コンテンツ・ビジネス塾「堤清二」(2009-26) 7/28 塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)あすの仕事につながる
ヒントがあります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、無印良品(Muji)
あなたは、ユニクロ派ですか、ムジ派ですか。堤清二(つつみせいじ)さんは、ユニクロ(1984)よりまえに「無印良品=むじるしりょうひん」(1983)を始めた人です。
1)同じ品質のものが、ブランドというだけで3~4割高い、のはおかしい。
2)品質を安価で提供したい。安い「量」販店ではなく、安い「質」販店を目指す。
3)人間らしさの上に立った、合理性の思想で、商品を開発しする。
4)衣料品、食料品だけでなく、文房具、雑貨、インテリア、住宅関連商品も扱う。
5)社会の評価が従業員の労働意欲を左右する。メディアが取材しやすいところにショップを作る。以上がムジの狙いです。そして1983年、東京渋谷・青山学院前の国道246沿いに、無印良品1号店がオープンします。ムジは、時代をはるかに先取りしていました。それは、堤清二というリーダーなしでは考えられないことでした(参考『叙情と闘争』辻井喬 中央公論社。以下も同じ)。
2、異母兄弟の戦い
堤清二は、西武グループの創業者堤康次郎と内縁関係にあった女性(後に入籍)の子として生まれます。1964年に父・康次郎が亡くなったとき、後継者は55年から西武百貨店で働いている清二だ、と思われていました。ところが後継は、異母弟の堤義明になります。
義明は、西武鉄道とコクド(国土計画)、清二は西武百貨店と、領地が分割されますが、二人は反目し対立するようになります。
義明の経営者としての活躍は、華々しい。プロ野球西武ライオンズのオーナー。日本オリンピック委員会初代会長、移動はヘリコプター。80年代には世界一の大富豪(フォーブス誌)として、世界にその名を知られるようになります。義明の会社を清二は、「幹部が事業地を視察する際には必ず20人以上の社員が整列して出迎え、最敬礼しなければ鉄拳制裁に見舞われるようなカルチャー」がある、とからかいます。義明には体育会系のDNAが流れていました(2004年、すべてから辞任)。
対して清二が手掛けた事業は、まず「無印良品」、つぎに現代のメセナの先駆けとなるような「セゾン現代美術館」、さらに「西武カード」を改めた「セゾンカード」。清二は一日も早く、義明の西武鉄道とコクドから離れたかったのです(1991年、セゾングループ代表辞任)。清二には芸術系のDNAが流れていました。「辻井喬(つじいたかし)」のペンネームの詩で、室生犀星詩人賞、高見順賞、小説で平林たい子賞を受賞。清二の芸術家として活躍も、華々しいものでした。
3、経営と芸術
私鉄経営の基本型は、阪急電鉄の「小林一三」によって築かれました。宝塚歌劇団と動物園を作り、ターミナル駅と結び、沿線を住宅地として開発する。そしてターミナル駅には百貨店を開業しました。東急も西武も小田急も、みな小林一三に学びました。
とりわけ清二は、小林の演劇への熱意に惹かれます。そして経営と芸術について自らの現実的な課題として考えます。しかしあるとき小林一三の小説を読みその不出来にがっかりし、結論を出します。芸術家と経営者は両立しない。だから小林は経営者として成功した。
(セゾングループの解散で)多くの社員が職を失わなければならなかったことは、ぼくの犯した罪のなかで一番大きな罪。(だから私は経営者として失格した)。経営者・堤清二VS芸術家・辻井喬の戦いは、芸術家の勝ちで終わったのでしょうか。清二は、経営者の堤康次郎の「妾(めかけ)」の子でした。康次郎には5人の妻がいました。清二の苦労の母は、大伴道子という名の歌人です。
○泣きわらひかなしき人の世にまじる事に耐え得でひとり生くるも
○いとせめて涙少なくあらしめと12の吾子(あこ)の行末おもう
○母上よよくこそ耐えてと涙のむ子よかなしみはふかきこそよし
「12の吾子」とは、清二です。「涙のむ子」とは、清二です。
そして言います。いつしか、母を守らなければならない、母を助けなければならない子供なのだと思うようになっていた。つまり芸術家の清二は、母を守るために経営者をやって見せたのです。