TED TIMES 2020-23「皇室伝統」 5/1 編集長 大沢達男
皇室がある日本に生まれたことを、どう思ってますか。
大君の御詔(みこと)の前に 泣き伏して 至らざりしを悔い詫びる(昭和万葉集 巻7 西田アイ子)
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1、津田左右吉
皇室はあった方がいいのか。ない方がいいのか。どちらが正しいか。わかりません。しかし私たちは天皇がいて皇室がある国、日本に生まれました。そして日本語を話しています。
日本文芸は皇室とともあります。私たちが使う日本語も同じです。日本語の特徴である、敬語、謙譲語、丁寧語は皇室なしでは考えられません。まず『万葉集』、次に醍醐天皇の『古今集』、後鳥羽院の『新古今集』などの勅撰和歌集が、そして皇室の恋愛物語である『源氏物語』。これらの和歌、物語は、日本語の根幹になっています。
皇室が良い悪い、を問うことはできません。日本語を話し、日本語を書く私たちは、皇室とともにあります。あるいは、皇室の好き嫌い、はあってもいいのかもしれません。でも皇室の否定はできない。皇室は日本の歴史と伝統そのものです。2世紀ごろに始まったヤマトはそれから300年ほどかけて、5世紀には日本民族を統一しています。
1)皇室は日本を征服した異民族ではありません。自然の成り行きで周囲の諸小国を帰服させました。
2)皇室は異民族と戦争をしませんでした。天皇は政治らしい政治、事業らしい事業をしませんでした。だから失政、失敗がありませんでした。
3)天皇には宗教的な任務と権威がありました。皇室には文化上の地位がありました。だから武力や権力を示す必要がありませんでした(『古事記及び日本書紀の研究』 p.10~46 津田左右吉 毎日ワンズ)。
物は試し。理屈を言ってないで、近所を散歩してみればわかります。日本は神社ばかり、10万の神社があります。たとえば、川崎・新百合ヶ丘の私たちのすぐそばには「白山神社」(1706年以前に創建)があります。祭神の白山姫命は、国産み・神産みの神、イザナギ、イザナミを仲直りさせた縁結びの神です。次に近所には「琴平神社」(1570年創建)、さらに足をのばせば「高石神社」(1634年創建)があります。ともに天照大神を祀っています。私たちは地域社会は皇室とともにありました。
2、片山杜秀
近代になると皇室は「皇国史観」という言葉で語られ始めます(「皇国史観」という言葉はあまりよい言葉ではない。「唯物史観」のように西欧の価値観を日本に当てはめている)。西欧近代の中で生き残るために「天皇を中心とした国家」が必要になってきたからです。
1)水戸光圀。まず江戸時代の水戸光圀の『大日本史』があります。天皇が将軍より上を強調した水戸学です。覇道の将軍より王道の天皇を尊ぶ「尊王」思想です。
2)阿部正弘。ペリー来航で水戸学の影響を受けていた老中阿部正弘は前代未聞のミスをします。開国すべきか否か。孝明天皇の意見を聞いてしまいました。もちろん答えは「ノー」。混乱が始まります。大老井伊直弼は幕府政治を本道に戻すべく、吉田松陰ら「志士」を捕まえます。「安政の大獄」。そして井伊大老は桜田門外で水戸の浪士に暗殺されます。「桜田門外の変」で「将軍ファースト」は終わります。
3)本居宣長。儒教「からごころ」の影響を受けた「水戸学」に対抗して現れたのが、国学「やまとごころ」の本居宣長です。天照大神はお日さまそのもの、太陽の子孫として地上のお日さまあるのが天皇である。天皇はあるがまま、そこにいるだけでありがたく、日本は永遠不滅の神の国になります。万葉集、和歌を研究する国学を支えたのは、富商、富農、医者、神官・・・江戸の中期以降に力をつけてきた民衆層でした。
4)柳田国男。「天皇は稲作の司祭である」が、柳田国男の天皇観です。天皇即位の大嘗祭は、規模は違うが、秋の実りを祝う村祭りと同じであると結論します。戦争に負けても日本人が稲を育て、米を食べることは変わらない。天皇は国民と一緒になってお祭りをして伝統を文化を守っていただければいいのです。
5)網野善彦。網野は非農業民に注目します。商人、金融業者、鍛冶、鋳物師、手工業者、医師、炭焼、牛飼、酒造、芸能民、遊女、乞食。これら職能民、芸能民は、聖別された集団として神仏に奉仕する神人(じにん)、寄人(よりうど)、天皇に贄(にえ)を捧げる贄人(にえびと)と呼ばれました。もちろんこれらの人は第二次産業、第三次産業の現代の主役につながっています(『皇国史観』片山杜秀 文春新書)。<続く>