ディズニーランドで結婚しよう。

クリエーティブ・ビジネス塾14「ディズニーランド」(2012.4.25)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、ディズニーで結婚式
「ディズニーランドのシンデレラ城でキミと結婚しよう!」最強のプロポーズが可能になりました。
「ディズニー・ロイヤルドリーム・ウェディング」の結婚式プランが発表されました(日経3/24)。
早速ウェブサイトを見ると、1日1組、申し込み多数の場合は抽選、しかも4月分申し込みは打ち切りとありますから、人気が沸騰しているのでしょうか。
ディズニーランドが米国・ロスアンゼルスでオープンしたのは1955年、フロリダのウォルト・ディズニーワールドが1971年、東京ディズニーランドが1983年、ディズニーランド・パリが1992年、香港ディズニーランドが2005年、そして上海ディズニーランドが2015年オープンの予定。ディズニーランドは、不滅のビジネスモデルになっています。
2、ウォルト・ディズニー
ウォルト・ディズニーは(1901~1966)は、4人兄弟の一番下、ほかに妹が。父はアイルランド移民の大工で家庭は貧しかった。兄2人が家出するほど貧しかった。ウォルトは、9才のときから6年間新聞配達のアルバイトを強いられています。朝3時30分起床で朝刊、夕方は夕刊。その他駅で新聞売り、薬の配達もしました。小遣い稼ぎではない、金は父に取り上げられていました(『狂気の創造 ウォルト・ディズニー』P.19 ダイアモンド社 ニール・ゲイブラー著 中谷和男訳)。
1)ミッキー・マウス
ウォルトは18才のときに兄たちと同じように家出をします。父の反対を押し切って、絵を描いて生きていく夢のためにです。
19才のとき後にミッキー・マウスを共同開発することになるアブ・アイワークスと出会い、会社を設立します。広告スライド、アニメーションの仕事を始めます。その後会社はつぶれ二転三転、失意の中で、いたずらネズミをアニメのキャラクターにすることを思いつきます。名前はミッキー・マウス。ウォルトがデザインし、アイワークが仕上げました(ミッキーの目はアイワークスに似ている)。
27才のときミッキーを主人公にした世界初のトーキー・アニメーション『蒸気船ウィリー』を完成させ、大ヒットになります。
2)白雪姫・・・ウォルトは36才のとき、長編カラーアニメーション映画『白雪姫』(1937)を完成させます。『蒸気船ウィリー』はわずか約7分、『白雪姫』は83分。アニメは映画の脇役から、主役にのし上がりました。 その後、『ピノキオ』(1940)、『ファンタジア』(1940)、『ダンボ』(1941)、『バンビ』(1942)、『シンデレラ』(1950)と歴史な傑作が続きます。
3)ディズニーランド・・・ウォルトは54才のときにディズニーランド(1955)を完成させます。出資先のABC(米放送ネットワーク)へのプレゼンテーションで使ったディズニーランドの概観図が残っています。ウォルトと美術監督のハーブ・ライマンが、一睡もせずに42時間で描き上げたものです。
イメージに寸分の狂いもありません。アドベンチャーランド、フロンティアランド、ファンタジーランド、トゥモロウランド。東京ディズニーランドと同じです。ウォルトのイメージの確かさに驚きます。
3、ドリーム
It all begins with dreams.(すべては夢見ることから始まります。『生誕110周年記念ウォルトディズニー展』 P.5 NHKエンタープライズ)。バイトバイトで遊ぶ時間がなかったウォルトは、キャッチボールも満足にできないほどでした。しかし絵を描く夢を捨てず、成功への道を歩みつづけました。
Disneyland will never completed. It will continue to grow as long as there is Imagenaiton left in the world.(ディズニーランドは完成しません。世界に想像力がある限り成長を続けます)。
ウォルトは65才(1966)で亡くなります。しかしその後も、ディズニーランドは発展し続けました。
ディズニーランドで結婚する。その夢を最初に実現したのは、ウォルト・ディズニーその人でした。1955年7月13日、ウォルトと妻のリリアンは結婚30年の記念パーティを、開園4日前のディズニーランドで開いています。もちろんスターを呼んでのディズニーランドのお披露目を兼ねたものでしたが。やっぱり、ウォルトは夢見る人でした。