TED TIMES 2020-29「ゴッドファーザー5」 5/14 編集長 大沢達男
『ゴッドファーザー』で、ひとつの映画史が、終わる。
「ゴッドファーザー」という言葉は、直接的には「ドン」や「ボス」を意味し、本来的には洗礼式に立ち合い、その人間の一生を見守る、宗教的な意味合いを持った言葉です。
にもかかわらず、映画はことごとく神に背きます。『ゴッドファーザー』(1972)のエンディングでは、洗礼を受けている赤ん坊の顔に銃や殺害された死体がモンタージュされ、『ゴッドファーザーIII』のエンディングでは「聖」メアリーがむごたらしく殺され、加えて『ゴッドファーザーIII』では、バチカン、法王に対して、疑いの眼差しを向けています。さらに、主人公マイケルにも救いはありません。妻に離婚され、息子に後継を拒否され、娘を殺されます。孫と遊んでいて倒れ、息を引き取ったビト・コルネオールのように、マイケル・コルネオールも誰もいない昼下がりの広場の椅子に座ったまま崩れ落ち、倒れたままになります。最後を看取ったのは、子犬一匹でした。神はいるのでしょうか。コッポラ監督は、神の不在を主張しているのでしょうか。
しかし、これらの問いも虚しくなります。イスラム教徒によるキリスト教徒の攻撃「9.11」以降、文明の中心にあると信じられていた一神教の神話は崩壊しました。
3)映画の発明
さて映画『ゴッドファーザー』をどう評価すべきでしょうか。
第1問。映画史に残るか。「残ります!」。撮影、照明、編集、音楽、MAV(映像と音楽)、そして監督。どれもが映画づくりの教科書です。お手本です。
『ゴッドファーザー』、『ゴッドファーザーII』が公開された頃の60~70年代のアメリカでは「ニューシネマ」と呼ばれる映画が流行っていました。
『俺たちには明日はない』(1967年)、『イージー・ライダー』(1969年)、『イチゴ白書』(1970年)などです。確かに時代を捉えた素晴らしい映画でしたが、いかんせん「軽小短薄」、軽量級でした。『ゴッドファーザー』は重量級、まさに「重厚長大」でした。金のかけ方が違っていました。『ゴッドファーザー』こそ、映画の中の映画でした。
第2問。3大監督のなかで一番か。もちろん「コッポラ監督は別格!」です。
ジョージ・ルーカスは『アメリカン・グラフィティ』、『スター・ウォーズ』、スティーブン・スピルバーグは『ジョーズ』、『E.T.』です。ともに、CGを使った映画です。基本はファンタジー、お子ちゃま映画です。対してコッポラ監督は時代と戦うリアリズムです。現実のニューヨークを大道具と美術の力で歴史的なニューヨークに変えて撮影したアナログです。
第3問。映画を発明しているか。残念ながら、「NO!」です。
第1に、コッポラ監督は映画を壊そうとはしませんでした。フィルムで撮影し、手作りで編集し、デジタル技術に頼らない最後のフィルム映画でした。
第2に、コッポラ監督の映像は古典主義でした。絵画でいえば、バロック絵画のレンブラントやベラスケスです。同じイタリア人でいうなら、カラバッジオです。確かなデッサン力、光と影、そして深い色彩で、人間のドラマをしっかり描いた、アーティザンです。
第3に、コッポラ監督の狙いは映画の発明ではなく、「ホーム・ムービー」でした(『The Godfather DVD COLLECTION』「監督フランシス・フォード・コッポラ 制作ノート」での発言)。『ゴッドファーザー』は、まずビト、マイケル、ビンセントと続くコルネオール・ファミリー、つぎに父で作曲家カーマイン、妻で映画監督エレノア、娘で女優ソフィアのコッポラ・ファミリー、そして第1作と第2作の同じスタッフが20年後の第3作のために再結集したコッポラ監督ファミリーのファミリー・ムービーでした。
“I spent my life protecting my family.”(「俺は家族のために体を張って生きてきた」。人でなしとなじる妻ケイをマイケルは怒鳴りつける)
10年ほど前に訪れたサンフランシスコの「カフェ・トリエステ」を思い出します。そのカフェで、コッポラ監督はタイプライターを持ち込み(パソコンはまだなかった)、シナリオをまとめました。いつか再び、カフェ・トリエステを訪れ、コッポラ監督に祝杯を捧げましょう。