坂洋次郎の名誉のために言っておきます。映画の台詞は原作を変えています。

原作では「ほんとに全体のためを考えてやるのはいいが、一部の野心や利欲のためになってはいけない(要旨)」とあります(『青い山脈』 p.39 石坂洋次郎 新潮社)。

「家のため国家のためは、日本人が一番間違っていること」は、極めて巧妙で悪質な改変、検閲です。

青い山脈』は3時間を越す長編ですが、原節子が美しく撮れているカットはひとつとしてありません。

監督?キャメラ?照明?衣装?あるいはGHQ?映像には、明らかにスタッフの邪(よこしま)な下心が、映っています。

2)黒澤明

『わが青春に悔なし』に戻ります。政治的なテーマを別にしても、この映画は失敗作でした。

第1に、この社会主義リアリズムのような映画に原節子は不似合いでした。教授のお嬢さまであったころのシーンはまだしも、農村でドロだらけになり汗水たらして農作業に精を出す原節子など見たくありません。さらにセリフがひどい。「村の女の人たちの生活はあんまりヒドすぎる。それを少しでもよくするのが私の仕事」「つまり私は、農村文化運動の輝ける指導者っていうワケね」

第2に、ラブシーンが見ていられません。幸枝は野毛と再会し、彼の事務所での、ふたりきりで話し合い、愛が深まる、長いシーンがあります。ラブシーンなのに、ふたりは理屈をこねた議論を続けます。やっと再会できたというのに、なんということでしょう。しどろもどろ。黒澤監督は女がダメです。

第3に、おしゃれじゃありません。まず洋服の原節子がよくない。スカート姿では、原節子の大根足を強調しています。かっこわるい。ダサイ。原節子の永遠の微笑がありません。

しかし、ただでは死なない「世界のクロサワ」、『わが青春に悔なし』は、映像を発明しています。

第1、まず冒頭の学生たちが野山を駆け巡るシーンがすばらしい。撮ったのは中井朝一カメラマンです。流れる緑のなかを学生たちが丘を目指します。命あふれる青春が映像になっています。

第2、幸枝が野毛を求めて、野毛の事務所に何度も通うシーン、季節が変わり、ファッションも変わる。先ほど、この映画はオシャレじゃない、と腐しましたが、ここに関しては訂正です。

第3、野毛が逮捕されたあとの、幸枝の苦悩を表すシーン、主人公のいくつものカットが同じポジションで時間を超えてモンタージュされています。アバンギャルドです。映画の可能性を見せます。発明があります。

3)小津安二郎

<節子は4年前に東宝の『わが青春に悔なし』で黒澤と組み、彼に演出されたことをたいそう喜んだ。厳しくしごかれたが、それに感謝し、「今後も黒澤さんにしごかれて精進したい」と語っている。黒澤作品を好いてもいた。(p.270)>

<昭和24年(1949)、『キネマ旬報』ベストテンでは一位が『晩春』、(中略)この結果から誰もが、節子は小津に感謝しているものと思い込んでいた。ところが、彼女はどこまでも小津の映画に対して、小津映画における自分の評価に対して冷やかだった。(p.267)>

この黒澤vs.小津、この対比はなんでしょう。石井妙子は何を言おうとしているでしょうか。

石井が黒澤明の肩を持つのはわかります。義兄の熊谷久虎黒澤明がの作風が似ていたから、千葉版『原節子』に書いてあります。

石井は、小津の否定では、事実を曲げています。

『晩春』のあとの小津作品『麦秋』の出演交渉のエピソードがあります。

「原さんはギャラが高いから別の女優にしてくれと言われたが、原さんに出て貰えなければ、この作品は中止にする」と言われた出演交渉の沢村勉は、原の自宅を訪れ、小津の言葉を伝えます。

対して原は「あたしはギャラが半分でもいいから、小津さんの作品に出演したい」と、答えます(千葉p.185~6)。

小津は丁寧に楷書で映画を作っていく監督です。「紀子3部作」がその成果です。

対して黒澤は、映画評論家の淀川長治が指摘するように、男を描く監督でした。ジョン・フォード黒澤明、そして北野武は、男を描く監督です。

石井が小津を否定する理由は何か、わかりません。

黒澤の『わが青春に悔なし』で、原節子は、「農村文化運動の指導者」として、その個性を際立たせました。

「紀子3部作」の原節子は、これに真っ向から対立します。

「映画は総合的な芸術であろう。これを演技の点から言っても、映画に現れる全ての人間、つまり俳優は、一つの渾然とした総合体になっていなければならない。その個々の演技のどの一つもがその総合演技の有機的な一部でなければならないのである。(中略)即ち、切り離された個人の行動の断片を観察するのではなく、総体との関係に於いて、つまり彼が生活する協同体の中に、之を観察すべきである(『映画演技読本』小津安二郎 千葉p.151)。

恐ろしいことを言っています。

小津が描いた、共同体(小津は「協同体」と表現している)とは、家族、地域社会、国家、日本という国です。西欧流の個人主義や民主主義ではありません。

戦後民主主義の虚妄に抗議して死んでいった三島由紀夫は、文化的共同体の象徴概念が天皇で、「御歌所の伝承は、詩が帝王によって主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかわりなく、民衆詩を『みやび』を以て統括するといふ、万葉集以来の文化的共同体の存在の証明であり(後略)」(「文化防衛論」 三島由紀夫全集33巻 p.399)、と日本の共同体を書きました。

えっ?まさか、そうだったのか。小津安二郎は、個人の行動を共同体との関連で描いた、原節子を家族と日本との関連で描きました。

からだがブルブル震えてきます。まさか。まさか・・・。

GHQ言論統制下に作った『晩春』(1949)を思い出します。小津は能の舞台を挿入し、原節子に京都旅行をさせ、さらには竜安寺の石庭を延々と映します。これこそ、日本人を未開人扱いにする新興・米国にたいする反抗です。

 

3、GHQ

終戦からサンフランシスコ平和条約発効(1952.4.28)まで、日本の映画はGHQのCIE(民間情報教育局)のデビット・コンデ(1906~81)により、意のままに制作されています(コンデの在任は45.10~46.7まで)。コンデは共産主義者で、民主主義映画の制作、という名のもとにシナリオを検閲し、映画会社に労働組合を作らせ労働争議を起こさせ、日本を社会主義化しようとしていました。

<埒が明かないとみたコンデは、自ら撮影所にジープで乗りつけると、監督や脚本家に直接会って、CIEが期待する内容や意図を具体的に語り始めた。(p.207)>

<とりわけ東宝では労働運動が熱を帯び、撮影所には昼となく夜となく「インターナショナル」が響くようになり、後略(p.218)>

『わが青春に悔なし』を改変したのも、東宝労働組合を作ったのも、コンデです。

その検閲の一部に光をあてた浜野保樹はその著に『偽りの民主主義:GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』(浜野保樹 角川書店)とタイトルしました。まさしく戦後民主主義は「偽り」であるのです。

1)『菊と刀

コンデの検閲は、GHQ言論弾圧の氷山の一角にしか過ぎません。デヴィッド・コンデは、CIE(civil information and education section 民間情報教育局)の課長でした。

言論弾圧のベースには、日本人に対する人種偏見の著『菊と刀』があります。

菊と刀』(ルース・ベネディクト 長谷川松治訳 講談社学術文庫)を書いたルース・ベネディクトは、日本人の常識として文化人類学の米国研究者として知られていますが、とんでもありません。

ルースは米国戦情報局員で、『菊と刀』は日本を敗戦に追い込み、どう占領政策を進めるかのために書かれた「日本人の行動パターン」の報告書です。

執筆のテーマは「日本人は絶滅させねばならないだろうか」(p.13)です。

ルースは日本人を未開の人間以下と見ています。米国が善、正、文明。日本が悪、誤、未開です。

まず、日本文芸を卑下します。花、月、虫の音を無邪気に楽しんでいる。『坊ちゃん』(夏目漱石)のワンシーンは不良少年の記録のようなもの。日本文芸を馬鹿にしています。

つぎに、日本人を好色で無節操な未開人として見ています。理解できない性的享楽。同性愛を楽しむ武士・僧侶。性的快楽のための道具の発明。日本人を色気違い扱いします。

そして、天皇を否定します。天皇サモア、トンガの神聖首長と同じ。敬語を使う。太平洋諸島と同じ育児習慣を持つ。日本人は未開民族であると断定します。

「日本人は絶滅させねばならないか?」 ルース・ベネディクトの答えは「Yes!」です。

さらにルースは『忠臣蔵』にも注目しています。復讐の可能性からも、日本人は危険でした。

しかしルースは絶滅を主張し、ホロコーストを提言できません。しょうがない。日本人とその精神を絶滅させるために占領政策が始まります。

2)『閉ざされた言語空間』

実は、CIE(民間情報教育局)は言論弾圧のためのオモテの組織でした。ウラの組織として、CCD(civil censorship detachment 民間検閲支隊)がありました。

日本人を含む9000人に近いスタッフで、新聞、雑誌、書籍はもちろん、手紙、電話の個人的な通信を監視していました(最新の研究『検閲官』 山本武利 新潮新書によれば、2万人の検閲官がいたという)。

憲法21条2項、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

日本の指導的立場に立つ、将来の政治家、官僚、大学教授、ジャーナリストの人々が、堂々と毎日毎日、憲法違反のために働いていました。

この知られていなかった言論弾圧を明らかにしたのは、『閉ざされた言語空間』(江藤淳 文春文庫)です。

江藤は1979年10月24日に米国図書館でCCDが押収した膨大な弾圧文書を発見します。

その結果が出版されるのは、10年後の1989年です。遅すぎました。戦後44年、すでに40歳になった団塊の世代は、戦前は軍国主義天皇制ファッシズム、戦後は言論の自由、平和と民主主義と教え込まれ、だれも江藤の画期的な研究に耳を傾けることができなくなっていました。さらに困ったことに江藤に続くGHQ言論弾圧の研究者が20年以上出ませんでした(2013年山本武利、2014年山村明義)。

CCDは、1945年9月14日に同盟通信社のラジオ放送を24時間ストップさせ、同年9月18日に朝日新聞を48時間発行禁止にしています。朝日はこの日から「桜散る戦争報道の新聞」から「大和心を捨てた平和と民主主義の新聞」になります。

なにを検閲したのか。いわゆる「プレスコード」ではありません。

江藤が発見した文書によれば、以下の主張が検閲され、弾圧されています。

○SCAP(連合国最高司令官)に対する批判。○極東軍事裁判批判。○SCAPが憲法を起草したことに対する批判。○検閲制度への批判。○戦争擁護、神国日本の宣伝(あと30項目続く)。

そしてもうひとつ、検閲をパスするためのお手本の文書が、ありました。

1945年12月8日から全国の日刊紙に10回連載されたGHQ製の「太平洋戦史」です。○「大東亜戦争」ではなく「太平洋戦争」を使う。○戦争は軍国主義者が起こした。○日本軍は凶暴な暴力集団だった。

戦争をコンテンツに発行部数を伸ばした「新聞の責任」やそれに熱狂し新聞報道に圧力を加えた「国民の責任」を、GHQは問いませんでした。

江藤が問題にしていたのは、検閲はない、とされていたことです。GHQの検閲は、日本人の自主規制で、加速しました。

これを言ったらまずい、これを書いたらまずい。忖度(そんたく)です。忖度は「平和と民主主義」への同調圧力となって、日本の社会に広がっていき、検閲は成功しました。

主要新聞の論調の基本は、日本国憲法改正反対、靖国神社参拝反対、軍備増強・戦争反対の、平和と民主主義になりました。

そしてルース・ベネディクトの日本絶滅の狙いも、「日本民族は30世紀初めに絶滅」、となって成功します。

3)レニ・リーフェンシュタール

理屈が長くなりました。映画を見ましょう。

原節子を日本を代表する女優として選び、国際舞台に登場させた、『新しい土』の映画監督ファンク監督の恋人であった、レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア 民族の祭典・美の祭典』です。

オリンピア』の冒頭は素晴らしい。オリンピックスタジアムが登場してくるまえの、最初の12分のオープニング映像で、だいたいの人はKO(ノックアウト)されてしまいます。

<○石の上に彫られた「OLYMPIA」のタイトル(オリンピア古代オリンピックが行われたギリシャの地名)。つづいて、「THE FILM OF THE Ⅺ OLYMPIC GAMES BERLIN 1936」・・・(略)・・・「PRODUCED  BY LENI RIEFENSTAHL」。すべては石に彫られた文字です。

○タイトルが終ると、カメラは古代遺跡の廃虚をゆっくりとさまよいはじめます。エンタシスの柱、石像、神殿。ギリシャの遺跡であることがわかってきます。石像の断片は、やがて神々の顔のアップに変わっていきます。

○そして、カメラが円盤を投げる彫刻をとらえたとき、像は生命を与えられ若者になり動き始めます。円盤を、やりを、砲丸を投げる若者。そして全裸の女性によるダンス。ギリシャの彫刻が理想にした、若者の肉体への賛歌。

○4人の女性が、空に向かって突き出した手に、オーバーラップして燃える炎があらわれます。

○炎のとなりに若者が登場し、たいまつに点火、聖火リレーが始まります。○海辺を、街を聖火が走ります。ギリシャブルガリア、・・・、オーストラリア、チェコスロバキア、ドイツ。空からそれぞれの国をたどります。

○スタジアムが見えてきます。10万人の歓声があがります。万国旗が揺れ、開会式入場のパレードが始まります。>

レニははじめダンサーでした。足を痛め女優としてファンク監督に売り込みます。採用され映画に出演し監督と恋に落ちます。撮影現場で映画作りを学び、女優から監督に変身します。そしてヒットラーに頼まれ、ナチスの宣伝映画『意思の勝利』、ベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』を撮ります。『オリンピア』のイントロもすごいが、競技を描いた本編も想像を超えています。

レニがまずカメラマンの養成から始めています。早い動きのできるカメラマンを、数カ月かけてトレーニングし、教育しました。

つぎはカメラポジションとカメラワーク。競技場に撮影用の大きな穴を掘りました。走り高跳び走り幅跳びでは、穴の中にカメラをすえ、ローポジションから競技者を見上げるようにして(煽って=あおって)撮影しました。

100メートルでは、コースに平行してカタパルト(レール)が敷かれました(使用されなかったそうです)。水泳の飛び込み競技では、水中カメラを用意しました。ちなみに水中の姿勢は競技の採点とは何の関係もありません。

水泳では競技者のとなりにボートを浮かせカメラを乗せ、表情のアップを撮っています。もちろん本番のレースではそんなことはできません。練習のときに押さえたカットを本番のレースの映像にインサートして使いました。

さらにすごいのは(ひどい!)、棒高跳びです。夜間になって撮影できなかった、メドウス選手、西田選手と大江選手の歴史に残る死闘を、昼間に再撮しています(『オリンピアナチスの森で』沢木耕太郎著 集英社 p26)。

レニ・リーフェンシュタールの仕事を、ナチスのファッシズムに協力したからと、否定することはできません。『オリンピア』のみならず『意思の勝利』も、映画の発明をしています。

戦後民主主義を描いからいい映画だなんて言えません。戦後民主主義の象徴だから原節子はいい女優だ、という石井の主張にも首を傾げます。

レニは60歳になってアフリカ・ヌバ族を撮影しています。日本では石岡瑛子がポスターを作り有名になった作品です。さらにレニは70歳を過ぎてからスクーバ・ダイビングのライセンスをとり、100歳まで海底映画を撮り、101歳で亡くなっています。

 

4、原節子

1)ファンク監督

原節子の真実』の著者石井妙子よりも、解説を書いた『テルマエ・ロマエ』の漫画家ヤマザキマリの方が原節子の魅力をしっかり捉えています。

東京物語』を見たイタリアの友人たちが原節子についての感想を言いました。

「イタリア人たちは皆、登場人物の紀子を演じた原節子を、”あの聖母のような様子の”だの”女神的な”など形容した(p.428)」。

そうなのです。だから『新しき土』のオーディションに来日したドイツ人のファンク監督は、当時の日本を代表する女優に目もくれずにデビューして間もない原節子を選んだのす。

「ファンク監督の審美眼は、若い原節子の美しさの中に、濁りのない清らかさと、人種を超越した神話の女神のような強さを認めたのだ(p.422)」

以下、誰が原節子の魅力をどう表現したか、並べてみます。

千葉伸夫「泣いているのか、笑っているのかはっきりしない(中略)アルカイク・スマイルと呼ばれるのに似た原の表情。ギリシャのアルカイク時代時代の彫刻、中国の六朝時代や日本の飛鳥時代の仏像にみられる唇の両端が上向きの微笑に似た表情(千葉p.8)

川嘉多かしこ「原の美しさに、ほかならぬ川喜多夫人が讃嘆した(中略)『今日は赤の総しぼりの振袖を着せる。うっとりする程美しい。こんなに飽きの来ない深みの美しさを持った人は日本人では少ないと思う』と」(千葉p.54)

山本薩夫キャメラをアップにして見ていると、顔はきれいなのだが、どうも日本人みたいではない。目は青くないが大きく、眼窩がくぼみ、鼻が高く、骨格は外人である。背も大きい。三代くらい前に外人の血が混じっているのではないかという気が私にはしてきたのである。(中略)聞いてみると、おじいさんが下田の人だという。『下田だったら、ありうるぞ』と、私はいよいよそれを確信していった」。(千葉p.75)

島津保次郎「島津は、原を”百万ドルのダービー馬”と評した」(千葉:p.94)

近代映画「彼女の美しさは、世の常のものではない。それは、女の上につねに美を索めながら彷徨をつづける男の胸に、永遠の憧憬を喚びおこすのだ」(千葉p.135)

石坂洋次郎「原さんの風格ある美しさは日本映画の貴重な財産だと思う(中略)女優さんの美しさの中には、何処かミーチャンハーチャンが好む卑俗さが秘そんでいるものだが、原さんにはその卑俗さが全然感じられない(千葉p.171)

吉村公三郎「こんな立派な顔をした女優が日本にもいたのか」。圧倒的な美しさ、いうだけではない。内面から滲み出る知性、人を寄せつけない風格と威厳(中略)田中絹代水戸光子高峰三枝子らとは、まったく異なる空気を節子はまとっていた。(p.238~)

小津安二郎原節子と小津さんの最初の出会いは印象的だった。原さんを見たとたん、ボーッと小津さんの顔が赤く染まった。『節ちゃんて美人だなあ』(千葉p.174)

2)『麦秋

原節子の最高傑作は『麦秋』(1951)です。もちろん最高傑作は「紀子3部作」で、中でも『東京物語』ですが、私は『麦秋』が好きです。千葉伸夫『原節子』も、『麦秋』を傑作、と特筆しています。

麦秋(ばくしゅう)とは麦が収穫される初夏のことです。

美・・・『麦秋』は主人公の紀子(原節子)の結婚話です。紀子は鎌倉で両親と兄夫婦、その子どものふたりの男の子と暮らしていました。

兄は医師、紀子は丸の内のオフィスで社長秘書を務めるOLでした。もう28歳になったしまった紀子に、社長が縁談を持ってきたります。

ある日、近所に住む幼なじみの家族が仕事の都合で地方に引っ越すことになります。

家族は、紀子と同じ年頃の若い医師、その母親、そして幼い娘の3人暮らしでした。医師の妻は亡くなっていました。転勤の前日、紀子はお別れのあいさつにその家族を訪問し、母親だけに別れのあいさつをします。その席で独身の医師の母親が、冗談のようにして言い始めます。

「紀子さんのような人が、家にお嫁に来てくれると、いいのに・・・」

ところが紀子は、とんでもない反応をします。

「私みたいな、売れ残りでよかったら」

母親はわが耳を疑い、飛び上がらんばかりに喜びます。結婚話がわずかの数十秒で決まります。

女優原節子(紀子)の美しさはこのシーンに凝縮されています。

ベージュのセーターにロングプリーツの同系色のスカート(もちろん白黒映画だから色は想像)、ヘアはセミロングでセンターで分けています。

原節子はわずかに首を傾げながら、天使のような笑みで、「私で、よかったら」、と答えます。

その顔には生活感などまるでありません。対して母親役の杉村春子は生活の現実のみがにじみ出た表情をしています。

原節子は、人間世界に「美」の天使として、降りてきました。

真・・・紀子は自宅に帰り、引っ越しを明日に控えた幼なじみとの結婚の話を、打ち明けます。そして深夜の親族会議が開かれます。兄夫婦、両親、みんながみんな、紀子の結婚に反対します。兄が言います。

「お前のことは家族のみんなが心配していた」「それをひとりで勝手に決めて」「後悔することはないのだな」

原節子(紀子)は、4人の厳しい視線に動じません。そしてきっぱりと、「(後悔することは)ありません」、と答えます。自らの運命(さだめ)を知っていました。

原節子は、神の使命を帯び「真」を伝えるために、この世に来ました。

善・・・映画のラストで、紀子と義姉が浜辺に座り、来し方行く末を話すシーンがあります。白いブラウス、ヘアはいつものセミロングのセンター分け。なぜ結婚を決意したか、紀子は告白します。

「子どもぐらいある人の方が、信用できる・・・」

原節子(紀子)は、透明な表情で、未来の遠くを見ながら話します。彼女は、母親を失った幼女を助けるために、この世に来ました。そればかりでありません。妻を亡くした若い医師は、戦争で亡くなった紀子の兄の親友でした。兄の霊に答えるために結婚を決意しました。

原節子は、「善」の道、義の道を歩むために、生まれてきました。

3)キャンティ

「神秘で高貴な空気に包まれていた・・・けれど気さくでお優しい方だった」(女優杉葉子日経2015 11/26)。「スクリーンで見るきりっとした美しさとは別の、明るく快活な笑顔」(女優香川京子日経201512/29)。

原節子とは何者だったのでしょうか。私たちと同じ人間のようでしたが、ふつうの人間ではありませんでした。私たちは所詮、野鴨ですが、原節子は白鳥でした。私たちが野良犬だとすれば、原節子とは伝説の麒麟(キリン)でした。

喜怒哀楽を超越し、美しく悲しいだけの音階だけを並べたモーツアルトの音楽でした。

原節子には、真と善と美が、ありました。

原節子には岸恵子という後輩がいます。小津安二郎監督の『東京暮色』(1957)で、共演する予定でした。前作の撮影が延び岸恵子の出演が不可能になり、役は有馬稲子に代わります。時計の針を逆回転させたいほど、残念な出来事でした。

原節子岸恵子、横浜出身の二人は、話が合ったはずです。

岸はすでに国際的に活躍していました。英国のデビッド・リーン監督から出演依頼を受け、イヴ・シャンピ監督の作品に出演し、フランス行きを約束していました。

「卵を割らなければ、オムレツは作れない」が、シャンピ監督から岸に贈られた言葉です(「私の履歴書岸恵子」 日経2020.5)。

岸はそのように生きました。岸は80歳を過ぎても、今なお、セックスシーンを含む恋愛小説を発表しています。

対して、原節子は「卵を割る」ことができませんでした。

<徹底した男性優位の日本映画界で、彼女は常に苦悩していた。歯ぎしりをし、怒りを滲ませつつ、最後は諦観に至り、静かに映画の世界から去っていった(p.389)>。

そんな石井妙子のリベラルな抗議を原節子は認めません。

クリエーティブでエレガントな生き方もあったのに・・・95歳まで生きながら、人生の半分以上世を捨てて生きました。

東京・六本木のはずれにイタリアン・レストラン「キャンティ」があります。『新しき土』のプロモーションでドイツ・フランスに訪れた時に、原節子が会っている川添紫郎が開いたお店です。

映画、放送、芸能、政財界のお洒落が集まるヨーロッパのサロンのようなお店でした。

フランク・シナトラ黒澤明三島由紀夫丹下健三小澤征爾、石津健介、イヴ・サンローラン岡本太郎、黛敏朗・・・が、かつて、集まっていました。

キャンティに、2021年3月の夜、鎌倉から、100歳の白鳥、原節子さんが、こっそり現れます。

初対面の私はワインを飲みながら、(もちろんワインは思い出のドイツワインの白、モーゼルリースリング)、原節子さんに向かって、ソフィア・コッポラの最新作『オン・ザ・ロックス』について話します。

女優として父・フラシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』でデビューし、やがて自らも映画監督になり、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞に輝いたソフィアの物語です。

原節子さんは、瞳を輝かせ笑みをたたえ、私の話にうなづいてくれます。そして気がつけばもう午前1時。私が鎌倉まで送っていくことになります。

クルマの中で、こんどはレニ・リーフェンシュタールの話をします。女優から映像作家になったレニの物語です。原さんは、さらに目を輝かせ、私の話を聞いてくれます。そこで質問します。

「ドイツでドキュメンタリー映画オリンピア』を生んだレニは1902年生まれ、アメリカでアニメの「ミッキー・マウス」を生んだウォルト・ディズニーは1901年生まれ。同じ時代なんです。歴史の皮肉ですね。ところで原さん、レニとウォルト、どちらが、映画にとって重要だったと思いますか?」

原さんは『麦秋』で見せた天使の笑顔で、「私は、レニ!」と答えます。

「後悔することはありませんね?」と再び、聞き返します。

「ありません!」これまた『麦秋』のように、きっぱり答え、そして天使の笑顔に戻りました。

クルマは、国道1号の原宿の交差点を左折し、鎌倉に近づいていました。>

もしあの時1957年、37歳の原節子が25歳の岸恵子と出会っていれば・・・硬い殻の原節子という卵は割れていたかもしれない。残念でなりません。

 

End

2021年3月3日(雛祭り)