原節子は、やはり「永遠の処女」です。

クリエーティブ・ビジネス塾13「原節子」(2012.4.16)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、『新しき土』の原節子
「永遠の処女」と呼ばれる美しい女優がいました。戦前から戦後のかけて活躍し、絶大な人気を誇り、ある日突然表舞台から姿を消した原節子(1920〜)です。
彼女が16才のときに主演した映画『新しき土』(アーノルド・ファンク、伊丹万作共同監督 1937年日本・ドイツ合作)が、東京都写真美術館で上映されました。
ドイツ留学から帰る青年はドイツ人女性を同伴している。しかし青年には日本で待つ許嫁(いいなずけ)の女性=原節子がいた。ヨーロッパの自由を知った青年は日本の旧い習慣に反発していた。許嫁の父はサムライの娘だから我慢しろという。しかし娘は絶望し、突飛な行動をすることになる。
原節子は美しい、アイドルではありません、16才にして完成された女性の美しさを持っています。
まず、ドイツ人女性と並んでカメラに写っても、全く負けていません。すらっとしたスタイル、彫りが深い顔立ち、鼻ぺちゃの東洋人ではありません。日本にこんな女優はほかにいません。
次に着物姿。これも決まっています。立ち居振る舞い、仕草は流れるように洗練されています。
さらに、野良着姿で農家の母を演じます。白い歯は健康に輝き、その瞳には明日があります。
2、「紀子3部作」の原節子
原節子は15才でデビューし42才で引退するまで、100本を超える映画に出演しています。
ですが、原節子といったら小津安二郎監督、それも紀子という役柄を演じた「紀子3部作」。『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)です。
1)晩春・・・妻に先立たれた父のために、結婚もせず、父に尽くす娘の物語です。
紀子「私このまま、お父さんといたい、どこにも行きたくない。お父さんとこうしてずっと一緒にいるだけでいい。(微笑し)それだけで私は楽しい。お嫁に行ったって、これ以上の楽しみはないと思うの」
場所は京都の旅館の一室。紀子は、ベージュの半袖のブラウスを着て、髪はわずかに肩にかかるほどで、やわらかくパーマがかけています。父は紀子の言葉がうれしくてしょうがない、でも紀子の自己犠牲を肯定するわけにはいかない。で、必要以上に真面目な顔になり、結婚を説きます。
2)麦秋・・・戦争で死んだ兄のために、兄の友人に嫁ぐ妹。その友人は妻に先立たれ、一人娘をかかえる人でした。義姉がその結婚を心配します。
紀子「あの人に子どもがあることを心配しているんじゃないの。(中略)私、子ども大好きだし。(中略)ほんとはねお姉さん。(海の彼方を見つめ)子どもぐらいある人の方が、かえって信用できる」
湘南の浜、砂丘の上。義姉と妹は並んでしゃがみ、背景には雲と青空が広がっています。紀子は襟を立てたブラウスにスカート。義姉は、紀子の現実重視と保守主義の言葉に頼もしさを感じます。
3)東京物語・・・次男のもとに嫁いできた紀子。しかし次男は戦死。紀子は再婚せずに両親に尽くす。父は妻が亡くなった後、紀子をほめ、感謝の言葉を口にします。
紀子「(はじらいながら)私そんなおっしゃるほど、いい人間ではありません。(中略)お父さまやお母さまが言ってらっしゃるほど、そういつも省二さん(次男)のことを考えているわけではありません」
場所は、尾道の父の家の一室。袖は短め、やや胸が空いた白系のブラウス、髪はうしろにまとめうなじを見せ、ややセクシーな紀子。父は紀子の貞節に感動し、母の形見の時計をプレゼントする。
3、現実の原節子
原節子は本名合田昌江(あいだまさえ)、父は日本橋の貧しい商人、母は病弱、女5人、男2人、7人兄弟の末っ子でした。15才で映画の道に入ったのは、姉の一人が映画監督の下に嫁いだこと、兄が映画のカメラマンであったことがありますが、家計を助けるためでした。
原節子は、映画の中の「紀子」その人でした。長兄をシベリアでの病戦死で失っています。さらにキャメラマンの次兄を自らの目の前で起こった撮影中の列車事故で失っています。
原節子は、水着を着ない、キスシーンをしない、舞台挨拶をしない、で有名でした。
女優としてだけでなく、私生活でも「紀子」のように、自己犠牲、保守主義貞節の人でした。
「永遠の処女」は、現実でも永遠の処女、独身を貫きました。